9-1 信濃 帰路1
「引いてる! 引いてますっ!」
幸松の声援を受け、孫九郎は両足を踏ん張った。
ぐぐっと手に重みが掛かり、今度こそ! と期待に胸が躍る。
慎重に、慎重にだぞ! ……と、ゆっくり竿を引きながら、指先に神経を集中させる。
リールがないので、引き上げるのにかなりのテクニックを要するのだ。
竿先がしなり、水面に大きな魚の背が見えた。
「あ、釣れました」
真横で次郎三郎が平坦な口調でそう言って、一瞬気がそれたのが良くなかった。
「ああああっ」
幸松が大きな声を上げる。
瞬きひとつ分の間もなく、魚は逃げてしまった。
孫九郎は、一気に重みのなくなった竿先を睨み、歯噛みした。
「ぐぬぬぬ」
「あ、兄上! もう一度ですっ‼ 今餌を……」
山育ちの次郎三郎は釣りが上手く、孫九郎が一匹逃がす間に三匹釣っている。
勝負をしているわけではないが、釣果の差は歴然だ。
釣りに身体の大きさや力の強さは関係なく、だからこそ上手くなりたいのに、孫九郎が吊り上げる魚のサイズも数も、年下の小姓らにすら劣る。
絶対にコツをつかんでやると、幸松がつけてくれた立派なミミズを素早く水面に投げた。
場所は、たったいま次郎三郎が釣り上げたところだ。
「お楽しみのところ失礼いたします」
三浦藤次郎が、多分に笑みの含んだ口調で声を掛けてきた。
「しばし待て、この一投が……」
「軍議の用意が整いました」
「もう少し」
「また逢坂様に叱られますよ」
今や孫九郎を叱ることができる者は多くないが、藤次郎もその数に入っている。
逢坂の名を出してはいるが、ネチネチとたしなめてくるこの男もけっこう容赦ない。
孫九郎は渋々と、針を落としたところだった竿を引いた。
「……あ」
ぐっと腕に力が掛かった。
油断していたのでつんのめりそうになり、左右から幸松と次郎三郎が竿を放り出して捕まえてくれた。
「あ、危ないではないですか! 気を付けてください‼」
藤次郎が慌てて数歩の距離を詰めてきて、川岸に落ちる寸前の子供たちをまとめて引っ張った。
いや落ちたとて。川の流れは速いが浅瀬だ。せいぜい袴の裾が濡れる程度だろう。
悔し紛れにそう返そうとしたが、言い訳するのも大人げないと言葉を飲み込んだ。
「だいじない」
「だいじがあっては困ります」
「竿が流れた」
「誰かに拾わせます」
「最後のあれは惜しかった。大物そうだった」
「そうですねぇ」
ちゃんと釣り上げることができたらな。
言外に聞こえるそんな台詞に、じろりと藤次郎を睨み返した。
今川軍は、帰国の途についている。
行きよりも軍勢は嵩が増し、大所帯になっている。
とはいえ、増えた分の多くが非戦闘員だ。中には農民の家族もいた。真田郷の者たちだ。
産後まもない源九郎叔父の奥方はじめ、赤子を含む幼い子供らは、小荷駄隊の荷馬と同行している。
本隊はその足並みにそろえる形での行軍なので、行きよりもかなりゆっくりとした進みだった。
帰りはどこかに気兼ねすることなく、堂々と表の街道を進んだ。
今川軍の行く手を遮るものはなく、それどころか、先ぶれの使者に対して是非立ち寄ってくれと好意的な申し出をしてくる所すらある。
経路としては、今回は諏訪領を通らずその北を抜けていくルートだ。
その道を選んだのは、諏訪家からの書簡を見て、二木が非常に意地の悪い表情をしたからではない。
同行する者たちに負担が少ない道中を最優先にした。
とはいえ、信濃はどこを通っても難所が多い。楽な道はない。
行きの二倍は時間が掛かると覚悟している。
軍議とはいえ、慣れた顔ぶれだ。
行きと違うのは、もはや孫九郎が身分を偽ることなく、堂々と軍議の首座に座っている事か。
右隣に源九郎叔父、左隣に天野殿、二木と幸松の席はそれの隣だ。
次郎三郎は、孫九郎の小姓として勤めることになった。
とりあえずは帰りの道中だけの予定だが、本人の希望と適性を見て今後のことは考えようと思っている。
孫九郎を先頭に軍幕をくぐると、待ち構えていた将たちが床几から立ち上がった。
気になったのは、本陣の隅にレンジの姿があったことだ。
また何かあったのか?
視線があって、軽く頭を下げられた。
「三河からの書簡が届きました」
二木の報告に、皆の視線がそちらを向く。
表情が渋いのは、書簡の相手が勘助だからか。
好き嫌いの激しい……いや気に入らない相手の方が多い二木が、特に敵対心をむき出しにしている男だ。
勘助には、もしかすると信濃に派兵してもらうかもしれないと言っておいたのだが、その必要はなくなった。二木の口ぶりから言っても、そのことではないのだろう。
松平が動いたか? 父との婚姻を望むという事は、融和の方向を模索しているのだと考えていたが……
「いえ、三河ではなく美濃です」
「美濃?」
美濃と聞いてイメージするのは元油売りと言われている斎藤道三だが、まだその時代には早いはずだ。
ならば土岐氏か。そこも内輪もめが続いていると聞いている。
朝倉家が味方している方が優勢のようだが……え、まさかあの宗滴殿が敵対するとか?
京で知己を得た、僧侶というより仁王のような男の顔を思い出す。
いやいや、今川と美濃が揉めるような案件はなかったはずだ。
「土岐兄弟の兄のほうが、今川に保護を求めているそうにございます」
「……えええ」
思いっきり嫌そうな声が出てしまった。
「なんでも、妹の縁談の件で親交を深めたとか」
二木がジロジロと孫九郎を見て、胡乱気な顔をする。
縁談? 父のではなく?
孫九郎自身のことなら、この二年で山ほどの釣書を受け取っているが、そのどれにもいい返事をした覚えはない。
否定の言葉を告げようとして、ふと思い出したのは、むしられた紫色の花。
確か土岐家の家紋が……桔梗だ。
美濃の件は、今はまだこれ以上進みません
いろいろと問題が押し寄せてきている感じを出したかったのです
あと数話で春暁記は終了です
もはや恒例となりつつあるリクエストを受け付けます
すべてを書けるわけではありませんし、先着順でもありませんが、よければご参加ください
春暁記終了後、次は諸々の問題が顕在化するまでまた二年といった感じでしょうか
二年後には信濃も美濃も伊豆も沸点を迎えます




