レンジ(4-3、4-4)
その姿が視界に入った瞬間、ひやりとしたものが背筋に伝った。
まさかそんな。こんなところにいるはずがない。
気のせいだと思いたかった。
だがどんなに否定しようとも、何もない所でつまずいて転びそうになっている子供の容姿は変わらない。
この世には似た顔が三つはあるというし、あの御方であれば影武者がいてもおかしくはない。
無理やりそう思おうとして、失敗した。
影武者? ……いや無理だ。
顔かたちが似た子供ならいるのかもしれないが、小石の中に混じっていてもあの目は隠せない。
探るように巡らされた視線に、伸ばし掛けていた首を引っ込め物陰に身を潜めた。
ドクドクと鼓動が鳴る。
口の中が渇き、舌が息を塞いで呼吸もできない。
レンジの脳裏に過るのは、兄弟の「絶対に怒らせるな」という言葉だ。
駿府の町中でそう言われた時には笑い飛ばしてしまったが、あの忠告がなければどうなっていたか。
「……あれが?」
仲間の懐疑的な言葉にぎょっとして、無言のまま手でその口を塞いだ。
ここで声を上げるなど正気か⁈
耳を澄ませる。
……ああ、遅かった。すでにもう囲まれている。
救いは、まだ何もしていないことだ。
よかった。余計なことをしていれば死んでいた。
案内すると見せかけて、後続の小荷駄隊から米を奪おうという意見もあったのだ。
だが駄目だ。というか絶対に無理だ。
強奪を主張していた連中も、これだけの忍びに囲まれてわかっただろう。
あの御方に敵対してはいけない。
かつての忠告をありがたく思いながら、両手を上げて敵ではないと示す。
レンジのその動きに不思議そうな表情をした仲間たちだが、彼らもすぐに、周囲を物言わぬ集団に取り囲まれている事に気づいたのだろう。
あっという間にその顔から血の気が引き、腰を屈めた中途半端な姿勢でのろのろと両腕を上げる。
「呼ばれたから来ただけだ」
木陰に向けての、言い訳に近いその言葉に返答はない。
「敵意はない。信じてくれ」
山の民は、誰からも支配を受けない流浪の民だと言えば聞こえはいいが、その土地に根を張るには相応の関係性は生じる。
あまり派手に仕事をすると目を付けられ討伐の対象になるから、特に武家を相手にするときには細心の注意を払う。
たとえ国衆に直接頼まれたのだとしても、今川軍に手を貸せばやりにくくなるのは目に見えていた。
だからこそ、道案内の依頼が来たときにはその兵糧だけをごっそり拝借しようという意見が多かったのだ。
兵糧がなければ、さすがの今川軍とて引き返すしかないだろうし、信濃国衆もそれを望んでいるだろう……と。
だが駄目だ。敵に回せば潰される。
無言で囲まれているだけなのに、抜き身の刃を直接喉元に突き付けられている気がした。
「万事を知っているか? あの男とは兄弟分だ。今川の殿様とは一度お会いしたこともある」
町中で遠目に見ただけだが、おそらくあちらも万事と供にいたレンジを目にしただろう。覚えていて下さるといいのだが。
必死で言い訳をしているうちに、冷や汗が身体を伝った。
もう駄目だ、殺される。
そう思ったのはレンジだけではないようで、隣の男が緊張に耐えかねたようにゴクリと喉を鳴らした。
いっそ、襲う意見もあったのだと告白するべきか? いやそれは藪蛇ではないか?
迷っているうちに、どれぐらい時間が経っただろう。
気づいた時には、殺気が途絶えていた。
許された? 見逃してもらえた?
いや違う。御前に呼ばれた我らを、敵ではないと仮認定したのだろう。
武家に対してはひねくれた感情しか持たないレンジだが、このときばかりは反発心よりも強い安堵を覚えた。
遠山の使いが呼びに来てくれたおかげで、見逃してもらえたのだ。
あくまでもとりあえず……仮にだが。
少しでも不審な動きをすれば、あの恐ろしい刃のような殺気が命を刈り取りに来るのだろう。
遠山からの紹介を受けて、間近で目が合った時、もうそのまま殺されるのだと本気で思った。
だがその御方は表情を変えず、覚えている様子もなかった。
万事と一緒に居た時のことを覚えておられないのなら、もしかすると普通の木地師だと思って下さるかもしれない。
そんな淡い期待は、視線が逸らされる寸前の冷笑にかき消された。
駄目だ。
万事のことは気に入っておられるようだが、それだけで目こぼししてくださる方ではない。
敵方に通じていると思われてしまえば終わりだ。
我らなど、あっという間に始末されてしまうだろう。
きちんとご挨拶に伺わなければ……と、機会をうかがっているうちに、御方のほうからその時間を作って下さった。
わざわざ気を使わせてしまった。
無作法な奴らだと思われていたらどうしよう。
夜の山道を、恐れる様子もなく進む小さな御姿を見守っているうちに、どうしようもなく不安が込み上げてくる。
いやこれは最後通告か?
我らがサンカ衆だと御存知で、兵糧を奪おうと画策していたことなど百も承知で、そんな輩は信じられないと突き付けるおつもりではないのか?
レンジはここへ単身出向いたことを少し後悔した。
いやこれでよかったのだ。
非礼を贖う必要があっても、レンジの命ひとつで目こぼししてくださるかもしれない。
生まれてくる子の顔を見ることができなかったのは心残りだが、それもこれも仲間の為だと思えば……
御方は湧き水からのせせらぎに手を浸し、軽く水をすくった。
夜目にもその飛沫が衣の裾を濡らす様子が見てとれた。
月の明かりも乏しい夜だ。
木々の影になって全貌は見えないが、俯けた顔が薄く笑っているのが分かった。
「……雨になるか」
問われて、ドキリと心の臓が跳ねた。
レンジが潜んでいると察し、御言葉を下されたのだと、はっきり分かった。
「明日の昼頃までもつでしょう」
緊張のあまり、声がひっくり返ってしまった。
とっさに気の利いたことを言えない自身に震え上がる。
いつの間にか、これ以上ないほど距離が近い。
周囲から浴びせられる殺気よりも、目の前の小さな御姿への畏怖の方が勝った。
「諏訪兵がどこにいるかわかるか」
レンジは問われた事に即座に答えることができなかった。
いや言われている事の意味はわかる。だが、何故それを問われたのかと考えると、ますます肝が冷えた。
ここから諏訪領まで数日は掛かる。通常であれば、一介の木地師に兵の位置などわかるはずもない。
いや木地師ではなくサンカ衆だと知られているのだとしても、我らが国人衆の兵の動きを見張っているなど通常は思うまい。
もしかしてこの御方はご存じなのか?
我らがどのように山を行き来し、どのように情報を伝えあっているかということを。
その意味を考えるだけで頭がいっぱいで、レンジは自身が何と答えたのかわからなかった。
「かち合いたくない」
小さな背中だ。細い首だ。いっそこのまま一掴みすれば……
そう思った瞬間、凄まじい殺気が四方から押し寄せてきた。
むしろその刃のような気配に、頭が冷えた。
「こちらとしても信用問題なんで、十分気を付けますよ」
もっと丁寧な口を利くべきなのはわかっている。下人である我らがそんな口を利けば、地方の小役人でさえ烈火のごとく怒るだろう。
「昼までにどこまで行けるか」
だが御方は、ごく普通の口調で問いかけてきた。
試されている。
レンジはそう感じ、ごくりと唾を飲みこんだ。
「そのあたりはお任せを、近道があります故」
やはり声は裏返り、上滑りなものになってしまった。
こんな風に、丁寧に喋ろうとすること事態、滅多にない事なのだ。
ふと、万事と並んで眺めた駿府の町の見事さを思い出す。
この御方は、あの広大な町を……いや町どころか駿河遠江、更には三河の半分を支配している。
サンカ衆など束になって掛かっても、たやすく打ち滅ぼす力をお持ちだ。いやサンカ衆どころか、信濃の国衆すべてと戦っても圧勝できるのではないか。
「名は何という」
「レンジでさぁ」
その御姿が小さな子供であることがなおのこと、人とはかけ離れた恐ろしい存在に思えた。
この一見無防備な背中を、今なら襲える。
素手では息の根を絶つことはできまい。だが、暗器を使えばもしかすると……
その誘惑は大きかった。
人知を超えた相手を手に掛けることができる、数少ない機会だと察したからだ。
ザワリ、と風が吹いた。
いまだ! と、瞬間的に思った。
押し寄せてくる殺気など気にする事はない。どうせこの一太刀が上手く決まったとしても、次の瞬きまでの間にレンジの首は飛ぶのだ。
不意に、月の光が雲の切れ間から差し込んできた。
「……おっかねぇ」
実際は、袖に隠した暗器を取り出すことすらできなかった。
ぴくりと指を動かしたところで、屈んでいた御方が立ち上がったからだ。
「用があって来たのだろう。早うに話せ」
月明かりに浮かび上がった顔は色白で、なおのこと化け物じみて見えた。
じっと見つめられて、息ができない。しかも近づいてくる。何故寄ってくるのだ? まさか……食われる⁈
とっさに身を庇おうとした。首に当たった刃の痛みですら遠い。
「……遠山様からのご依頼、道案内するのは危ういという意見が多かったんでさ」
上滑りの言葉が口をついてこぼれた。
正直な所、自身が何を言っているのかもわかっていなかった。
「う、旨味がないと」
こんな化け物のような御方に逆らって、生き延びられるものか。
じっと見上げられて、じわりと冷や汗が滲んだ。
全身の毛が逆立ち、細かく手足が震えた。
「わかった」
ややあって、ふたたび御方がうっすらと唇をほころばせた。
「働いたぶんはきちんと報いる」
報いる? 報いるとはどういう意味だ?
命は奪わないという事か?
「褒美は何が良いか、考えておけ」
「……安請け合いしてよろしいので?」
「働いたぶんと申した」
つまりは失敗したなら一族郎党皆殺しか?
レンジはブルリと震えた。
その時は何故か、褒美と聞いても米や金銀財宝のことなど微塵も思い浮かばなかった。
「そうよな、駿河への販路というのはどうか」
「……は?」
それ故に、言われたこの意味をすぐに理解することができなかった。
馬鹿のように口をぽかんと開け、息すら止めて固まる。
「木地師としてだぞ」
夜の風がふわりと吹いて、同時に、結わえた御髪がさらりと手の甲に当たるのを感じた。
すれ違いざま、腕に手を置かれた。
まるで直接焼いた鉄を押し付けられたように、ビクリと全身が震えた。
「励め」
囁かれたその声が、いつまでも耳に残って離れなかった。
相変わらず孫九郎は何もない所で躓き、それを「誰にも見られていないよな?」と確認のために周囲を見回しているのですが、レンジには上のように見えていますw
よくいますよね、人間相手だと強気でも、ホラー要素に弱い人
人知の及ばない妖怪の類? 未知との遭遇です




