佐吉 掛川城下(今川軍出立直後)
佐吉はそわそわと筆をおき、間違いがないか目を通した。
今川の臥竜が動いた。
それを目の当たりにしたことが、これだけ自身を高揚させるとは思わなかった。
いつかこのときが来るのはわかっていた。
そのいつかを、見逃してなるものかと、張り付いていた甲斐があった。
「旦那様! 炭が相場よりも値上がりしております故……」
「かまわん! 急いで俵三つ……いや四つだ!」
―――小荷駄の支度を任せてもよいか?
そう問われた時の高揚を、どう言葉にすればよいだろう。
佐吉はせかせかと勝手口から表に出て、番頭に文を託した。
「蔵にある米をすべてだぞ!」
「はいっ」
すでに旅装で身を固めた番頭は、若手の中で一番足が速い。馬借に頼るよりも早く確実にこちらの事情が伝わるだろう。
いつかこうなる時の為に、佐吉は多くの準備をしてきた。今こそそれが役立つ時だ。
あとはそう、甲斐方面の兵糧だ。あちらも切らすわけにはいかない。
仕事は多く、どれもしくじるわけにはいかない。
ただ、己が信頼されている、お役に立てていると感じることに、何よりも心が奮い立つ。
「……あのう、掛川城からお目付け方のお役人が荷改めをと」
番頭を見送り、さて次はと踵を返したところで、おずおずと童の小間使いが声を掛けてきた。いつもはもっとはきはきと喋る子なのに、その表情は冴えない。
佐吉はちらりと正面入り口の方を見た。大通りに面した間口の広い入り口には、表に張り出して日よけの暖簾が斜めに掛けてある。
その隙間から見えたのは、裾を脛巾でまとめ、片腕に籠手を着けた武士たちの姿だ。
ずいぶんと物々しく見えるが、すぐに戦に出るとか荒事に向かう風ではなく、城まわりの治安維持に駆り出されている役人のようだった。
実用性より見栄えの良さを重視しているのは、ピカピカに磨き上げられた武具からわかる。普通戦に出向くのに、あんな目立つ格好はしないものだからだ。
佐吉は先方に気づかれる前に、さっと物陰に入った。
仕事の邪魔をされたと苛立つよりも、待ち構えていた気持ちの方が大きい。
というのも、事前にそういう輩が来るかもしれないと、予告されていたからだ。
なければそれでよいとおっしゃっておられたが、危惧は当たった。
佐吉は、ポンと童子の肩に手を置いた。
主人を出せと、大声で騒ぎ立てる声がここまで聞こえてくる。
「江坂屋敷を知っているな? あそこの裏口に回って、田所様と仰るお方に文と伝言を届けてくれ。佐吉の使いだと申せばお取り次ぎ下さる」
「お、おいらがですか?」
不安そうに眉尻を下げる手代の年のころは十二、三。
まだ作法も口上もつたないが、持ち前の明るさと頭の回転の速さで、佐吉も目をかけている子だ。
「お勝様の足を引っ張ろうとしているとんでもねぇ奴らだ。いいか飛丸。お役に立てる時だぞ」
童子の表情がぱっと変わった。
この子は少し前に「お勝」と名乗られていた孫九郎様に命を救われた子だ。
佐吉はそういった孤児たちを積極的に雇い入れ、いつかの日の為に育てている。
「……何とお伝えすればよろしいんで」
「よし、こちらへ来い」
拾い子は、適性があるなら忍びとして育てることもあるのだが、そうするには飛丸は年が行き過ぎていた。
とはいえ戦国の世だ。親を亡くした子が毎日のように町に迷い込む。
孫九郎様はそのような子には手習いと行儀作法を教え、あるいは手に職をつけさせようと職人の家に弟子入りできる仕組みを作ろうとしておられる。
いまはまだ試し期間中だが、あと少し手を加えれば十分に実用化できるものだと思う。
飛丸はその第一世代だった。
孫九郎様に直接お声掛け頂いて、将来への希望を尋ねられた子だ。
お勝様=今川の殿様だなどと想像もしていないはずだが、お勝様の口利きで佐吉のもとで働けていると思っているし、お役に立ちたいという気持ちは人一倍強い。
佐吉は小さな結び文を飛丸に渡し、江坂邸裏口の門番にだけ通じる合言葉を教えた。
相手から決まった返事があった場合のみ、通された先にいる相手に結び文を渡し、伝言を告げるようにと言い聞かせる。
賢い子なので、聞き直すことなくコックリと頷いた。
「さあ急げ」
勝手口も裏口も見張られている恐れがある。
飛丸ひとりに任せることなく、複数名の小僧どもに一斉に店から走れと命じて、彼らが通りを方々に散っていくのを見送った。
「……さて」
さっと襟を整え、背筋を伸ばす。
役人たちの相手をするのは構わないが、それで小荷駄の支度が遅れるのは困る。
孫九郎様が国境を超えるまでに、二千の兵がひと月はもつ兵糧を用意したい。
すぐに持ち出せる量には限りがあるが、孫九郎さまが補給路の確保をなさらないはずはなく、ならば佐吉の仕事はそこに十分な物資を運ぶことだ。
お戻りになるまでに、断じて不自由はさせない。
米に炭、味噌に塩。矢の不足や武具の予備も必要だろう。
「はいはい、お役人様。手前どもに御用でしょうか」
佐吉は顔面にニコリと如才のない笑みを張りつけ、店内に押し入ってきた役人たちに対峙した。
孫九郎が行けば、幸松の手柄が奪われると思っている連中の画策です




