7-10 信濃 海野宿 源九郎叔父邸3
一通りのやり取りを終え、互いに証文を交わし、さて次はこれをどう海野に告げるかで話し合っている最中、門前で騒ぎが起こった。
何かがあったとすぐにわかるという点では、玄関までの近さは利点といえなくもないが、重要な会談を邪魔されるのは困る。
誰もが騒ぎに気づいていたが、聞こえないふりをして、孫九郎は叔父が福島家に戻るのを渋っている理由について話し、村上殿は叔父を遠ざけたい理由について語った。
話題は微妙だが、いい感じに友好的雰囲気を継続しようと、互いに努力はしたのだ。
「お勝様に御目通りを!」
だが、切羽詰まった声色で名指しされ、ため息がこぼれた。
あの声は海野新之助殿だ。いやもう姓は真田にかわったのだろうか。
通せというべきなのかもしれないが、チラリと村上殿を見てやめておくことにした。
会わせたくないとか邪険にしたいとか、そういうことではなく、この部屋にこれ以上の人数が入るのは物理的に無理だと思ったからだ。
話は太平寺城で……そう言おうとしたところで、ドゴン! と大きな音がした。
古い屋敷がミシリと揺れて、パラパラと埃が落ちてくる。
孫九郎は雨漏りの染みがある天井を見上げた。
いくらボロ屋だからって、蹴ったかぶつかったかしたぐらいで倒壊しないよな?
「見て参ります」
逢坂が丁寧に頭を下げてから立ち上がったが、いやその襖をあけたら玄関はすぐそこだから。
狭い庭に面した廊下に座った安中殿が、首を九十度に曲げて玄関の方向を見ている。
特に緊張した様子はないから、身構えるほどの事態ではないのだろう。
仕方がないので通すよう告げる。
新之助殿とは二年来の付き合いで、その気性もおおよそわかっている。
本来こんな風に、不躾なことをするような男ではない。
ここに孫九郎と、おそらくは村上殿もいると知っていて、取る物もとりあえず駆けつけてきたのだろう。
理解できなくはないが、それより太平寺城で伯父の海野殿の説得に当たってほしかった。
……いや、説得しきれなかったからここへ来たのだろうが。
そういえば、三時間前に太平寺城に行った二木と叔父が戻ってこない。
まさか新之助殿が焦るほどの何かが城で起こっているとか?
玄関から入り、髪を逆立てんばかりの表情で村上勢を睨みつけて、新之助殿は素足のまま廊下から庭先に飛び降りた。
「……」
そして両方の手を地面につき、がばりと頭を下げる。
まさかの土下座、挨拶も何もなくいきなりだ。さぞかし言いたいことがあるのだろう。そう思って眺めていたのだが、新之助殿は土に額を押し付け、何も言わず黙っている。
仕方がないので、孫九郎の方から水を向けてやることにした。
「その顔の傷はどうしました」
新之助殿の顔はいたるところが腫れあがっていて、唇の端が切れているのが見てとれた。鼻血を拭った跡もある。
相当激しく殴りつけられたように見える。
言葉少ない説明によると、誰かに殴られたとの事だが、そんなものは見ればわかる。
対村上戦で敵ともみ合ったのかと思いきや、どうやら違うようで、実は海野殿の正室三輪御前から、直接薙刀の柄でぶっ叩かれたのだそうだ。……何それ怖い。
「海野の御正室は気性が荒いと聞きます」
露骨に全員引いた今川勢とは違い、村上殿は普通の表情で言った。
新之助殿の顔面を何度もボコるような女性を、「気性が荒い」の一言で片づけていいものなのか?
「なにぶん急な話に付き、家中の意見がまとまりませず、遅参致したことをお詫び申し上げます」
村上殿へはギロリと憎々し気な目を向けつつも、すぐに視線を地面に向けて、孫九郎へは謝罪の意を告げる。
新之助殿の、どこか覚悟を決めたような硬い雰囲気に、嫌な予感がした。
まさかここで直接村上殿を暗殺しようとか、そんなことはないだろうな。
敵の総大将とこれほど近づけることなどまずないから、千載一遇のチャンスではある。
使うとすれば毒か? 新之助殿の配下の多くには忍びが混じっている。もしかすると、暗器の類を使って……いや絶対に無理だろう。
直垂越しにわかるほど筋肉達磨な村上殿に、小手先の攻撃が効くとは思えない。
ちらりと、自然体で座っている巨躯を見る。その途中で安中殿と視線があった。
軽く、頷くというにも薄い反応。
……村上殿ご本人もだが、その前に立ちふさがる安中殿も難関だ。どうあっても刃が届くことはなさそうだ。
孫九郎は長く息を吐いた。
地面を見たままの新之助殿が全身を強張らせたのを、「やはりそうか」と残念に思う。
「田所」
「は」
部屋に入りきらず庭先にいたのは田所弟だ。
孫九郎は特に指示は出さなかったが、日焼けして浅黒い顔を新之助殿に向けたまま軽く上下させた。
その手が地面に這いつくばった男の肩をぐっとつかむ。
「手に隠しているものをお出しください」
孫九郎の位置からギリギリ聞こえる程度の音量の、兄よりは情のある言い方だった。
田所弟の言葉が終わらないうちに、新之助殿は弾かれたように手を動かそうとしたが、グッと強く肩を押さえられて、上体を起こすことすらできなかった。
新之助殿が隠し持っていたのは、針というには太く、小刀というには細く、かなり以前に見た風魔忍びのクナイのような形状の武器だった。
手のひらに収まる程度の小ささだから、暗器の類で間違いない。
「……違います。これは」
再びため息をついた孫九郎を見上げて、新之助殿が縋るような口調で言う。
狙いは村上殿であり、孫九郎ではないと言いたいのだろうが……そんな問題ではない。
和睦交渉中の相手に刺客を送るなど、許されない凶行だ。
いや百歩譲って、それしか方法がないとしても、相手が村上殿では成功する可能性が極めて低い。
つまり新之助殿は、捨て駒として使われたのだ。




