7-11 信濃 海野宿 源九郎叔父邸4
叔父と二木は、太平寺城大広間で大勢に囲まれているそうだ。
強行突破できないのは、叔父の奥方と子供たちが人質にされているから。
ちなみに新之助殿の新しい奥方とその子供たちもその人質グループとして奥に留め置かれているらしい。
……やってくれる。
手の中で、扇子がパキリと音を立てた。……折れたな。
飛び出た扇子の骨が手のひらに刺さって、ズキリと痛んだ。
さっと近づいて来た藤次郎が折れた扇子を取り上げて、懐から出して手ぬぐいを押し当ててくる。いやたいした怪我じゃないから。
「村上殿」
孫九郎は、手にぐるぐると手ぬぐいを巻かれながら、置物のようにじっとしている男に声を掛けた。
「相談があるのですが」
顔を上げてそちらを見て、あらためて視線を合わせる。
「手出しは不要ゆえに、あと一日、城を囲んでいてくださいませんか」
眼光鋭いアーモンド形の目が、無言で孫九郎を見返してくる。
「和睦の約定を海野に飲ませます。人質を取り戻せば、可能な限り迅速に小県から撤退いたしますので」
「……海野に飲ませるのは難しいのでは。妥協案としてその男に跡を継がせるというのはいかがか? 海野一族の中では信望が厚い」
これまでよりはレスポンスが早いその内容は、お世辞にも穏便なものではなかった。
だが、孫九郎とて考えていた事は似たようなものだ。この件がなければ、海野殿にそう提案していたかもしれない。
「海野殿もその御正室も御嫡男もその奥方も……今の中枢部がすべてきれいに掃除できるならいいですが、そうでないなら禍根を残すだけでしょう」
力がないものが、どうにかして自身の権威をたもとうと必死にあがいている。
確かに、今のままでは海野は大きく勢力を削がれるだろう。
孫九郎が結んだ約定を知らないから、すぐにも海野家が今川に乗っ取られ、あるいは村上に攻め滅ぼされると危機感を募らせているのは理解できる。
いや約定を知ったとしても、海野が待つ未来は明るいとは言えないが……それでも、二年の猶予があるならと、ここで大きな動きをするのは下策だと思ったはずだ。
孫九郎はズキズキと痛み始めた手を見下ろして、軽く動かしてみた。利き手に怪我をするなどと、あとから逢坂に叱られそうだ。
「もとより海野に拒否する権利はない。村上殿、今川は貴軍と矛を交えるつもりはない。いや、これ以上海野の為に戦ってやる謂れはない」
孫九郎の、怒りを含んだその言葉に、新之助殿がはっとしたように顔を上げ、青ざめた表情でこちらを見る。
「逢坂」
「……は」
「天野殿に、囲いを解いて早急に川を渡るよう伝えよ」
逢坂が足早に去り、その空いた場所にいつのまにか田所兄がいた。
この男がニコニコと、やけに上機嫌に笑っているとぎくりとする。
ひゅんと、怒りが引っ込んだ。
村上殿ではないが、次の言葉を待たれて数回分息を吸いこんで心を落ち着ける。
「新之助殿」
「……はい」
「未遂とはいえ、やろうとしたことへの覚悟はしたほうが良い」
声のトーンを落としてそう言うと、新之助殿は真っ青な顔で唇を震わせた。
「海野は……海野家はどうなりますか」
もうわかっているだろうに。
孫九郎は明言を避け、じっと新之助殿を見下ろした。
「この二年、どう事態をさばくかによるでしょう」
たとえば村上が攻めてこない間に、小県佐久を取りまとめて一大勢力を築くとか? 諏訪あたりと手を組む? 上野国の上杉あるいは……甲斐武田に下るか。
ご近所からの突き上げをかわすことができるのなら、二年もあればできる事は多い。
ともあれ、新之助殿がそれにかかわることはもはやないだろう。
身柄は村上に引き渡される。
後の扱いは村上殿次第だ。
村上殿と実務者レベルの話し合いを少しして別れた。
具体的には、間違いが起きないよう陣を張る場所や使う水場の調整などだ。厠用の穴を掘る位置まで事細かに決めようとすると呆れた顔をされたが、大事なことだぞ。これでも環境に配慮する男を目指しているのだ。
別れ際、こちらはあえて新之助殿の事について言及しなかった。
無言で身柄をひきとった村上殿もだ。
おそらく処罰されるのだろう。
人質を取られて断り切れず、襲うフリをしただけなのかもしれないとも思うのだが、事は「かもしれない」で見過ごせる類のものではない。
せめて人質である奥方とその息子たちについては、保護し面倒を見るつもりでいる。
叔父の子供たちの親戚筋でもあるので。
遠ざかっていく、ひときわ大柄な村上主従の背中を見送って、孫九郎は「では参ろうか」と静かに言った。
天野殿の到着を待っている時間はない。
新之助殿が失敗したと悟った海野が、人質相手にどう出るか。
叔父の妻子を含む人質は、太平寺城の最も奥まった場所に集められていて、籠城中ということもあり、さすがに見張りの兵の数も多いそうだ。
孫九郎は海野との話し合いと並行して、彼女たちの救出を目論んでいた。
もはや村上と敵対する可能性が低い以上、難しい事ではないと思う。
もちろん油断をするつもりはない。
状況の見極めもできずに、新之助殿に刺客を命じるような奴らだ。おそらくは理性より感情が勝っているのだろう。
味方の本拠地がもっとも危険だという状況には、不本意ながら慣れている。




