7-5 信濃 海野平3
雨が増えてくる季節なので、川の水量は多い。だが中洲がある部分がちょうど浅くなっていて、渡るならそこだと叔父から聞いていた。
村上軍も当然その事はわかっていて、中洲を経由して千曲川を渡ろうとしているそうだ。
彼らが海野荘の対岸に布陣していたのは、なにも今川軍を待ち構えていたからではない。
海野荘の周辺を攻略するべく、浦野氏をはじめいくつかに圧力をかける為だったようだ。
このあたりの国人領主たちは力が弱く、村上には逆らえない。
予想だが、彼らにも海野に兵を向けさせようとしていたのだと思う。
あるいは、じっくり海野荘を攻めるために、長窪城の大井や芦田などを牽制したかったのかもしれない。
村上軍の目標は海野平であり、遠国の軍勢を相手にすることではない。
実のない戦いで兵を減らすなど下策。
ただ、迫ってきている千五百の兵を無視することもできなかったのだろう。
横槍を入れられる前に、今川軍の足を止めるため軍を割いた。その数はおおよそ五百。
全軍の半数にも満たなかったのは、こちらが本命ではないからだ。
孫九郎は暗がりに目をこらした。
足止めとはいえ五百。しかも押しが強い。士気が高く、自軍が負けるなど露ほども思っていないのが伝わってくる。
本当はもっと深くに誘い込んでから網を引く予定だったのだが、そもそも五百しか来ないのなら仕方がない。
「……陣太鼓を鳴らせ」
少し早い。それはわかっているが、ゆっくり見極め網を引いている時間の余裕がない。
指示をしてから三十秒ほど後。
ドーンドーンドーン
ゆっくりとまではいわないが、若干間延びしたリズムで三回。
これを聞いた各部隊の太鼓係が次の太鼓係に伝わるように叩くという感じなので、太鼓の音が一か所から聞こえてくるわけではない。
必要なのはリズムだ。要は、早いビートとは言えない叩き方。
夜なので、おそらく村上側は何が起こっているのかわからないだろう。
ただ、今川の足軽隊が指示通りにささっと道をあけただけだが、こちらの動きをあらかじめ知りようがないわけだから、消えた、あるいは罠かと疑心暗鬼になっているはずだ。
指示しておいて何だが、孫九郎には現状がどうなっているのかまったくわからなかった。
見えるのは暗闇の中で時折光をはじく鋼の色。
剣戟の音や鎧の鳴る音、怒声や小枝を踏む音がそこかしこからするものの、今が策のどの段階なのか、どこまで進んでいるのか、いや上手くいっているのか否かもわからない。
真っ暗で足場も悪い場所だ。土地勘もない。そんな中、兵らは恐怖を押し殺して命がけで戦っている。
故に孫九郎は、自身の不安を言葉にすることも顔に出すことも許さなかった。
時間は掛からず、それほど離れていない場所からどっと歓声が上がった。
どこからのものだ? 今川か? 村上か?
不安が安堵に変わるまで、ひどく長く感じた。
「天野隊、敵を包囲しました」
聞き覚えのある声がそう教えてくれてもなお、孫九郎は息を止めて眼下に目を据えていた。
天野家家臣のその男は、なおも何か言っていたようだが、おそらくその場にいたほとんどの者の耳に届いていなかっただろう。
月の光がさした。
急に雲が切れ、丸い月がくっきりとその姿を見せる。
これまでも何か所かに篝火があって、狭い範囲だが夜の闇を照らし出していたのだが、頼りなく淡い月の光はそれらを凌駕する明瞭さで夜を満たした。
すべてを露わにしたその光で、孫九郎は状況を把握した。
「早打ちだ!」
興奮する男たちの喧噪を縫って、声変わりもまだの高い声が響いた。
孫九郎は手を伸ばし、さっと川の方を差し示す。
連打される陣太鼓の音が一斉にドラムロールのように響き、同時に、月の明かりの下で二種類の色味の鎧が背中合わせに陣形移動をした。
五百の兵への包囲を縮める天野隊と、川へ突進するそれ以外だ。
風が吹く。
雲が切れ切れに月の傍らを過ぎていく。
孫九郎は、太平寺城に村上軍が迫っているのをはっきりと視認した。
城というには防備が甘い。ほぼ屋敷に近い構造だ。
だがもちろん海野家の主城なので、屋敷の周囲は土塁で囲まれ、掘もある。
城の周辺には城下町が広がっていて、街道沿いに建屋が密集している。
町の外は田畑になっていて、こんな刻限なのに走って逃げようとする女子供らしき人影も見えた。
村上殿は、聞いていたほど荒武者ではないのかもしれない。
そんな事を思ったのは、兵を分けて今川軍を足止めした手腕もそうだが、川を渡った兵が更に二手に分かれて太平寺城を挟撃しようとしているのが見えたからだ。
「土井」
呼ぶと土井が弾かれたように顔を上げた。ずっと天野軍の動きを見守っていたようだ。
孫九郎が指さした方向を見て、「あっ」と声を漏らした。
小県の千曲川沿いには、狭い地域に複数の城がある。
互いに視認できる距離のものも多い。
真夜中のこんな刻限なのに、それぞれの城に翻る旗があった。
もちろん何キロも先の詳細などわからない。夜だというだけではなく、視力の問題だ。
土井とて見えるはずはないのだが、城にたかれた篝火とはためく無数の旗が、自身の趨勢を明らかにしたのだと告げていた。
徐々に月が陰り、再び周囲を闇が覆っていく。
次第に塞がれていく視界に、不安といら立ちが募る。
先行した二木や叔父たちが気がかりだった。周囲のすべてが敵に回ったのだと仮定するなら、少数で個別に動くべきではない。
「急ぐぞ」
「お待ちください」
土井が、一気に暗さを増した川の向こう側に目をこらした。
何を見ているのかは孫九郎にもわかった。暗がりに、どこの所属ともわからない兵がうろついているのが見えたのだ。
海野がようやく重い腰を上げたのだろうか。
物見の兵が、逢坂の指示を受けて闇の中に飛び込んでいく。
「……望月軍が根津城に入りました」
それとほぼ時を同じくして、足元に弥太郎が膝をつき報告した。




