7-4 信濃 海野平2
村上は今の状況をどう見ているだろう。
今川軍はよく戦った。……孫九郎の指示する通りという意味で。
難しい命令だったとは思うが、天野殿も二木も、この手の細かい陣移動が得意なのだ。
これが父ならば無理だっただろう。
多くの被害が出ていただろうし、続く孫九郎の策まで至らず撤退を余儀なくされたかもしれない。
押してくる力を受け流せ……つまり、敵と真正面から戦うなと命じたのだ。
可能な限り味方の兵を減らすなという意味だが、それはすなわち、敵の兵も減らないということだ。一歩間違えれば、今川方に多大な被害が及んでいただろう。
ただ、天野殿も二木も器用であり、そういう細かい指揮が得意でもあり、さらに言うなら、今川方の兵士たちが命令に確実に従う事に慣れていた。
村上軍が焦れているのは伝わって来た。
特に二木の、相手を煽っていくスタイルはやりすぎだ。
村上が罠を疑って突っ込んでこなかったからいいようなものの、夜にならないうちに大攻勢になった可能性があり、もしそうなっていれば、やむを得ず正面対決になっていただろう。
そうなったとしても負けるとは思わない。ただ、被害はより大きかったはずだ。
さらに言えば、考えた策が台無しになるところだった。
いったんその日の戦闘が終わり、主だった者たちが軍議に集まる。
「……頃合いでしょう」
天野殿が、相変わらずのほのぼのとした口調で言った。
もはやこの場にいる誰もが、この男の「気のいいオヤジ」ぶりを見た目通りにはとっていない。そもそも返り血が顔についている。その顔で笑いかけられてもな……まずは拭けよ。
「佐久衆も動き始めました」
二木がひどく楽しそうに口角を引き上げた。この男のウキウキと楽し気な表情に笑顔を返せるのは天野殿ぐらいなものじゃないか。
二人が揃って孫九郎の方を向いた。二人とも目が笑っているのが何とも怖い。
続いて他の将たちもこちらを見た。こちらは皆真剣な表情だ。
孫九郎は頷いた。
視線を卓上の地図に向け、複雑に置かれた駒石を見下ろす。
立ち上がった二木が、慇懃にも見える礼をしてから石を動かした。
天野殿も立ち上がり、目立つところにある石をずいずいっと川岸まで動かす。
それぞれの将が無言で石の配置を変え、納得した様子で頷いた。
その間、終始皆無言。
間者に盗み聞きされたくないというよりも、あえて言葉にせずとも事前に徹底的な打ち合わせが済んでいるが故の無言だ。
「いいだろう」
孫九郎はもう一度頷いた。
さっと手を動かして、地図の上に並んだ石たちを一掃する。
「夜襲が来ると確定した段階で一の合図。誘い込みが完了したところで二の合図。総攻撃には陣太鼓を鳴らす。叩き方は三、三、三、四だ」
居並ぶ男たちが一斉に頭を下げる。
孫九郎は石のなくなった地図を見下ろし、コンコンと指先で千曲川を指し示した。
「陣太鼓が七拍以上で鳴ったら総員で川を渡る。高みの見物としゃれこんでいる連中にも参戦して頂こう」
海野荘は若干守りにくい地形ではあるが、山側にはいくつかの砦と難攻の城があり、兵力が劣っていても村上軍相手に戦えないわけではないはずなのだ。
それなのに、海野家は今川が村上と目の前で衝突しても無言を保っている。
村上と戦いたくないのなら、もっと早くに降伏なり和睦なり道を探るべきだったし、戦い抜くのならこのタイミングで今川に援軍を出すべきだった。
孫九郎は手の中で転がしていた白くて丸い石を、凸の印の上に置いた。
太平寺城。
海野家の本城であり、源九郎叔父の妻子がいる場所でもある。
攻め落とすつもりはない。
ただ、ピンポンと呼び鈴を鳴らして突撃訪問するだけだ。
静かに夜が更けてきたので仮眠を取った。
戦の直後だ、神経があらぶっているのでそう簡単に眠れるはずがないのに、そこかしこからけっこうないびきが聞こえてきた。
皆神経が太いなと感じた記憶はあるが、孫九郎の意識もそこで微睡に落ちた。
長旅の疲れが出てきているのだろう。
とはいえ熟睡はしていなかったのだと思う。
ピーィと甲高い猛禽の声に目が覚めた。
ガバリ、と孫九郎の護衛たちが腰を浮かせ、数呼吸後にもぞもぞと子供たちが起き始める。
孫九郎は暗がりに目をこらし、陣幕の向こう側で透けて揺れる篝火を見た。
「……来たか」
「はい」
即座に返ってきた返答は真後ろからだった。
ようやく見慣れてきた弥太郎の下級武士の格好に、ちらりと目線を移す。
「数は」
「おそらくは五百ほどです」
とっさに眉間にしわが寄った。
猪突猛進系の村上殿のことだから、夜襲とはいえ総攻撃で来るかと思っていた。
五百なら半数もいない。残りがのんびりそのままの位置にいるとも思えない。
兵を分けたのなら、挟撃を狙っているか、あるいはそれは見せかけで、別の方向に陣を進めたか。
「申し上げます!」
素早く身支度を整えている間に、物見の兵が報告に駆けてきた。
「村上軍の半数が川を渡ろうとしております!」
ああなるほど。孫九郎と似た考えで動く者がいるのか。
海野の主力の一端だろう源九郎叔父の軍勢は、今川軍と行動を共にしている。
諏訪の手前で別れた新之助殿は戻っているだろうか。
新たに城を任せられたと聞いたから、そちらにいるのではないか。
ならば太平寺城は非常に手薄だ。
孫九郎は数秒の逡巡の末、策の続行を決断した。
どう動くのが正解など、考えても誰にも答えなどわかるはずはない。
こういう時に、行動を迷っていてはいけないのだ。
書きたいことが伝わっていないのではと若干不安です




