6-4 信濃 倉見城付近
ミストのような雨が降り始めた。
先程まで晴れていたし、今もなお陽光が感じられるのに、山の上の方に雲が掛かり、空が複雑な様相を見せ始めている。
孫九郎は顔を上げ、滴というよりは霧のような柔らかで細かな雨に息を吐いた。
山の天気は変わりやすいというが、あれだけ晴れていたのだからせめて今日中ぐらいはもってほしかった。
丁度遠くを見ていたタイミングで、「お勝様」と促された。
逢坂の視線の方向に見えるのは、山の緑と馴染む茶色い毛皮を頭にかぶった男だ。
前夜、散らばって逃げた武田軍が立科に集結しているという話を聞いたばかりだ。また何か異変があったのだろうか。
おそらくは四方八方から忍びのみならず索敵の兵が今川軍を見ている。
そんな中、山の民と親しい素振りをするのは得策ではない。
ちらりと目配せすると、弥太郎が軽く頭を下げた。
視線を逸らして数秒後にもう一度レンジと思われる男の方を見ると、確かに目にした木立の影から幻のように消えていた。
横目で見た弥太郎も、一瞬だけ視界から外した瞬間にすでにどこにもいない。
いつも思うが、忍びというのは特殊技能職だ。
ああいう常人離れした連中が敵にもいると、常に想定しておくべきだろう。
弥太郎は、注意して見ていた孫九郎が気づかぬうちにレンジに話を聞きに行き、いつのまにか真後ろに戻ってきていた。
おそらく数分程度しかかからなかったと思う。
「お勝様」
そう声を掛けられ飛び上がると、ずっとこの場を離れていませんという顔をした弥太郎がそこにいた。
不思議そうに首を傾げるなよ。「どうかしましたか」とか聞くな。
「……それで」
孫九郎は驚愕を押し殺してふいっと顔を真正面に戻し、歩きながら尋ねた。
弥太郎の報告はほんの二言三言の短いものだったが、待っていた知らせだった。
「……逢坂」
「はっ」
「雨が強くなりそうだ、休息を取ろう」
「天野殿と二木に伝令!」
逢坂の怒声に、騎馬隊の若手が複数名、「はいっ」と大きな声を上げた。迷いなく役割分担して、軍列の前を行く二木と、後方からくる天野殿に伝えるために馬を走らせる。
こういう情報伝達の構築と素早さにおいて、逢坂隊の右に出る者はいない。
「あの場所に陣を張ろう。少し高台だ」
盆地というには起伏にとんだ形状の地形で、樹木も多く視界が利かない。
大軍は隠れようもないが、少数の伏兵なら待ち伏せしやすく、奇襲を警戒するべき立地だ。
ザアアと柔らかな雨が降ってきた。空は明るいからすぐやむだろうか。
「おや、行く手に見えるのは寺か? 立派な鐘がぶら下がっているのが見えるな。雨宿りさせてもらえるだろうか」
わざとらしくそんな事を言うと、方々から呆れたような目が向けられた。
……いいじゃないか、ちょっとぐらい芝居がかっても。
今川軍は街道沿いを芦田宿の方面に歩いている。望月宿から芦田宿のちょうど中間付近にある小規模の村が見える。
二つの町の間隔が一里半(約五キロ)ほどなので、街道沿いの宿場町という態はなしていないが、田畑が広がるのどかな田舎の風景だ。
「……諏訪神社?」
「はい」
孫九郎はまじまじと逢坂の皺顔を見上げた。
「寺じゃないのか?」
「寺もあるようです」
この国では、神社と寺の対立はあまり聞かない。本来違う宗教は並び立つことがないものだが、世界的に見ても珍しい体制だと思う。
「どちらで雨宿りをなさいますか?」
ひとつ隣の尾根に見えるのは倉見城。芦田の支城だ。
絶対に目をこらしてこちらを見ているだろうな、手を振ったら気づくかな。
そんな事を考えながら、「ふむ」と顎をさする。
「せっかくだから、神社のほうにお邪魔しようか」
「……また意地がお悪い」
おい、聞こえているからな!
寺や神社に攻め入る事に呵責を感じてしまうのもまた、日本人の常だ。
境内は血で穢してはならないと、信じていない教義の寺でも神妙になる。
それを逆手にとっての雨宿りだった。
ここにいる限り、連中は奇襲をためらうだろう。
諏訪神社があることまでは知らなかったが、なおのこと良い。
宗教的な無意識の抑圧だけではなく、諏訪家に刃を向けたくはないはずだ。
「お勝様」
二木が足早に近づいて来た。
がしゃがしゃと物々しい鎧の音がして、二木だけではなく顔見知りの福島家臣たちも寄ってくる。
本当は、暗くなるまで進む予定だった。
だが雨だし、ほら遠くで雷の音も聞こえるし。
「雨宿りしよう」
二木がこちらの真意を問うようにじっと見てきた。
レンジがもたらした知らせは、すでに二木にも伝えてある。
予想していたより少し厳しい状況だが、相手が烏合の衆だという事には違いない。
しばらくして天野殿も騎馬を寄せてきた。
下馬する仕草がどことなくたどたどしく見えるのだが、この男が意外とうまい騎手だとこの場にいる皆が知っている。
「申し訳ないですが、あの寺の隣にある諏訪神社に軒先を貸してほしいと伝えて来てくれませんか」
この面子の中では、天野殿が断トツで交渉上手だ。おそらく震え上がっている人々を、うまく宥めてくれるだろう。
「藤次郎、同行してこちらの条件を伝えてこい」
人当たりが良く誰からも好かれる好青年の出番だぞ。
「よろしいのですか? こちらも兵糧に余裕があるわけでは」
いや、余裕はあるんだよ。
ちゃっかり武田からの戦利品を持ち出してきたし、ここは街道沿い。
信濃の山中とはいえ、街道があるところには商人がいる。
手持ちの金はそれほどないが、今川家を知らない商人はいないだろうから、商売の好機と思う者も多いはずだ。
「うちは武田のような乱取りはしない。米が欲しければ買うし、相手が欲しいと言うなら駄賃として置いて行く」
商人を相手にするなら、信用第一だよ。
乱取りをするような無法者には、危険を感じて近づかないんじゃないか。
孫九郎のそんな言い分に、藤次郎は納得したように頷き、苦笑した。
「……敵ながら、気の毒になってきますね」
そうだな。また乱取りしないと、武田の兵糧は尽きてくる頃だろう。
だが気の毒なのは、奴らに襲われ、金も払わず奪われる者たちだ。
断じてその逆ではない。




