第5話 謝罪の席と、白い手袋の礼法委員
翌日の昼前。
王立アストリア貴族学院の東棟にある小さな面談室で、ヴィオラ・ランスフォードは椅子に座ったまま、膝の上で両手を握りしめていた。
昨日より顔色は良い。
けれど、指先にはまだ力が入りすぎている。
その手元には、クラリス・ベルモンドが書き直した謝罪文の草案があった。
ルブラン工房の高級紙ではない。
ベルモンド家の商会で使う実務用の紙だ。
飾り気はない。
白さも、流行も、香りもない。
けれど文字は読みやすく、滲まず、嘘を隠すための余白も少ない。
クラリスは、その紙の方がずっと好きだった。
「もう一度確認するわ」
クラリスは扇を閉じ、机の上に置いた。
「今日ここで行うのは、マリア様への謝罪の申し入れ。許しを強要する場ではない。面会を断られた場合、それ以上追わない。よろしい?」
「はい」
ヴィオラは小さく頷いた。
声は震えている。
それでも、昨日の旧温室で見た時より、呼吸は深い。
「謝罪文の内容は三つ。あなたが関与したこと。マリア様に謝罪したいこと。学院に事実確認を求めること。していないことまで背負わない。イザベラ様の責任を勝手に消さない。自分の首に輪をかけない」
「……はい」
ヴィオラは謝罪文を胸に抱えた。
「分かっています」
リディア・フォルクレアは、そんなヴィオラを穏やかに見ていた。
「ヴィオラ様」
「はい」
「今のお茶は、美味しく飲めそうですか?」
ヴィオラは一瞬、意味が分からないという顔をした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……昨日よりは」
「それは何よりですわ」
リディアは嬉しそうに頷いた。
クラリスは、そのやり取りを見ながら深く息を吐く。
この場で茶の味を聞く令嬢もどうかと思う。
だが、ヴィオラの肩から少しだけ力が抜けたのも事実だった。
悔しいが、リディアのズレた優しさは時々効く。
扉が、小さく叩かれた。
クラリスが立ち上がる。
「どうぞ」
扉が開き、マリア・エルシェンが入ってきた。
淡い水色のリボン。
控えめな制服姿。
平民特待生として学院に入った少女。
歓迎茶会で、席札を動かされ、作法違反を誘われた本人である。
マリアは部屋に入るなり、ヴィオラを見た。
その顔には、恐怖と警戒があった。
無理もない。
あの時、彼女を笑う空気の中に、ヴィオラもいたのだ。
「……失礼いたします」
マリアは丁寧に頭を下げた。
だが、部屋の中央へはすぐに進まなかった。
彼女の視線が、椅子の位置を確認する。
誰がどこに座っているか。
自分の席はどれか。
また何かを間違えさせられないか。
その警戒が、仕草の端に出ていた。
リディアは、それをじっと見た。
椅子ではない。
マリアの目でもない。
マリアの手が、扉の取っ手から離れきらないところを見ていた。
「マリア様」
リディアは静かに言った。
「本日は、席を動かさないためにお呼びしました」
クラリスは一瞬、目を閉じた。
言い方。
言い方はどうかと思う。
けれどマリアは、その言葉で少しだけ目を見開いた。
「席を……動かさないために?」
「はい。謝罪の席を、です」
リディアは穏やかに微笑む。
「謝る方の席も、謝られる方の席も、勝手に動かしてはいけませんでしょう?」
マリアは、ゆっくりと扉から手を離した。
クラリスは小さく頷く。
今のは悪くない。
かなり変だが、悪くない。
「マリア様」
クラリスが口を開いた。
「今日は、ヴィオラ様からあなたへ謝罪の申し入れがあります。ただし、あなたには聞かない権利があります。受け取らない権利もあります。面会そのものを拒むこともできます」
マリアの瞳が揺れた。
「私が、断ってもよろしいのですか」
「もちろん」
クラリスは即答した。
「謝りたいという気持ちは、謝る側のものです。受け取るかどうかは、あなたのものですわ」
リディアが小さく頷く。
「お茶も、差し出されたからといって、必ず飲まなければならないものではありませんもの」
「……お茶」
マリアは少しだけ困ったように笑った。
その笑みは、まだ硬い。
けれど、完全な拒絶ではなかった。
「では、聞くだけなら」
ヴィオラがびくりと肩を震わせた。
それから、深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
ヴィオラは立ち上がりかけたが、クラリスが手で制した。
「立ったままではなく、座って話しましょう。ここは断罪の場ではないわ」
ヴィオラは唇を噛み、頷いた。
四人は席についた。
クラリスは、あえて席順を整えた。
マリアとヴィオラを正面に向かい合わせない。
真正面は、圧力になる。
少し斜め。
互いに顔は見えるが、視線を外す余地もある位置。
謝罪の場には、逃げ道も必要だ。
リディアはそれを見て、嬉しそうに目を細めた。
「クラリスさんの席順は、とても綺麗ですわね」
「今は褒めなくていいの」
「でも、綺麗です」
クラリスは耳を少し赤くしながら、ヴィオラに視線を向けた。
「どうぞ」
ヴィオラは、謝罪文を開いた。
手はまだ震えている。
だが、昨日のように首を差し出す震えではない。
自分の声を取り戻そうとする震えだった。
「マリア様」
「はい」
「歓迎茶会で、私は、あなたの席札を移動させる行為に関わりました。あなたを混乱させ、恥をかかせる形にしたことを、認めます」
マリアは黙っていた。
ヴィオラは続ける。
「私には、イザベラ様からの指示がありました。けれど、その場で手を貸したのは私です。止めることもできませんでした。あなたに不安と屈辱を与えたことを、謝罪いたします」
声が震えた。
しかし、最後まで言い切った。
「ただし」
ヴィオラは一度、唇を噛んだ。
「許していただけるとは思っておりません。許してください、と言うために来たのではありません。私がしたことを、私がしたこととして認めるために来ました」
マリアの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「……どうして、今になって」
当然の問いだった。
ヴィオラは目を伏せる。
「怖かったからです」
部屋の空気が静かになる。
「イザベラ様に逆らうのが怖かった。家に迷惑がかかるのが怖かった。派閥から外されるのが怖かった。だから、あなたを踏む側に回りました」
ヴィオラの声は細い。
けれど、逃げてはいなかった。
「それが、私のしたことです」
マリアは、しばらく何も言わなかった。
リディアも、クラリスも口を挟まない。
沈黙は、今回は罰ではなかった。
マリアが自分の気持ちを探すための時間だった。
やがて、マリアは小さく息を吸った。
「私は、怖かったです」
「はい」
「席札が分からなかったわけではありません。でも、私が何かを言えば、また笑われると思いました。平民だから、作法を知らないのだと」
「はい」
「私は、あの日から、席札を見るのが少し怖くなりました」
ヴィオラの顔が歪む。
「申し訳、ありません」
「今は、受け取れません」
マリアははっきり言った。
ヴィオラの肩が震えた。
だが、クラリスもリディアも止めなかった。
マリアは続ける。
「あなたの謝罪を、今すぐ受け取ることはできません。でも……私に直接言ってくださったことは、覚えておきます」
ヴィオラは、ゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます」
「それから」
マリアは、ちらりと謝罪文を見た。
「その文面の写しを、いただいてもよろしいですか。私が何をされたのか、あとで自分でも確認したいので」
クラリスの目が一瞬だけ細くなった。
良い。
これは、とても良い。
マリアが自分の席を取り戻し始めている。
「もちろんですわ」
クラリスはすぐに答えた。
「あなた用の写しを用意しています」
ベルモンド家の実務用紙に書かれた写しを、クラリスは差し出した。
マリアはそれを両手で受け取った。
そして、少し迷ったあと、椅子の背もたれに初めて深く身を預けた。
まるで、そこに座っていてもよいのだと、ようやく自分に許したように。
リディアは、それを見てほんの少しだけ微笑んだ。
「席が、戻りましたわね」
クラリスはリディアを見た。
「……そうね」
珍しく、否定しなかった。
その時だった。
「ずいぶんと、正式な手続きをなさっているのですね」
扉の外から、柔らかな声がした。
クラリスの指が止まる。
ヴィオラの顔から血の気が引いた。
そして、その手が無意識に自分の首元へ触れた。
まるで、ほどけかけたはずの見えない紐を、もう一度確かめてしまうように。
リディアは、ゆっくり扉を見る。
扉が開く。
そこに立っていたのは、ひとりの上級生だった。
淡い灰紫のドレス。
白い手袋。
整えられた濃茶の髪。
柔らかな微笑み。
そして、ほんのわずかに漂う、夜の沈丁花。
「ロザリンド・ハートレイ様……」
ヴィオラが小さく呟いた。
ロザリンドは、完璧な角度で会釈した。
「ごきげんよう。皆さま」
声は穏やかだった。
柔らかく、丁寧で、隙がない。
「偶然、近くを通りかかりましたの。ヴィオラ様が謝罪の件でお悩みだと聞いておりましたので、少し心配になって」
偶然。
クラリスは、その言葉を胸の中で転がした。
偶然というものは、便利な布だ。
何かを隠す時によく使われる。
「ロザリンド様」
クラリスは立ち上がり、礼をした。
「ご心配ありがとうございます。ただ、ただいまマリア様ご本人への謝罪の申し入れを済ませたところです」
「まあ」
ロザリンドは目を細める。
「被害を受けた方への配慮は大切ですものね」
「ええ」
「ただ、学院での正式な謝罪文は、礼法委員か学院長補佐を通して整える方がよろしいかと。お気持ちだけで直接動くと、かえって混乱が広がることもございますから」
丁寧だった。
とても丁寧だった。
だが、その言葉は、マリアを見ていなかった。
謝罪する側と、書面を受け取る学院と、場を整える礼法委員。
その三つしか見ていない。
謝られる側の席が、文面から消えている。
クラリスは静かに微笑んだ。
「その点は、こちらでも考慮しております」
「そうですか」
ロザリンドの視線が、クラリスの手元に落ちた。
新しい謝罪文。
そしてマリアが持つ写し。
一瞬。
本当に一瞬だけ、白い手袋の指が動いた。
「拝見しても?」
「申し訳ありません」
クラリスは即座に言った。
「こちらは、マリア様ご本人にお渡しした写しです。ご本人の許可なく、第三者へお見せするものではありません」
ロザリンドの微笑みは崩れない。
「わたくしは礼法委員ですわ」
「ええ。ですから、正式提出分は学院長補佐を通して確認いただけます」
クラリスも笑う。
「順番は大切ですもの」
リディアが嬉しそうに頷いた。
「はい。お茶も、茶葉より先に砂糖を入れては台無しですわ」
ロザリンドの視線が、初めてリディアへ向いた。
「フォルクレア様は、本当にお茶がお好きなのですね」
「はい」
リディアはにこりと笑う。
「汚れていないお茶は、とても好きですわ」
空気が、ほんの少し冷えた。
ロザリンドは微笑んだままだ。
だが、白い手袋の指先が、わずかに握られる。
クラリスはそれを見た。
そしてリディアも、おそらく見ていた。
「ところで、ロザリンド様」
リディアが首を傾げる。
「はい?」
「昨日、旧温室にいらっしゃいました?」
ヴィオラが息を呑んだ。
マリアは驚いたように目を見開く。
クラリスは心の中で額を押さえた。
直球。
本当に、この子は時々、茶菓子の皿を運ぶような顔で爆弾を置く。
ロザリンドは、わずかにも動じなかった。
「旧温室? いいえ。昨日は礼法委員の記録整理がございましたので」
「そうですか」
リディアは素直に頷く。
「では、同じ香りの方がいらしたのですね」
「香り?」
「はい。夜の沈丁花、とクラリスさんがおっしゃっていましたわ」
クラリスは扇を開いた。
もう止められない。
ならば、せめて外堀を整える。
「昨日、旧温室に残っていた香水と同じ香りが、ロザリンド様からもいたします」
ロザリンドは、ふふ、と小さく笑った。
「人気の香りですもの。同じ香水を使う方は、学院にも何人かいらっしゃるでしょう」
「その通りですわ」
クラリスは頷いた。
「ですから、香りだけで何かを断定するつもりはございません」
ロザリンドの笑みが、ほんの少しだけ深まる。
勝ったと思った顔。
クラリスは、その表情を見逃さない。
「ただ」
クラリスは続けた。
「昨日の旧温室には、夜の沈丁花に加えて、墨と、焦げかけた紙の匂いが残っていたそうです」
ロザリンドの白い手袋の指先が、ほんのわずかに止まった。
ほんのわずか。
知らなければ見逃す程度。
だが、クラリスは見た。
リディアも見た。
「まあ。面白いお話ですわね」
ロザリンドの声は、まだ柔らかい。
「香りだけでそこまで分かるなんて」
「わたくしも、全部分かるわけではありません」
リディアは穏やかに言った。
「ただ、焦げた紙の匂いは、お茶の香りには合いませんもの」
「お茶に合うかどうかで判断なさるの?」
「はい」
リディアは微笑んだ。
「たいていの汚れは、美味しいお茶の邪魔をしますわ」
マリアが、ほんの少しだけ笑いそうになった。
ヴィオラは青ざめたまま俯いている。
クラリスは、部屋の空気が変わったのを感じた。
ロザリンドは強い。
イザベラのように感情で崩れない。
だが、今の一瞬。
焦げた紙の匂いに触れた瞬間だけ、彼女の手袋は止まった。
そこに、何かがある。
「いずれにしても」
クラリスは、話を切った。
「ヴィオラ様の謝罪文は、マリア様への申し入れを経た上で、学院長補佐へ提出します。写しは、ヴィオラ様、マリア様、こちらの三者で保管します」
ロザリンドの微笑みが、わずかに薄くなった。
「ずいぶんと念入りですのね」
「ええ」
クラリスは笑った。
「誰かが後から、別の色を塗れないように」
沈黙。
短い沈黙だった。
けれど、マリアがその中で謝罪文の写しをぎゅっと抱えた。
それだけで十分だった。
ロザリンドは、ゆっくりと礼をした。
「分かりましたわ。では、学院長補佐の場で改めて確認いたしましょう」
「はい」
「それでは、失礼いたします」
白い手袋が扉に触れる。
その瞬間、リディアが小さく言った。
「ロザリンド様」
「何かしら」
「手袋、少しだけ汚れておりますわ」
部屋の空気が止まった。
ロザリンドは、自分の右手を見る。
白い手袋の人差し指。
ほんの小さな黒い点があった。
墨。
あるいは、焦げた紙の煤。
言い切れるほど大きなものではない。
けれど、白い布の上では目立つ。
リディアは、申し訳なさそうに微笑んだ。
「白い布は、汚れがよく見えてしまいますものね」
ロザリンドは、ゆっくり手袋を見下ろした。
「……よく、見ていらっしゃるのね」
声は柔らかかった。
けれど、その一瞬だけ、微笑みの奥の目が変わった。
獲物を測るような、冷たい目だった。
クラリスは、扇の陰で息を止める。
ロザリンドは、リディアを見た。
リディアもまた、穏やかにロザリンドを見ていた。
「はい」
リディアは、にこりと笑った。
「汚れは、小さいうちに見つけた方がよろしいですもの」
ロザリンドの目が、わずかに細まる。
それは怒りではない。
警戒だった。
リディア・フォルクレアという令嬢を、ただのおっとりした新入生ではなく、排除すべき異物として測り直す目だった。
「……ご親切に」
声は変わらなかった。
だが、先ほどよりほんの少しだけ、温度が低かった。
扉が閉まる。
廊下に、夜の沈丁花の香りが薄く残った。
しばらく、誰も喋らなかった。
最初に声を出したのは、マリアだった。
「……あの方が、昨日の四人目なのですか」
「まだ断定はしないわ」
クラリスは答えた。
「でも、候補ではある」
ヴィオラは震えながら言った。
「ロザリンド様は、いつも丁寧で、間違いのない方です。だから、私は……」
「丁寧な布ほど、汚れを包むのに使いやすいのよ」
クラリスは低く言った。
リディアは、扉の向こうを見つめていた。
「クラリスさん」
「何?」
「白い手袋は、綺麗に見えますわね」
「そうね」
「でも、汚れたまま誰かに触れると、触れたものまで汚してしまいます」
クラリスは、ゆっくり頷いた。
「ええ。だから洗わないとね」
マリアは、手元の写しを見た。
ヴィオラは、新しい謝罪文を抱え直した。
リディアは、穏やかに微笑む。
「次は、手袋のお掃除ですわね」
クラリスは扇を閉じた。
「いいえ」
「違いますの?」
「手袋だけじゃ足りないわ」
クラリスの目は、扉の向こうを見ていた。
「その手袋を白く見せている、礼法委員そのものを見る必要がある」
廊下の向こうで、鐘が鳴った。
午後二時まで、まだ少し時間がある。
謝罪文は首輪ではなくなった。
だが、首輪を編んだ手は、まだ白い手袋の中に隠れている。
そして、その手袋には、もう小さな黒い点がついていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第5話は、マリアへの謝罪申し入れと、ロザリンドとの初対面でした。
ヴィオラが謝罪を申し入れ、マリアが「今は受け取れない」と言えること。
それ自体が、彼女の席を取り戻す第一歩になっています。
一方で、礼法委員ロザリンドの白い手袋に残った小さな汚れ。
香水、墨、焦げた紙、そして謝罪文。
次回は、学院長補佐への提出の場へ進みます。
正しい文面が、礼法委員の“綺麗な処理”をどう揺らすのか。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




