第4話 首輪をほどく謝罪文と、焦げた紙の匂い
「まず、動かないで」
旧温室の脇扉がわずかに揺れている。
その向こうからは、もう足音は聞こえない。
ただ、甘い花の香りだけが、湿った土と古い葉の匂いの中に薄く残っていた。
クラリス・ベルモンドは、扇を閉じた。
音は小さかった。
けれど、その場にいる全員の背筋を正すには十分だった。
「ヴィオラ様。あなたは席を立たないで。リディア、あなたも」
「まあ。わたくしもですか?」
「ええ。あなたは勝手に染みを見つけに行くでしょう」
「見つけたら、拭いた方がよろしいかと」
「今は拭く前に、どこから染みたかを見る時間よ」
クラリスはそう言って、温室の中を素早く見渡した。
中央の丸卓。
カップは三つ。
しかし茶器台には、薄く丸い湿り気が残っている。
誰かが四つ目のカップを一度置き、そこから持ち去った。
焼き菓子の小皿は四枚。
そのうち一枚だけ、菓子が手つかずのまま残っている。
脇扉は半分だけ開いている。
床には、湿った土の上にわずかな足跡。
そして空気には、濃い香水の残り香。
クラリスは脇扉のそばまで近づき、風の流れを確かめるように目を細めた。
「……夜の沈丁花ね」
「夜の、沈丁花?」
リディアが首を傾げる。
「王都の調香師ルネ工房の香水よ。午後の授業や普通の茶会につける香りじゃないわ。夜会向け。花の甘さが強くて、しかも香りを長く残すために定着剤を多めに入れてある」
クラリスは、扇の先で空気を軽く払った。
「普通なら、温室の土と葉の匂いに負けるはずなのに、まだ残っている。これは市販品じゃないわ。調合を少しいじらせている。少なくとも、そういう注文ができる家の令嬢」
ヴィオラ・ランスフォードの顔が、さらに青ざめた。
「その香りを、知っていらっしゃるのですか」
「ベルモンド家は香水も扱っているの」
クラリスは短く答える。
「香りそのものよりも、残し方に性格が出るわ。これは、去った後にも自分の存在を忘れさせたくない人間の香りよ」
リディアは、感心したように瞬きをした。
「クラリスさんは、香りからも人を見ますのね」
「あなたに言われたくないわ」
「わたくしは、ただ少し濁っていると思うだけですもの」
「それで伯爵令嬢の仮面を剥がしたのは誰だったかしら」
リディアは、困ったように微笑んだ。
ヴィオラは、そのやり取りを聞きながらも震えていた。
「どうしましょう……聞かれて、しまいました。私が、その……イザベラ様のご指示だと認めるようなことを……」
「認めてはいないわ」
クラリスは即座に言った。
「あなたは沈黙しただけ。沈黙は証言ではない。ただし、相手が都合よく使おうとすれば、いくらでも使える」
ヴィオラの唇が震える。
「なら、私はもう……」
「まだ終わっていないわ」
クラリスは卓上の謝罪文を手に取った。
「むしろ、今やるべきことがはっきりしただけよ」
リディアは、手つかずの焼き菓子を見ていた。
「四人目の方は、お菓子を召し上がらずに帰られました」
「今はそこじゃないわ」
「でも、せっかくのお茶会ですのに」
リディアはほんの少しだけ眉を下げる。
「もてなしも、謝罪も、途中で投げ出されると汚れてしまいますわ」
クラリスは一瞬だけ言葉を失った。
この子はずれている。
いつも通り、かなりずれている。
だが、完全には外していない。
今日の茶会は、途中で投げ出された。
ヴィオラの謝罪も。
助けを求める勇気も。
四人目の誰かに、踏み荒らされ、半端な形で放り出された。
リディアが悲しんでいるのは、菓子だけではないのかもしれない。
そう思いたい程度には、クラリスはもうリディアの隣に慣れ始めていた。
「ヴィオラ様」
クラリスは椅子に座り直し、筆記帳を開いた。
「あなた、明日の午後に学院長補佐へこの謝罪文を出す予定だったわね」
「はい」
「提出時刻は?」
「午後二時です」
「場所は?」
「西棟の執務室です」
「誰が同席する予定?」
ヴィオラは少し躊躇った。
「……イザベラ様と、ロザリンド様です」
「ロザリンド?」
「ロザリンド・ハートレイ様。イザベラ様と同じ上級生で、学院の礼法委員に所属していらっしゃいます」
クラリスの目が細くなる。
「礼法委員」
「はい。イザベラ様よりも、学院の先生方とのやり取りに慣れていらして……書面の言葉遣いも、ロザリンド様が整えてくださいました」
「なるほど」
クラリスは卓上の紙を見る。
王都ルブラン工房の高級紙。
先月出たばかりの流行の紙。
整いすぎた文面。
差出人不明の招待状。
夜の沈丁花。
濃い香水。
硬い靴音。
礼法委員の上級生。
全てが線でつながるには、まだ足りない。
けれど、線の端は見え始めていた。
「この謝罪文、あなたの字ではないわね」
ヴィオラが小さく頷く。
「下書きです。これを、明日までに私の字で写してくるようにと」
「首輪の型紙、というわけね」
ヴィオラが息を呑む。
クラリスは、あえて厳しい声を出した。
「よく聞いて。あなたがこの文面を自分の字で写して署名したら、それはもう“言わされた”では済まないわ。あなた自身の意思で、首に輪をかけたことになる」
「……はい」
「でも逆に言えば、まだ署名していない。まだ自分の字でも書いていない。なら、首輪になる前に、布に戻せる」
「布に……」
ヴィオラが、リディアを見た。
リディアは穏やかに頷いた。
「はい。汚れを拭くための布です」
「でも、私は……本当に悪いことをしました」
ヴィオラの声は震えていた。
「マリア様に恥をかかせようとしました。イザベラ様の指示があったとしても、私が自分の手で扇を広げました。菓子皿も動かしました。私が、加担しました」
「それは書くべきです」
リディアは静かに言った。
ヴィオラが顔を上げる。
「リディア」
クラリスが小さく制しようとしたが、リディアは続けた。
「してしまったことを、していないことにする紙では、きっと綺麗になりませんわ」
その言葉は、優しくはなかった。
けれど、不思議と突き放すものでもなかった。
「でも、していないことまで書いてしまったら、その紙で拭いた場所に、また別の泥がついてしまいます」
ヴィオラの瞳が揺れる。
クラリスは筆記帳を開き、ペンを取った。
「だから、文面を分けるの」
「分ける?」
「あなたが認めるべきこと。あなたが謝るべき相手。学院に確認を求めるべきこと。この三つを混ぜるから、首輪になる」
クラリスは新しい紙を一枚取り出した。
ベルモンド家の商会で使う試算用の紙だ。
ルブラン工房の高級紙ほど美しくはない。
だが、書きやすく、滲みにくい。
実務のための紙。
クラリスには、そちらの方がずっと信用できた。
「まず一文目」
クラリスはさらさらと書き始める。
「私は、歓迎茶会において、マリア・エルシェン様の席札移動に関与し、同氏に不安と不利益を与えたことを認めます」
ヴィオラが息を詰める。
「次」
「はい」
「その件について、マリア・エルシェン様に直接謝罪を申し入れます。ただし、謝罪の受領および面会の可否は、マリア様ご本人の意思に委ねます」
リディアが嬉しそうに瞬きをした。
「クラリスさん」
「何?」
「とても綺麗ですわ」
「まだ途中よ」
「でも、その一文は綺麗です。謝られる側の席が、ちゃんと残っておりますもの」
クラリスは少しだけ耳を赤くした。
「……変な褒め方をしないで」
ヴィオラは、じっとその文面を見つめていた。
「マリア様が、会いたくないとおっしゃったら」
「それも受け入れるのよ」
クラリスが言った。
「謝りたい、というあなたの気持ちはあなたのもの。でも、謝罪を受け取るかどうかはマリア様のもの。そこを奪ったら、また別の形で相手を踏むことになる」
ヴィオラの肩が小さく震えた。
「はい」
リディアは、静かに紅茶を見ていた。
「許していただくために謝るのではありませんものね」
ヴィオラがリディアを見る。
「では、何のために……」
「汚した場所を、汚したと認めるためではないでしょうか」
リディアは柔らかく言った。
「綺麗になるかどうかは、拭いた後のことですわ」
ヴィオラは、また泣きそうな顔をした。
だが今度は、涙を落とさなかった。
クラリスは三文目を書いた。
「当日の経緯、および他者の関与については、私個人の判断のみで断定せず、学院の事実確認に委ねます」
「これで、イザベラ様を名指ししなくて済む。でも“全部私の独断です”とも書かない」
「そんな書き方が……」
「できるのよ。できないと思わせるために、あちらは美しい言葉で首輪を編むの」
クラリスはさらに続ける。
「今後の礼法指導については、学院の定める公正な担当者の指導を受け、同様の行為を繰り返さないよう努めます」
ペン先が止まる。
「これで、“イザベラ様のご指導のもと”という文は消える」
ヴィオラは、息を止めたようにその一文を見た。
まるで、見えない紐がひとつ、首元から外れたかのように。
「……ああ」
かすれた声が、ヴィオラの唇から漏れた。
彼女は自分の喉元に、そっと指を添える。
「私、呼吸をしてもよろしいのですね」
その言葉で、クラリスは初めて気づいた。
この少女は、謝罪文を書かされていたのではない。
首を差し出す姿勢のまま、息を止めていたのだ。
家のために。
派閥のために。
イザベラのために。
それらしい言葉で包まれて、静かに息を止めることを求められていた。
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「当たり前でしょう」
声は、思ったより柔らかくなった。
「謝罪は、息を止めるためにするものじゃないわ」
ヴィオラは、何度も小さく頷いた。
「はい……はい」
リディアは、その様子を見ながら、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「首輪が、少しほどけましたわね」
「あなたの中では、やっぱり布と首輪なのね」
「クラリスさんが、そうおっしゃいましたもの」
「言ったけれど」
ヴィオラは二人を交互に見た。
その瞳に、少しだけ光が戻っていた。
「これを、提出してもよいのでしょうか」
「よいかどうかではないわ。提出する意味がある文面にするの」
クラリスは紙を置いた。
「ただし、これを出す前に、マリア様に謝罪の申し入れをする必要がある。彼女を置き去りにしたまま学院にだけ綺麗な文面を出しても、また順番が違う」
リディアは、深く頷いた。
「順番は大切ですわ。お茶も、茶葉より先に砂糖を入れては台無しですもの」
「たとえが独特だけれど、今回は大きく外してはいないわ」
その時、温室の外から人の声がした。
「水やりに来ましたー」
園芸部の下級生だ。
クラリスは時計を見る。
予定より少し早い。
だが、むしろよかった。
これで、ここに三人がいたことを証明する第三者ができる。
「今日はここまでにしましょう」
クラリスは新しい謝罪文を丁寧に畳んだ。
「ヴィオラ様。この文面を書き写す前に、まずマリア様へ面会を申し入れる。私も同席します。リディアも」
「もちろんですわ」
ヴィオラは少しだけ迷い、それから小さく頷いた。
「お願いいたします」
「それと」
クラリスは、旧温室の脇扉を見た。
夜の沈丁花の残り香は、かなり薄くなっていた。
それでも、かすかに甘さが残っている。
「今日の話は、すでに誰かに聞かれている。だから、こちらから先に動くわ。相手が都合よく噂にする前に、正式な申し入れを出す」
「正式な……」
「ええ。噂より先に、記録を作るの」
リディアは首を傾げた。
「記録は、染みになりますか?」
「使い方を間違えればね」
クラリスは答えた。
「でも、正しく残せば、あとで誰かが勝手に色を塗れなくなる」
「まあ」
リディアはにこりとした。
「では、乾いた布のようなものですわね」
「……あなたの中では、だいたい布になるのね」
旧温室を出る前に、リディアはもう一度だけ卓上を振り返った。
三つのカップ。
四つ目の跡。
手つかずの焼き菓子。
そして、首輪になるはずだった謝罪文。
「クラリスさん」
「何?」
「次のお茶会では、四人目の方にも、ちゃんとお菓子を召し上がっていただきたいですわね」
「まずは、その四人目が誰かを突き止めてからよ」
「はい」
リディアは、どこまでも穏やかに微笑んだ。
「その方の香りも、少し濁っておりましたもの」
クラリスは足を止めた。
「リディア」
「はい」
「あなた、何か分かっているの?」
リディアは少し考えた。
「分かっている、というほどではありません。ただ……」
「ただ?」
「先ほどの香水、花の香りの下に、ほんの少しだけ墨の匂いがしました」
「墨?」
「はい。それから、乾いた紙を火に近づけた時のような匂いも」
クラリスの表情が変わった。
書いたばかりの文字。
そして、消そうとした紙。
その二つが、同じ香水の奥に残っていた。
「……焦げた紙の匂い、ということ?」
「燃えた、とまでは言えませんわ。でも、火に近づけられた紙の匂いです」
リディアは、脇扉の向こうを見る。
「文字を書いて、紙を消して、それでも香水で隠しきれなかったような」
クラリスは目を細めた。
香水。
硬い靴音。
上級生。
墨。
焦げかけた紙。
礼法委員。
書面を整えた者。
ロザリンド・ハートレイ。
名前が、頭の中でひとつの形を取り始める。
だが、まだ口には出さなかった。
証拠が足りない。
今ここで名を出せば、それこそ相手の思う壺だ。
「行くわよ」
クラリスは扇を開いた。
「まずはマリア様。次に学院長補佐。香水の主は、その後」
「はい」
ヴィオラは、新しい謝罪文の草案を胸に抱えた。
その手はまだ震えている。
けれど、先ほどよりほんの少しだけ、指先に力が戻っていた。
旧温室の扉が閉まる。
外の光は明るい。
しかし、学院の空気は確かに動き始めていた。
席札の次は、謝罪文。
謝罪文の次は、派閥。
そしてその先には、おそらく、礼法という名のもっと大きな布がある。
それが汚れを拭くものなのか。
汚れを隠すものなのか。
リディアとクラリスは、まだ知らない。
ただ、紅茶が冷める前に。
次の染みは、もう見え始めていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第4話は、ヴィオラの謝罪文を書き直す回でした。
謝罪は、本来なら汚した場所を拭くためのもの。
けれど使い方を間違えると、誰かの首にかける首輪にもなってしまう。
クラリスは文面で首輪をほどき、リディアは「謝る相手」と「拭くべき汚れ」の順番を見ています。
そして、旧温室に残った香水、墨、焦げた紙の匂い。
誰かが書き、誰かが消そうとしたものがあるのかもしれません。
次回は、マリアへの謝罪申し入れと、香水の主に近づく回です。
リディアとクラリスの“社交掃除”が、少しずつ学院の派閥へ踏み込んでいきます。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




