第3話 謝罪文という名の首輪と、四つ目のカップ
旧温室は、学院の北側にあった。
王立アストリア貴族学院には、新しい硝子温室がある。
薔薇も、蘭も、季節外れの果実も、上級生たちの華やかな茶会も、今ではそちらに集まる。
だから古い温室は、少しだけ忘れられていた。
割れてはいないが曇った硝子。
磨かれてはいるが古びた鉄枠。
隅に寄せられた植木鉢。
花を終えた蔓薔薇。
昼下がりの光は十分に入るのに、どこか影が残る場所だった。
「……思っていたより、人目がありますわね」
リディア・フォルクレアが、温室の入口で首を傾げた。
「人目があるようにしたのよ」
隣でクラリス・ベルモンドが答える。
今日のクラリスは、普段より少しだけ準備が多かった。
淡い若草色のリボンでまとめた髪。
いつもの扇。
小さな筆記帳。
招待状の写し。
そして、香りの強い茶葉を入れた小瓶。
「園芸部の下級生が、三十分後に水やりへ来るわ。旧温室の鍵を管理している用務員にも、私たちがここに来ることは伝えてある」
「まあ。いつの間に」
「あなたが茶葉の香りを比べている間に」
「それは大切な準備ですわ」
「そうね。罠かもしれない茶会に、一番必要なものですものね」
クラリスは呆れた声を出したが、茶葉の小瓶をしっかり持っていた。
リディアが言ったからだ。
濁った香りを誤魔化されないように、一番香りの強い茶葉を持っていきましょう、と。
普通なら笑い飛ばすところだ。
けれどクラリスは、もう知っている。
リディアが「香りが濁っている」と言う時は、たいてい本当に何かが濁っている。
「開けるわよ」
「はい」
クラリスが旧温室の扉を押した。
ぎい、と小さな音が鳴る。
温室の中には、古い緑の匂いが満ちていた。
湿った土。
乾いた葉。
長く使われていない椅子。
それから、誰かが先に淹れたらしい紅茶の香り。
中央の丸卓には、すでに茶器が置かれていた。
カップは三つ。
小さな焼き菓子。
白いナプキン。
そして、ひとりの令嬢が座っていた。
「……お待ちしておりました」
その少女は、リディアたちを見るなり立ち上がった。
年は同じくらい。
淡い藤色のドレス。
きちんと結われた髪。
けれど顔色は悪く、指先は白くなるほど握りしめられていた。
クラリスはすぐに気づいた。
歓迎茶会にいた令嬢だ。
イザベラ・グランヴィルの周囲にいた取り巻きのひとり。
あの時、白い扇を広げた少女。
リディアも気づいたのだろう。
ただし、彼女が見ていたのは少女の顔ではなかった。
少女の指先。
そして、その手元に置かれた一通の紙だった。
「ヴィオラ・ランスフォード様、でいらっしゃいますわね」
クラリスが先に名を呼んだ。
少女は小さく肩を震わせる。
「……はい」
ランスフォード子爵家。
古い家ではあるが、領地は小さい。
グランヴィル伯爵家のような力はない。
だが、古い派閥に属することで、学院内での立場を保っている家。
クラリスは、そこまで思い出してから微笑んだ。
「本日はお招きありがとうございます。ただ、差出人のお名前がありませんでしたので、少し驚きましたわ」
「申し訳、ございません」
ヴィオラは深く頭を下げた。
声が震えている。
「どうしても、お二人にお会いしたくて」
「お茶会のお誘いとしては、少し怯えた文字でしたわね」
リディアが穏やかに言った。
ヴィオラの顔が、はっきり強張った。
「……文字を、ご覧になったのですか」
「はい」
リディアは席につきながら、卓上の紙を見た。
「招待状の“私”という字が、少しだけ震えておりました」
ヴィオラは唇を噛んだ。
「やはり、分かってしまうのですね」
「全部は分かりませんわ。ただ、お茶の香りが濁っておりました」
「……お茶、ですか」
ヴィオラは戸惑ったように呟く。
クラリスは、リディアの代わりに椅子を引いた。
「座りましょう。立ったままでは、話せることも話せなくなるわ」
「はい」
三人は席についた。
カップは三つ。
しかし、卓上に置かれた紅茶は少し冷めていた。
リディアはカップを手に取り、香りを確かめる。
「よい茶葉ですわ」
「……ありがとうございます」
「でも、少し苦いです」
ヴィオラの指が震えた。
クラリスはその反応を見逃さなかった。
「それで、ヴィオラ様。私たちをここへ呼んだ理由を聞かせてくださる?」
ヴィオラはしばらく黙っていた。
温室の外で、風が硝子を撫でる。
古い葉が、かさりと鳴った。
やがて彼女は、膝の上で握っていた白い手を、そっと卓上に置いた。
「歓迎茶会の席札を……動かしたのは、私です」
クラリスの目が細くなる。
リディアは黙っていた。
ヴィオラは続ける。
「一度目は、別の方でした。二度目に扇を広げて視線を逸らしたのが私です。三度目に、菓子皿を動かしたのも……私です」
「イザベラ様のご指示?」
クラリスが問う。
ヴィオラは答えなかった。
それが答えだった。
クラリスは内心で息を吐く。
やはり、そう来たか。
「では、今日は懺悔のお茶会ですの?」
リディアが首を傾げた。
言葉は穏やかだ。
しかし、ヴィオラはびくりと震えた。
「ち、違います。いえ、違わないのですけれど……」
「落ち着いて」
クラリスが言った。
「リディアの言葉は時々刺さるけれど、本人に刺すつもりはないわ」
「まあ」
リディアは少し困った顔をする。
「刺しておりませんのに」
「だから刺さるのよ」
クラリスは小さく返し、再びヴィオラへ向き直った。
「あなたが私たちを呼んだのは、謝罪のためだけではないわね」
ヴィオラの瞳が揺れた。
「……明日の午後、わたくしは、学院長補佐の前で書面を提出することになっています」
「何の書面?」
ヴィオラは、卓上に置かれていた紙を差し出した。
クラリスがそれを受け取る。
リディアも隣から覗き込んだ。
紙は、昨日の招待状と同じものだった。
王都のルブラン工房。
先月出たばかりの高級紙。
この紙をまた使っている。
クラリスはそこで、まず嫌な予感を覚えた。
書かれていた文面は、整っていた。
整いすぎていた。
――私は、歓迎茶会において、独断でマリア・エルシェン様の席札を移動させ、混乱を招きました。
――イザベラ・グランヴィル様をはじめ、主催に関わった上級生の方々には一切の責任はございません。
――すべては私の浅慮によるものです。
――学院の秩序を乱したことを深く反省し、今後はイザベラ様のご指導のもと、礼法の研鑽に努めます。
クラリスは最後まで読んで、ゆっくり紙を卓上に置いた。
「なるほど」
声が低くなった。
「これは謝罪文ではないわね」
ヴィオラが顔を上げる。
「え……?」
「これは、責任の押しつけ先を綺麗に包装した書面よ」
クラリスは紙の端を指で押さえた。
「あなたが自分の首を差し出して、イザベラ様にその紐を握らせるための契約書よ」
ヴィオラの顔から血の気が引いた。
「首を……」
「罪を被るだけなら、まだ終わりがある。でもこの文面は違うわ。あなたは謝った後も、“イザベラ様のご指導”という名目で、もう一度同じ場所へ戻される。首輪をつけたままね」
ヴィオラは、息を呑んだ。
「つまり、あなたがすべて悪かったことにする。イザベラ様は無関係。しかも今後も、あなたはイザベラ様の下で礼法を学ぶことになる。失敗した者として。逆らえない者として」
クラリスは、紙の上に視線を落とした。
「これは謝罪ではないわ。あなたを使い捨てにして、その後も都合よく飼うための文面よ」
ヴィオラの唇が震えた。
「やはり、そうなのですね」
「やはり?」
クラリスが聞き返す。
ヴィオラは俯いた。
「分かっていました。分かっていたつもりです。でも……私の家は、グランヴィル家の派閥に属しています。父も母も、私が騒ぎを大きくすることを望みません」
「家からも?」
「はい」
ヴィオラは俯く。
「この書面に署名すれば、ことは収まる。イザベラ様も私を見捨てない。学院での立場も、最低限は守られる。そう言われました」
クラリスは黙った。
新興貴族の自分なら、怒れる。
踏まれたなら、踏み返すと決められる。
けれど古い小貴族にとって、派閥から外れることは命綱を失うことに近い。
ヴィオラは弱い。
ただし、愚かではない。
自分が汚れを被せられようとしていることに気づいている。
だから震えながら、この招待状を書いたのだ。
「それで、私たちに何をしてほしいの?」
クラリスが問う。
ヴィオラは小さな声で言った。
「……分かりません」
その答えは、ひどく正直だった。
「分からないのです。署名したくありません。でも、しなければ家に迷惑がかかります。マリア様には謝りたい。でも、イザベラ様に逆らうのが怖い。お二人に助けてほしいのか、ただ、誰かに見てほしかっただけなのか……自分でも分からないのです」
リディアは、静かにヴィオラを見ていた。
いや、正確には、彼女の手を見ていた。
白く震える手。
謝罪文の端を握りしめた手。
爪の先が、紙に小さな跡を残している。
「ヴィオラ様」
「はい」
「その紙は、どなたに謝るためのものですか?」
ヴィオラは目を見開いた。
「え……」
「マリア様ですか?」
リディアは首を傾げる。
「それとも、イザベラ様ですか?」
温室の空気が、少しだけ重くなる。
ヴィオラは答えられない。
クラリスも黙っていた。
リディアは、さらに続ける。
「謝罪というものは、汚れを拭くための布のようなものだと思いますの」
「布……」
「はい。でも、床の汚れを拭く布で、壁を擦っても、お部屋は綺麗になりませんでしょう?」
ヴィオラの目が揺れる。
「謝る相手を間違えると、汚れが広がりますわ」
その言葉は、穏やかだった。
穏やかすぎて、逃げ場がなかった。
ヴィオラの唇が震える。
「私は……」
声が掠れた。
「私は、マリア様に謝りたいです」
ぽたり、と涙が落ちた。
「でも、怖いのです。イザベラ様も、家も、派閥も。私が悪いのは分かっています。分かっているのに、全部を背負う勇気もない。最低です。私は、最低です」
「最低ではありませんわ」
リディアは即答した。
ヴィオラが顔を上げる。
「けれど、汚れたままではあります」
「リディア」
クラリスが小さく制した。
だがリディアは、やはり怒っていなかった。
ただ、真っ直ぐだった。
「汚れているなら、拭けばよろしいのです。でも、その紙ではきっと、拭けませんわ」
ヴィオラは、謝罪文を見つめる。
「では……私は、どうすれば」
「署名はしない方がいいわ」
クラリスがはっきり言った。
「少なくとも、その文面では駄目。あなたがしたことは認めるべき。でも、していないことまで背負う必要はない。まして、誰かを守るために自分を差し出す文面など、署名した瞬間に一生残る」
「でも、家が……」
「だから、文面を変えるの」
クラリスは筆記帳を開いた。
「あなたが実際にした行為を認める。マリアさんへの謝罪を明記する。イザベラ様の責任については、“確認できる範囲では”と限定する。今後の指導者をイザベラ様に固定する一文は削る」
ヴィオラは呆然とした。
「そんなことが、できるのでしょうか」
「できる形にするのよ」
クラリスの声は鋭い。
「謝罪文は首輪ではないわ。あなたが首を差し出すためのものじゃない」
リディアは、嬉しそうにクラリスを見た。
「クラリスさん」
「何?」
「とても綺麗な布ですわね」
「布?」
「はい。ちゃんと汚れを拭けそうです」
クラリスは少しだけ耳を赤くした。
「変な褒め方をしないで」
ヴィオラは二人を交互に見た。
その瞳に、少しだけ光が戻る。
だが、その時だった。
かたり。
旧温室の奥で、小さな音がした。
三人の視線が、同時にそちらを向く。
古い植木棚。
絡まった蔓。
曇った硝子。
誰もいないはずの場所で、葉が微かに揺れていた。
クラリスは即座に立ち上がる。
「誰?」
返事はない。
ただ、温室の外側へ続く脇扉が、ほんの少し開いている。
春の風が入り込み、卓上の謝罪文を揺らした。
ヴィオラの顔が青ざめる。
「まさか……」
クラリスは、悔しげに唇を引き結んだ。
完全な密室ではない。
そう思っていた。
だからこそ、人目も置いた。
だが、相手もまた、ここが完全な密室ではないことを知っていたのだ。
旧温室の外で、足音が遠ざかっていく。
軽い。
けれど、女子生徒の室内履きよりも少し硬い音。
そして、風が一度だけ吹き込んだ。
甘い花の香り。
旧温室に残っていた土と葉の匂いには似合わない、濃い香水の残り香だった。
クラリスは目を細める。
「……上級生ね。少なくとも、温室の手入れに来た園芸部ではないわ」
リディアだけが、静かに卓上のカップを見ていた。
「クラリスさん」
「何?」
「このお茶、最初から三つ分だけではありませんでしたわ」
クラリスが振り向く。
リディアは、使われていないはずの茶器台を指さした。
そこには、湿ったカップの跡がひとつ。
丸く、薄く、残っていた。
「四人目が、いらっしゃいました」
温室の空気が冷える。
ヴィオラが震えた。
クラリスは目を細める。
「……なるほど。今日の茶会そのものが、罠だったわけね」
リディアは、少しだけ悲しそうに呟いた。
「せっかくのお茶会なのに、また汚れてしまいましたわね」
「今はそこを気にしている場合じゃないわ」
「それと」
「まだ何かあるの?」
リディアは、卓上の焼き菓子を見た。
四人分置かれていたらしい小皿のうち、ひとつだけが手つかずのまま残っている。
「四人目の方は、お菓子を召し上がらずに帰られたようです」
クラリスは一瞬、言葉を失った。
「本当に今、気にするところはそこじゃないわ」
「でも、せっかく用意されたお茶会ですのに」
リディアは、ほんの少しだけ悲しそうに、手つかずの焼き菓子を見た。
「もてなしも、謝罪も、途中で投げ出されると汚れてしまいますわ」
クラリスは黙った。
その言葉は、いつものように少しずれていた。
けれど、完全にはずれていない。
この茶会は、最初から途中で投げ出されるように仕組まれていた。
謝罪も、助けを求める声も、誰かに聞かせるための罠にされていた。
リディアが悲しんでいるのは、菓子だけではないのかもしれない。
少なくとも、そう思いたかった。
旧温室の外で、足音はもう聞こえない。
春の光はまだ明るい。
けれど、その明るさの中で、学院の汚れはまたひとつ、形を変えた。
次に拭くべき染みは、もう席札ではない。
震える謝罪文と、隠れていた四つ目のカップ。
手つかずの焼き菓子。
そして、それを見ていた誰かの沈黙だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第3話は、旧温室での差出人不明の茶会でした。
席札事件は片づいたはずでしたが、今度は「誰が責任を背負うのか」という形で、別の汚れが出てきました。
ヴィオラは加害側にいた令嬢ですが、同時に切り捨てられようとしている側でもあります。
そして、せっかくのお茶会を途中で汚されたリディアの静かな違和感も、実は少し危ないフラグかもしれません。
隠れていた四人目の正体。
クラリスが書き直す「新しい謝罪文」。
そして、学院の派閥そのものに染み込んだ汚れ。
次回、第4話。
お掃除の対象は、謝罪文からもう少し広がります。
続きも読んでいただけると嬉しいです。
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