第2話 お掃除の噂と、震える招待状
歓迎茶会から三日後。
王立アストリア貴族学院の廊下では、ひとつの噂が静かに歩き回っていた。
曰く、フォルクレア家の令嬢は、笑顔の裏に隠した悪意を見抜くらしい。
曰く、ベルモンド家の令嬢は、その悪意の逃げ道を礼法と校則で塞いでしまうらしい。
曰く、あの二人の前で下手な嘘をつくと、紅茶が冷める前に何もかも片づけられてしまうらしい。
噂というものは、たいてい少し大げさになる。
けれど今回に限っては、クラリス・ベルモンドはあまり訂正する気になれなかった。
「……ねえ、リディア」
「はい、クラリスさん」
「あなた、自分が今どんな顔で見られているか分かっている?」
「顔、ですか?」
リディア・フォルクレアは、学院の中庭に面した回廊で、ふわりと首を傾げた。
薄金色の髪が、午後の光を受けて淡く揺れる。
相変わらず、おっとりとしている。
相変わらず、無害そうである。
そして相変わらず、自分が三日前の歓迎茶会で何をやらかしたのか、半分も分かっていない顔をしていた。
クラリスは深く息を吐く。
「少なくとも今、三人ほどの令嬢があなたを見て、扇で口元を隠したわ」
「まあ。風邪でしょうか」
「違うわ」
「では、照れていらっしゃる?」
「もっと違うわ」
クラリスは、つい額を押さえた。
歓迎茶会での席札事件。
平民特待生マリア・エルシェンの席札を三度動かし、わざと作法違反を誘ったイザベラ・グランヴィル伯爵令嬢は、あの日を境に明らかに人の輪から少しずつ外れた。
誰かが彼女を追放したわけではない。
処罰が下ったわけでもない。
だが、茶会の場で「たかが平民の席札でしょう」と口走った事実は、彼女自身の上品な仮面にひびを入れた。
以後、彼女が何かを指導しようとすると、周囲の令嬢たちは一拍だけ沈黙するようになった。
その一拍が、社交においてどれほど重いか。
イザベラは、たぶんよく知っている。
だからこそ、余計に堪えるはずだ。
「イザベラ様、今日の礼法講義にはいらっしゃいませんでしたわね」
リディアがぽつりと言った。
クラリスは彼女を横目で見る。
「気になるの?」
「はい」
「意外ね。助けたマリアさんではなく、イザベラ様を?」
「助けた、というほどではありませんわ。わたくしはただ、席札が汚れているように見えただけですもの」
「そこよ。そこが怖いのよ」
クラリスは小声で言った。
リディアは不思議そうに瞬きをする。
「でも、イザベラ様のお茶も、きっと冷めてしまいましたでしょう?」
その声は、心配しているようにも聞こえた。
けれど、クラリスには分かってしまった。
リディアの関心は、イザベラの傷そのものではない。
あの日の茶会に混じってしまった濁り。
冷めてしまった紅茶。
汚れて見えた席札。
彼女の意識は、そちらの方に少しだけ近い。
あまりにも澄んでいる。
澄みすぎていて、底が見えない。
この子は、悪意を憎んでいるのではない。
ただ、汚れたものをそのままにしておけないだけなのだ。
「……あなた、時々どちらの心配をしているのか分からないわね」
「お茶は温かいうちが一番ですもの」
リディアは真面目に言った。
その横顔を見ながら、クラリスは胸の奥で小さく笑った。
この子は、たぶん本当にそう思っている。
マリアを助けた。
イザベラを倒した。
そんな風には考えていない。
茶会の空気が濁っていた。
席札が汚れて見えた。
だから拭いた。
ただ、それだけ。
その結果、伯爵令嬢の社交的な仮面が剥がれ落ちた。
これほど危ない令嬢を、クラリスはほかに知らない。
そして、これほど使い道のある令嬢も。
――やめなさい、私。
クラリスは自分の胸の内をたしなめる。
リディアを利用しようと考えるたびに、どこかで苦いものが喉に上がる。
それでも、その考えを完全には捨てられない。
自分は新興貴族だ。
この学院では、古い家名だけで席が決まる。
礼法を語る者ほど、礼法を棍棒のように振るう。
ならばこちらも、礼法で押し返して何が悪い。
リディアという、悪意の染みを見逃さない奇妙な令嬢が隣にいるなら。
自分がその言葉を、社交の場で通る形に整えればいい。
そう思ってしまう。
思ってしまう自分を、少しだけ嫌だと思う。
「クラリスさん?」
リディアの声で、クラリスは我に返った。
「何?」
「考えごとですか?」
「少しね」
「では、お茶にいたしましょう」
「どういう繋がり?」
「考えごとの時は、お茶が合いますもの」
リディアは当然のように言った。
クラリスは呆れながらも、否定しなかった。
二人が向かったのは、学院の東棟にある小さな談話室だった。
正式なサロンではない。
上級生たちの派閥茶会が開かれる華やかな温室でもない。
新入生や下級生が、授業の合間に使う控えめな部屋である。
窓際には古い長椅子。
壁際には本棚。
中央には丸い茶卓。
派手さはないが、風通しは良い。
リディアはこの部屋を気に入っていた。
理由は、茶器の曇りが少ないからだ。
「茶器で場所を選ぶ令嬢、初めて見たわ」
クラリスが呟く。
「曇った茶器でいただくと、せっかくのお茶がかわいそうですもの」
「お茶に同情するのね」
「はい」
「人には?」
「もちろん、しますわ」
「順番がおかしいのよ」
クラリスはそう言いながらも、給仕台から茶器を整える。
ベルモンド家は商会を母体に伸びた家だ。
だからクラリスは、茶葉の値段も、カップの産地も、砂糖菓子の仕入れ先も、自然と見てしまう。
古い貴族令嬢たちが「下品」と顔をしかめるその感覚を、クラリスは恥じていない。
ただ、時々腹が立つだけだ。
価値が分からない者ほど、値段の話を嫌う。
値段を知らない者ほど、平気で人の努力を踏む。
リディアは、そんなクラリスの手元を見てにこにこしていた。
「クラリスさんは、お茶を淹れるのがお上手ですわ」
「褒めても、うちの商会の茶葉は安くならないわよ」
「まあ。残念です」
「本気で残念そうな顔をしないで」
その時だった。
談話室の扉が、小さく叩かれた。
二人が振り向く。
扉の向こうに立っていたのは、学院の使い走りをしている下級の侍女だった。
彼女は緊張した顔で、一通の封書を差し出す。
「リディア・フォルクレア様に、お届けものです」
「わたくしに?」
リディアは首を傾げながら受け取った。
白い封筒だった。
紙質は上等。
封蝋は丁寧に押されている。
紋章はない。
差出人の名もない。
宛名だけが、流麗な文字で記されていた。
リディア・フォルクレア様。
たったそれだけ。
クラリスの眉が動いた。
「差出人なし?」
「はい」
リディアは封筒を持ち上げ、光に透かした。
「とても綺麗な紙ですわね」
「見るところ、そこ?」
「ほかにどこを?」
「差出人がないところよ」
「まあ。確かに」
リディアは封筒をじっと見つめる。
それから、静かに首を傾げた。
「……少しだけ、お茶の香りが濁っておりますわ」
クラリスはカップを置いた。
「出たわね」
「何がでしょう?」
「あなたの、それ」
「それ?」
「汚れ発見の合図」
「まあ」
リディアは、困ったように笑う。
「汚れと言うほどではありません。ただ、香りの底に、少しだけ苦いものが沈んでいるような」
「十分よ」
クラリスは封筒を受け取り、慎重に表面を見た。
「この紙、王都のルブラン工房のものね」
「紙にも工房が分かりますの?」
「分かるわよ。紙の白さ、厚み、端の処理。これは先月出たばかりの新作」
クラリスは封筒の端を指先でなぞった。
「白さを出すために、北方産の綿を混ぜている。手触りは柔らかいけれど、芯がある。値も張るわ。少なくとも、普通の下級生が気軽に使うものではないわね」
「まあ。紙にも流行がございますのね」
「あるわ。特に、流行を“知っていること”を見せたい令嬢たちにはね」
クラリスは目を細めた。
「つまり、この招待状を書いた本人、あるいはその周囲には、王都の流行に敏感で、なおかつ金を出せる人間がいる」
「クラリスさんは、紙を見るだけでそこまで分かりますのね」
「あなたこそ、香りが濁っているとか言うじゃない」
「わたくしのは、なんとなくですわ」
「その“なんとなく”で伯爵令嬢の仮面を剥がした人が何を言っているの」
クラリスは封筒を裏返した。
封蝋の色は深い青。
紋章を押さないのは、あえて身元を隠している証拠。
文字は美しい。
ただし、どこか不自然なほど整っている。
「誰かが、筆跡を隠そうとしているわね」
「分かりますの?」
「文字が上手すぎるのよ」
「上手いのに?」
「ええ。上手い人間が、さらに上手く見えるように書いている。癖を消した字だわ」
クラリスは封を切らずに、薄く目を細めた。
「これ、罠か相談か、どちらかね」
「どちらでしょう」
「あなたの場合、どちらでも開けるでしょう?」
「開けない方がよろしいですか?」
「開けるわよ。開けないと、お茶がまずくなるんでしょう?」
「はい」
「なら開けるしかないじゃない」
クラリスは呆れながらも、丁寧に封を切った。
中には一枚の招待状。
文面は短い。
――明後日、午後三時。
――旧温室にて、私的な茶会を開きます。
――リディア・フォルクレア様、ならびにクラリス・ベルモンド様のご参加をお待ちしております。
それだけだった。
やはり差出人の名はない。
「私も?」
クラリスが目を細める。
「二人宛てですわね」
「なるほど。あなた一人を呼び出す気ではない。私もセットで見ている。つまり、席札事件を見ていた者ね」
「わたくしたち、そんなに目立っておりました?」
「目立っていないと思っているなら、今すぐその考えを捨てなさい」
クラリスは招待状を卓上に置いた。
旧温室。
学院の北側にある、今はあまり使われていない硝子張りの温室である。
かつては上級生たちの茶会に使われていたが、新しい温室が建てられてからは、時折園芸部の生徒が出入りする程度になっている。
人目は少ない。
けれど完全な密室ではない。
相談にも、罠にも向いている場所だ。
「行きませんわ、とは言いづらいですわね」
リディアが言った。
「なぜ?」
「招待状が、少し震えている気がしますもの」
「震えている?」
「はい」
リディアは招待状に顔を近づけ、文面の一部を指さした。
「見てください、クラリスさん。この『私的な茶会』の“私”という字。最後のハネのところだけ、インクがほんの少し散っていますわ」
クラリスは目を凝らした。
確かに、ほかの文字は妙なほど整っている。
だが、その一画だけ、インクの先が小さく乱れていた。
「……本当だわ」
「書いた方の指が、一瞬だけ震えたのかもしれません。ほかの文字は整っておりますのに、ここだけ、少し怖がっているように見えます」
クラリスは、思わず黙った。
そんなところまで見るのか、と。
文字の癖を読む者はいる。
筆跡から家柄や教育を推測する者もいる。
けれど、たった一画のインクの散りから、書いた者の恐怖まで拾う令嬢など、クラリスは聞いたことがない。
便利すぎる。
そして、怖すぎる。
もし自分が、リディアに何かを隠そうとしたら。
この子はその震えも、汚れも、きっと見つけてしまうのだろうか。
「クラリスさん?」
「何でもないわ」
クラリスは笑顔を作る。
「行くわよ」
「よろしいのですか?」
「もちろん。ただし、準備してからね」
「準備?」
「旧温室に二人きりで行くわけにはいかないでしょう。目撃者を置く。逃げ道も作る。あと、万が一のために、招待状の写しを取る」
「まあ」
リディアは感心したように目を輝かせた。
「クラリスさんは、とても頼りになりますわ」
やめて。
そんな顔で言わないで。
クラリスは思わずそう言いかけた。
頼られることには慣れている。
家でも、商会でも、学院でも、クラリスはいつも誰かの面倒を見てきた。
だがリディアにそう言われると、胸の奥が妙に落ち着かない。
自分はこの子を利用しようとしている。
それなのに、この子はまっすぐにこちらを見る。
汚れを見つける目で。
しかし、自分の野心だけは、まだ汚れとは呼ばない目で。
「……当然でしょう」
クラリスは扇を開いた。
「私はあなたの親友なのだから」
言ってから、自分で少し驚いた。
親友。
その言葉が、するりと出た。
まだ出会ってそれほど経っていない。
まだ互いの家のことも、過去も、ほとんど知らない。
それなのに、口から出たその言葉は、思ったより軽くなかった。
リディアは、嬉しそうに笑った。
「はい。親友さん」
クラリスは視線を逸らした。
「その呼び方、少し恥ずかしいわ」
「では、クラリスさん」
「それでいいのよ」
リディアは招待状に視線を戻す。
その横顔は穏やかだった。
だが、クラリスはもう知っている。
この子が穏やかな顔をしている時ほど、厄介なものを見つけている。
「リディア」
「はい」
「その招待状、どんな風に汚れて見えるの?」
リディアは少し考えた。
「席札の時とは違いますわ」
「どう違うの?」
「あの時は、誰かを転ばせるための泥でした」
「今回は?」
「誰かが、転ばないように必死で掴んだ手すりが、少し汚れているような」
クラリスは目を細めた。
つまり、悪意だけではない。
恐怖。
助けを求める気配。
そして、おそらくその裏に、誰かの汚れた意図。
「……面倒ね」
「そうですか?」
「ええ。とても」
クラリスは紅茶を飲んだ。
少し冷めていた。
けれど、不思議とまずくはなかった。
明後日。
旧温室。
差出人不明の茶会。
席札事件は、たしかに片づいた。
だが、その席札をきっかけに、学院の奥に積もった埃が、少しだけ舞い上がり始めている。
クラリスは、その埃の向こうに何があるのか、まだ知らない。
ただひとつ分かっていることがある。
リディアはきっと、それを見つける。
見つけてしまう。
そして自分は、その隣で、逃げ道を塞ぐことになる。
「クラリスさん」
「今度は何?」
「明後日のお茶会には、どの茶葉がよろしいでしょう」
クラリスは、思わず笑った。
「罠かもしれない茶会に、茶葉の心配?」
「だって、お茶会ですもの」
「そうね」
クラリスは扇を閉じた。
「なら、一番香りの強い茶葉にしましょう」
「なぜですの?」
「濁った香りを、誤魔化されないように」
リディアは嬉しそうに頷いた。
「まあ。素敵ですわ」
窓の外で、春の風が吹いた。
遠くの庭園で、誰かが笑う声がした。
その明るさの裏に、学院の汚れはまだ隠れている。
差出人不明の招待状は、卓上で静かに白く光っていた。
まるで、まだ拭かれていない染みを隠すように。
次のお掃除は、旧温室で始まる。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
席札事件のあと、学院で噂になり始めたリディアとクラリス。
次に届いたのは、差出人不明の招待状でした。
第3話では、二人が旧温室の茶会へ向かいます。
リディアの目が次に捉えるのは、助けを求める令嬢の手か、それとも新しい悪意の染みか。
続きも読んでいただけると嬉しいです。




