第1話 おっとり令嬢は、席札の嘘に気づいてしまう
その席札は、三度動いた。
おっとり令嬢リディアと、姉御肌の親友クラリス。
二人が並ぶお茶会では、悪意も嘘も、紅茶が冷める頃には綺麗に片づけられてしまいます。
令嬢バディ×学院社交×上品なざまぁ。
第一話、開幕です。
その席札は、三度動いた。
一度目は、給仕が新しい茶器を運んできた時。
二度目は、窓際の令嬢が白い扇を広げ、周囲の視線がそちらへ流れた時。
三度目は、誰かがわざとらしく笑い声を上げ、卓上の菓子皿がそっと差し替えられた時だった。
王立アストリア貴族学院。
春の歓迎茶会は、新入生にとって、最初の試験のようなものだ。
誰に先に挨拶するか。
どの席に腰を下ろすか。
誰の言葉に笑い、誰の言葉を聞き流すか。
華やかな茶器と菓子に彩られた午後の庭園で、令嬢たちは笑みを浮かべながら、互いの家格、教養、後ろ盾、将来の婚姻相手まで静かに測っている。
白い卓布。
銀の匙。
薄桃色の薔薇。
蜂蜜を落としたような焼き菓子の香り。
すべてが美しく整えられていた。
少なくとも、見た目だけは。
「……まあ」
リディア・フォルクレアは、ゆっくりと首を傾げた。
薄金色の髪が、ふわりと肩へ流れる。
琥珀色の瞳は眠たげで、声は柔らかい。
学院に入学したばかりの彼女に対する周囲の印象は、おそらくこうだろう。
おっとりしている。
無頓着。
少し世間知らず。
害のない、穏やかな令嬢。
だが、隣に座る少女だけは違った。
クラリス・ベルモンドは、紅茶のカップを持つ手をぴたりと止める。
「……リディア」
「はい、クラリスさん」
「その顔、やめなさい」
「どの顔でしょう?」
「面倒なものを見つけた時の顔よ」
リディアは、ぱちりと瞬きをした。
「まあ。わたくし、そんな顔をしておりました?」
「していたわ。とても穏やかに、とても厄介なものを見つけた顔」
クラリスは小声でそう言い、扇で口元を隠した。
赤みを帯びた栗色の髪をきっちり結い上げた、利発そうな少女である。
ベルモンド男爵家は、新興貴族だった。
金はある。
実務能力もある。
商会との結びつきも強い。
だが、古い貴族たちはそれをなかなか認めない。
成り上がり。
金で席を買った家。
そう陰で呼ばれることがあるのを、クラリスはよく知っていた。
だから彼女は、学院で負けるつもりなどなかった。
礼法も、校則も、噂も、席順も。
使えるものはすべて使って、自分の席を勝ち取るつもりでいた。
そんなクラリスから見ても、リディアという少女は奇妙だった。
ぽやぽやしている。
人の話をゆったり聞く。
困っている者を見ると、ふわりと手を伸ばす。
そのくせ、人の悪意だけは妙に見逃さない。
まるで、白い卓布に落ちた一滴の染みを見つけるように。
「本当に、やめておきなさいよ」
クラリスは声を低くした。
「今日は歓迎茶会よ。まだ入学初日。ここで目立つのは得策じゃないわ」
「目立つつもりはありませんわ」
「その台詞を言う人間ほど、だいたい目立つの」
「まあ」
リディアは少し困ったように笑った。
けれど、その視線は人ではなく、卓上の一点に向けられていた。
席札。
白い厚紙に、金の縁取り。
流麗な筆致で名前が書かれた、美しい小さな札。
その一枚だけが、どうにも汚れて見えた。
もちろん、実際に泥がついているわけではない。
皺もない。
インクの滲みもない。
けれどリディアには、その札の端に、誰かの指先が残した見えない染みがあるように思えた。
美しい茶会に、汚れた意図が混じっている。
それが、ひどく気持ち悪かった。
せっかく茶葉は良いものなのに。
せっかく菓子も焼きたてなのに。
せっかく花まで綺麗に整えてあるのに。
そこだけが、淀んでいる。
「クラリスさん」
「何よ」
「少しだけ、空気が濁っておりますわね」
「……言うと思った」
クラリスは目を閉じた。
その時、茶会の中央で、小さなざわめきが起きた。
「……あら?」
声を上げたのは、淡い水色のドレスを着た少女だった。
マリア・エルシェン。
平民出身の特待生である。
魔法薬学と古典語に優れ、王立学院から正式に奨学金を受けて入学を許された少女。
しかし今、彼女は席札の前で戸惑っていた。
「こちらが、私の席……なのでしょうか」
その声に、数人の令嬢がくすりと笑う。
中央に座っているのは、イザベラ・グランヴィル伯爵令嬢だった。
完璧な淑女。
礼法の模範。
学院の茶会で最も美しく微笑む令嬢。
そう呼ばれる上級生である。
銀糸を織り込んだような髪。
隙のない姿勢。
磨き上げられた微笑み。
その周囲には、彼女を慕う令嬢たちが、花を囲む蔦のように控えていた。
イザベラは、柔らかく目を細める。
「まあ、マリアさん。席札もお読みになれませんの?」
「い、いえ。ですが、先ほどは確か、あちらに……」
「平民の方には少し難しかったかしら。茶会の席次は、ただ空いている場所に座ればよいというものではありませんのよ」
周囲から、抑えた笑いが漏れた。
マリアの頬が赤くなる。
彼女の席札は、確かにそこにあった。
けれどリディアは知っている。
そこは、彼女の席ではなかった。
最初に置かれていた場所は、窓際に近い下座。
二度目に移された先は、同格令嬢たちの間。
そして三度目。
席札は、上級生の席順を乱す位置に滑り込まされた。
つまり、マリアが座れば作法違反。
座らなければ、席札も読めない無礼者。
どちらにしても、恥をかく。
そういう仕掛けだった。
リディアは、マリアを見ていなかった。
彼女が見ていたのは、白い席札だった。
美しく書かれた名の上に、見えない泥が塗られている気がした。
「……窓を開けた方がよろしいでしょうか」
リディアが呟く。
クラリスは、扇の陰で息を吐いた。
「たぶん、開けるべきなのは窓じゃないわ」
「では、何を?」
「逃げ道よ。相手の」
「まあ」
「あなた、今からそれを閉じに行く顔をしているわ」
「そのようなつもりはありませんのに」
「だから怖いのよ」
クラリスは茶会全体を素早く見た。
席札。
給仕の位置。
取り巻きたちの視線。
イザベラの指先。
マリアの震える手。
そして、リディアの穏やかな横顔。
面倒事だ。
関わらない方がいい。
そう思った。
けれど同時に、クラリスの胸の奥で、何かがかすかに高鳴った。
――勝てる。
かわいそう、ではない。
正しい、でもない。
この子の隣にいれば、古い家名だけで席を決めるこの学院の空気を、ひっくり返せるかもしれない。
そんな冷たい計算が、一瞬だけ胸をよぎる。
クラリスは、その自分の思考を恥じるより早く、扇を閉じた。
「いいわ。やるなら綺麗にやりなさい。中途半端にすると、あの子が余計に傷つくわ」
「まあ。何をするお話でしょう?」
「自覚がないのが一番厄介なのよ、あなた」
クラリスがそう呟いた時、リディアはゆっくり立ち上がった。
大声ではない。
だが、不思議とその声は茶会の中央まで届いた。
「イザベラ様」
名を呼ばれたイザベラは、優雅に振り向いた。
「何かしら、フォルクレアさん」
「ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
「ええ。もちろん」
「その席札、先ほどから三度ほど場所を変えられておりますけれど、これは本日の茶会の余興でいらっしゃいますの?」
空気が止まった。
マリアの目が見開かれる。
取り巻きの令嬢たちの笑みが、薄い砂糖衣のように固まった。
イザベラの指が、ほんのわずかにカップの縁を叩く。
一拍。
二拍。
それから、イザベラは微笑みを深めた。
「まあ。何をおっしゃっているの? 見間違いではなくて?」
「そうですわね」
リディアは、にこりと微笑んだ。
「見間違いでしたら、皆さま安心ですわ」
クラリスは、内心で頭を抱えた。
出た。
リディアの悪気のない死刑宣告である。
「では、最初の位置を覚えていらっしゃる方に伺えば、すぐに分かりますわね」
茶会の空気が、さらに冷える。
取り巻きのひとりが慌てて口を開いた。
「そ、そんな細かいこと、覚えている者など――」
「わたくしは覚えておりますわ」
リディアは穏やかに言った。
「一度目は給仕の方が茶器を運ばれた時。二度目はそちらの方が扇を広げた時。三度目は、皆さまが笑っていらした時でした」
名指しはしていない。
けれどリディアの視線は、順に関わった令嬢たちの手元をなぞっていた。
誰の指先が席札に近づいたか。
誰が視線を逸らしたか。
誰が笑い声で注意を引いたか。
そのすべてを、彼女は見ていた。
イザベラは、まだ微笑んでいた。
「不思議ね。けれど、茶会では給仕の者も動きますもの。何かの拍子に触れてしまったのかもしれませんわ」
その声は穏やかだった。
むしろ給仕を気遣っているようにすら聞こえる。
「不慣れな者もおりますし、責めるつもりはありませんの。ただ、マリアさんが混乱してしまったのなら、主催側として確認いたしましょう」
見事な逃げだった。
席札が動いた事実は否定しない。
だが、悪意は認めない。
給仕の不手際。
偶然。
混乱。
そう言い換えれば、自分は傷つかない。
クラリスは立ち上がった。
「それは助かりますわ、イザベラ様」
彼女はにっこり笑う。
「給仕の方の不手際であれば、主催側としても再発防止が必要ですもの。配置表を確認いたしましょう」
イザベラの微笑みが、ほんの少しだけ揺れた。
「配置表?」
「はい。歓迎茶会の席次であれば、当然、最初の配置表が控えられておりますわよね?」
クラリスは扇を閉じ、近くに控えていた給仕へ視線を向けた。
「恐れ入ります。主催側の席次表はございますか?」
給仕の青年は、一瞬だけ迷った。
その視線がイザベラへ流れる。
だが、茶会中の令嬢たちが見ていた。
ここで黙れば、彼自身が責任を被ることになる。
青年は深く頭を下げた。
「……はい。ございます」
「では、マリアさんの本来のお席を確認していただけるかしら」
「かしこまりました」
クラリスの声は明るい。
責めていない。
疑っていない。
ただ、正しい手順を踏んでいるだけ。
だからこそ、誰も止められない。
給仕が席次表を持って戻るまでのわずかな時間、茶会には奇妙な沈黙が落ちた。
イザベラは微笑んでいた。
けれど、その笑みは先ほどより硬い。
リディアは、ただ席札を見つめていた。
白い札。
金の縁取り。
美しい名前。
けれど、やはり汚れて見える。
やがて給仕が戻る。
「マリア・エルシェン様のお席は、こちらではございません。本来は、あちらの窓際のお席でございます」
卓上に、小さな波紋のような沈黙が広がった。
イザベラはすぐに言った。
「では、やはり誰かが誤って動かしたのでしょう」
「そうですわね」
クラリスは頷く。
「では、給仕の方に確認いたしましょう。席札に触れた方はいらっしゃいますか?」
給仕たちは互いに顔を見合わせた。
そして、先ほど茶器を運んでいた青年が震える声で答える。
「私は……席札には触れておりません。茶器を置く際も、札からは離れておりました」
別の給仕も首を振る。
「私も、触れておりません」
「そう」
クラリスは、にこやかに言った。
「では、給仕の不手際ではなさそうですわね」
イザベラの取り巻きの一人が、かすかに息を呑んだ。
逃げ道が、ひとつ塞がった。
イザベラは、それでも崩れなかった。
「ですが、騒ぎ立てるほどのことかしら」
彼女は、穏やかな声音を取り戻そうとしていた。
「マリアさんは学院に不慣れですもの。席次の大切さを学ぶ、よい機会になったのではなくて?」
「学ぶ」
リディアが、小さく繰り返した。
「ええ」
イザベラは、微笑む。
「茶会の場で恥をかく前に、誰かが教えて差し上げるのも親切でしょう? 身分にかかわらず、この学院の品位を守るためには、必要なことですわ」
なるほど、と周囲の誰かが思いかけた。
厳しいが、筋は通っている。
学院の品位。
礼法。
指導。
その言葉は、美しい布のように、汚れたものを覆い隠す。
だがリディアは、首を傾げた。
本当に不思議そうに。
「それは、少し違う気がいたしますわ」
「何が違うのかしら」
「礼法とは、誰かに恥をかかせるためのものではありませんでしょう?」
リディアの声は、怒っていなかった。
責めてもいなかった。
ただ、茶器の曇りを見つけた時のように、困っていた。
「身分の違う方がいらっしゃるなら、恥をかかせないように整えるのが礼法ではありませんの? わざと転ばせてから、『歩き方を教えて差し上げました』と言うのは……」
そこで、リディアは少しだけ悲しそうに席札を見た。
「お掃除の手抜きですわ」
誰も声を出さなかった。
リディアは続ける。
「わたくし、汚れているものはあまり好きではありませんの」
イザベラの頬に、赤みが差す。
「汚れ?」
「はい」
リディアは静かに頷いた。
「汚れた場所に布をかぶせても、お部屋が綺麗になったことにはなりませんもの」
「あなた……」
イザベラの微笑みが、ついに剥がれかけた。
けれど、彼女はまだ耐えた。
「フォルクレアさん。あなたは少し、言葉が過ぎますわ。わたくしはただ、学院の秩序を――」
「秩序とは、誰かを押しのけて隅に寄せることではありませんわ」
リディアは、ふわりと微笑んだ。
「埃を部屋の隅に集めても、そこにあることには変わりませんもの」
その瞬間。
イザベラの手が、ぎゅっと扇を握りしめた。
「……たかが平民の席札でしょう」
声が漏れた。
それは、先ほどまでの絹のような声音ではなかった。
乾いて、硬く、苛立っていた。
「少し場所が違ったくらいで、何だというの。そもそもこの学院にふさわしい振る舞いを知らない者が、早めに恥をかくことの何が悪いのです? 身の程を知るのも、親切ではなくて?」
言ってしまった。
誰かがそう思った。
イザベラ自身も、言葉を吐き出した直後に気づいたのだろう。
唇が、わずかに震えた。
だが、もう遅かった。
水を打ったような静寂が、茶会の庭に落ちる。
鳥の声すら、遠くなったようだった。
誰も何も言わない。
ただ、扇がひとつ、ぱたりと閉じた。
別の令嬢が、視線を伏せる。
先ほどまでイザベラの隣にいた取り巻きが、ほんの半歩だけ距離を取った。
社交の場において、その半歩は十分すぎるほど大きかった。
イザベラの周囲の空気が、すっと薄くなる。
誰も罵倒しない。
誰も糾弾しない。
けれど、誰も彼女を庇わない。
それが、最も重い判決だった。
カチャリ。
静寂の中で、リディアがカップを置く小さな音だけが響いた。
「……お茶が冷めてしまいますわね」
リディアは困ったように呟いた。
その声で、給仕が我に返る。
マリアの席札は、本来の場所へ戻された。
彼女は小さく礼を言い、震える手でカップを取る。
リディアは、それを見ているようで、やはり少し違うものを見ていた。
席札が、元の場所に戻った。
白い札の上の見えない染みが、少しだけ薄くなった気がした。
それでようやく、紅茶の香りが戻ってくる。
クラリスは、リディアの横顔を見つめていた。
この子は、マリアを助けたつもりですらないのかもしれない。
ただ、汚れていた場所を拭いただけ。
淀んでいた空気を、少し整えただけ。
その結果、イザベラ・グランヴィル伯爵令嬢の完璧な仮面は、茶会の卓上で静かに剥がれ落ちた。
クラリスの胸が、また高鳴る。
――勝てる。
この子の隣にいれば。
この子の目を使えば。
礼法を武器にして人を踏む者たちを、こちらの礼法で押し返せる。
家格だけで席を奪う者たちから、自分たちの席を取り返せる。
そう思った。
そして、そう思った自分を、少しだけ嫌だとも思った。
「クラリスさん」
「何?」
「お茶が、少し美味しくなりましたわ」
リディアは嬉しそうに言った。
クラリスは一瞬だけ黙った。
それから、こらえきれないように笑う。
「あなたといると、退屈しないわね」
「そうでしょうか?」
「そうよ。とびきり」
クラリスは紅茶を一口飲んだ。
悔しいほど、良い香りだった。
「リディア」
「はい」
「あなた、一人にしておくと危ないわ」
「まあ。わたくし、危ないことなどしておりませんのに」
「そこが危ないのよ」
クラリスは扇を開き、口元を隠した。
そして、誰にも聞こえない声で呟く。
「だから、隣にいることにするわ」
リディアは嬉しそうに目を細めた。
「では、次のお茶会もご一緒してくださいます?」
「ええ」
クラリスは笑った。
「ただし、次からは事前に教えなさい。どこが汚れて見えるのか」
リディアは、ほんの少し考え込んだ。
そして、真面目な顔で言う。
「汚れは、見つけてから拭くものではありませんの?」
クラリスは額に手を当てた。
「……前途多難ね」
その日を境に、王立アストリア貴族学院の片隅で、妙な噂が流れ始めた。
おっとりしたフォルクレア家の令嬢は、悪意だけは見逃さない。
そして、その隣には必ず、外堀を埋めるベルモンド家の令嬢がいる。
二人の前で、下手な嘘はつかない方がいい。
紅茶が冷める頃には、たいてい何かが綺麗に片づいているから。
ただし。
片づけられるものが、茶菓子の皿とは限らない。
フォルクレア家では、嘘の染みを見つけることも、茶器の曇りを拭うことも、同じ“淑女のたしなみ”として教えられる。
リディア・フォルクレアにとって、それは紅茶の銘柄を当てるよりも、ずっと幼い頃から身につけてきた作法だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
おっとり令嬢リディアと、姉御肌の親友クラリス。
二人の最初のお掃除は、歓迎茶会の席札でした。
リディアは正義感で動いているというより、茶会に混じった悪意や嘘を「汚れ」として見つけてしまう子です。
クラリスはそんなリディアを危ないと思いながらも、「この子となら学院の空気を変えられるかもしれない」と計算してしまう子です。
この二人が、貴族学院の厄介ごとを上品に、ときどき容赦なく片づけていきます。
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