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おっとり令嬢の社交掃除 〜姉御肌の親友と、学院の悪意を上品に片づけます〜  作者: 平八
第一章 席札の嘘と、淀んだお茶会

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13/14

第13話 お掃除組は、名乗らない

事件が一つ片づくと、学院は静かになる。


――などということは、なかった。


むしろ、逆だった。


一枚の席札から始まった騒ぎは、謝罪文、礼法委員、購買倉庫、商会への圧力にまで広がり、学院長補佐室でいくつもの判断が下された。


イザベラ・グランヴィルへの反省文提出命令。


マリア・エルシェンへの接触制限。


ヴィオラ・ランスフォードの旧謝罪文不採用。


礼法委員による文書作成手続きの見直し。


ベルモンド商会への納入保留の一時解除。


ひとつひとつは、すべて記録上の処理だ。


だが、学院に通う学生たちにとっては、それだけでは済まなかった。


噂は、今日も紅茶より早く広がっていた。


「……だから、なぜこうなるのかしら」


クラリス・ベルモンドは、廊下の角で立ち止まり、額を押さえた。


すぐ隣で、リディア・フォルクレアが不思議そうに首を傾げている。


「どうかなさいました?」


「見なさい」


クラリスは、扇で廊下の先を示した。


そこには、三人の下級生がいた。


こちらを見ている。


明らかに見ている。


けれど、近づいてはこない。


近づきたいが、近づいてよいのか分からない、という顔だった。


「困っていらっしゃるのかしら」


リディアが言う。


「ええ。たぶん困っているわ」


「では、お話を聞いた方が」


「待ちなさい」


クラリスは即座に止めた。


「今、あなたが何も考えずに近づいたら、完全に相談窓口になるわ」


「窓口」


リディアは少し考えた。


「窓は開いていた方が、空気が通りますわ」


「そういう意味じゃないのよ」


クラリスは疲れた声で言った。


あの席札事件以来、二人に向けられる視線は明らかに変わった。


以前は、リディアを見る者は少し困惑し、クラリスを見る者は少し警戒していた。


今は違う。


期待が混じっている。


助けてくれるのではないか。


見つけてくれるのではないか。


片づけてくれるのではないか。


そういう視線だ。


そして、クラリスにとって厄介なのは、その視線が敵意ではないことだった。


敵意なら跳ね返せる。


軽蔑なら笑って受け流せる。


だが、善意と感謝と期待は、断る時にこちらの手が少し汚れる。


「クラリスさん」


「何?」


「廊下が少し、眩しいですわね」


「……それは、良い意味?」


「たぶん」


リディアは、下級生たちの方を見た。


「でも、眩しすぎると、埃も見えやすくなりますわ」


「そうなのよ」


クラリスは小さく呟いた。


まさに、それが問題だった。


光が差せば、汚れが見える。


汚れが見えれば、誰かが掃除を求める。


そして掃除をする者には、名前がつく。


廊下の向こうで、下級生たちの一人が勇気を振り絞ったように前へ出た。


「フォルクレア様、ベルモンド様」


「ごきげんよう」


リディアが穏やかに微笑む。


クラリスも、礼儀正しく頷いた。


「何かしら」


下級生は、手にした小さな封筒を胸元で握りしめていた。


「その、あの……お掃除組の方に、ご相談すればよいと聞いて」


クラリスの笑顔が固まった。


リディアは、ぱちりと瞬きをした。


「お掃除組」


「はい。あっ、失礼でしたでしょうか」


下級生の顔が青ざめる。


クラリスは頭痛をこらえた。


「誰が、その呼び名を?」


「ええと……皆さまが」


またそれだった。


皆さま。


一番困る差出人不明の噂。


クラリスは、できるだけ穏やかな声を作った。


「私たちは、そのような組を名乗ってはいません」


「そ、そうなのですか?」


「ええ」


「では、勝手に呼んでは失礼ですよね」


下級生は、しゅんと肩を落とした。


その落ち込み方が、妙に胸に痛い。


まるで、やっと見つけた灯りを消されたような顔だった。


クラリスは、一瞬だけ言葉を失う。


その隙に、リディアが口を開いた。


「お名前は、少し慎重に扱った方がよいそうですわ」


「お名前、ですか」


「はい。クラリスさんがそうおっしゃっていました」


リディアは真面目な顔で続ける。


「でも、困っていることがあるなら、それはお名前とは別に、お話してもよいと思いますわ」


下級生の目が、ぱっと明るくなった。


クラリスは内心で天を仰いだ。


窓が開いた。


今、確実に開いた。


「……話だけよ」


クラリスは折れた。


「今すぐ何かを片づけるとは約束しないわ。名前も、相手も、勝手に出さないこと。あなたが困っているのか、あなたの友人が困っているのか、それも分けて話すこと」


「は、はい!」


下級生は封筒を差し出した。


「これは?」


「友人が、茶会の後に受け取ったものです。中はまだ見ていないそうです。ただ、開けるのが怖いと」


クラリスは封筒を受け取らなかった。


「本人は、私たちに見せることを望んでいるの?」


下級生は、はっとした顔をした。


「……確認していません」


「なら、まず本人に確認しなさい」


「はい」


「封筒を預けるかどうかも、開けるかどうかも、本人が決めること」


「はい」


リディアが、にこりと微笑んだ。


「席を勝手に動かさないのと同じですわ」


下級生は、深く頷いた。


「分かりました。まず、本人に聞いてきます」


そして、礼をして駆け出しかけ、慌てて歩調を整えて去っていった。


クラリスは、その背を見送る。


「……増えるわね」


「封筒ですか?」


「相談がよ」


「困っている方が、声を出せるようになったのなら、良いことでは?」


「良いことよ」


クラリスは扇を閉じた。


「良いことだから、厄介なの」


悪意なら掃除できる。


嘘なら暴ける。


だが、助けを求める声は、簡単には拒めない。


そして、すべての声に応えれば、リディアとクラリスは本当に「お掃除組」になってしまう。


それは危険だった。


組織に見える。


派閥に見える。


既存の秩序を乱す存在に見える。


敵にとっては、叩く理由になる。


学院上層にとっては、管理する理由になる。


そして、助けを求める者にとっては、頼る理由になる。


どこから見ても、面倒だった。


「クラリス様」


今度は別の声がした。


振り向くと、マリア・エルシェンが立っていた。


その隣には、ヴィオラ・ランスフォードもいる。


二人が一緒にいることに、クラリスは少し驚いた。


マリアとヴィオラは、まだ和解したわけではない。


謝罪文も、まだ受け取られてはいない。


それでも、二人が同じ廊下に立っている。


以前なら、それだけで空気が張り詰めただろう。


今日は少し違った。


間に、わずかな距離がある。


けれど、その距離は逃げではなかった。


「マリア様。ヴィオラ様」


クラリスが礼をする。


リディアも微笑む。


「ごきげんよう」


「ごきげんよう」


マリアは、少し緊張しながらも言った。


「先ほどの方は、もしかして相談を?」


「ええ。まだ相談になる前の相談ね」


クラリスは疲れた声で答えた。


ヴィオラは、胸の前で手を重ねる。


「やはり……皆さま、頼りにされているのですね」


「それを言わないで」


クラリスは即座に返した。


ヴィオラが驚く。


リディアは首を傾げる。


「頼りにされるのは、悪いことですの?」


「悪いことではないわ」


クラリスは言った。


「でも、名前がつくと責任もつくの」


マリアが、静かに口を開いた。


「お掃除組、という呼び名のことですか」


クラリスは目を閉じた。


「あなたまで」


「申し訳ありません」


マリアは慌てて頭を下げた。


「でも……私には、少し救いでした」


クラリスは、言葉を止めた。


マリアは、膝の上で両手を握るようにして続ける。


「席札を動かされた時、私は、自分が汚れたのだと思いました。自分がそこにいてはいけないから、席を動かされたのだと」


声は震えている。


だが、マリアは続けた。


「でも、リディア様は席札の汚れを見てくださいました。クラリス様は、紙に何が書かれていないかを見てくださいました。私が汚れていたのではなく、私の席を汚した人がいたのだと、思えました」


リディアは、少し悲しそうな顔をした。


「マリア様は、汚れてなどおりませんわ」


「はい」


マリアは小さく頷いた。


「今は、少しそう思えます」


クラリスは、扇を握る指に力を入れた。


こういう言葉が、一番困る。


拒めない。


突き放せない。


そして、重い。


マリアは、そっと言った。


「だから、お掃除組という呼び名は、失礼かもしれませんが……私には、少しだけ、怖くない言葉でした」


クラリスは、返事ができなかった。


否定したい。


危険だと言いたい。


その名前は便利すぎる。


敵を作る。


あなたたちの感謝が、私たちを檻に入れる。


そう言いたい。


けれど、目の前のマリアにとって、その名前は檻ではなく、灯りだった。


ヴィオラが、さらに追い打ちをかけるように口を開いた。


「私も……その、何かお手伝いできることがあれば」


クラリスは嫌な予感がした。


「ヴィオラ様」


「はい」


「何を言おうとしているのかしら」


ヴィオラは、真剣な顔で言った。


「私、お掃除組の末端として働かせていただけませんか」


クラリスは沈黙した。


リディアは「まあ」と小さく声を上げた。


マリアも目を丸くしている。


ヴィオラは必死だった。


「もちろん、ご迷惑はおかけしません。私にできることなど少ないとは思います。でも、私は一度、謝罪文という首輪を自分で締めようとしました。だから、同じような文面を見た時に、気づけることがあるかもしれません」


「ヴィオラ様」


クラリスの声は、思ったより冷たかった。


ヴィオラの肩が揺れる。


「勘違いなさらないで」


「……え?」


「私たちは、あなたの免罪符ではありませんわ」


ヴィオラの顔が、はっきりと強張った。


クラリスは、それでも止まらなかった。


ここで曖昧にすれば、この少女はまた別の首輪を自分で探しに行く。


今度は「お掃除組の末端」という、聞こえの良い首輪を。


「誰かの役に立てば、昨日の自分を許せる。そう思いたい気持ちは分かります」


クラリスは、静かに言った。


「けれど、そのために私たちの名前を使われては困ります」


ヴィオラの唇が震える。


「私は、そんなつもりでは」


「つもりの問題ではありません」


クラリスは切った。


「自分を許したいのなら、まずはご自分の謝罪文から逃げないことです」


廊下の空気が重くなる。


マリアが息を呑む。


ヴィオラは俯いた。


目元が赤くなっている。


それでもクラリスは、今の言葉を取り消さなかった。


優しくすればよい場面ではない。


人は、善意でも依存する。


贖罪という名前で、誰かに寄りかかる。


その寄りかかり方が、また誰かの席を動かすこともある。


リディアが、ヴィオラをじっと見た。


「ヴィオラ様」


「……はい」


「お掃除を手伝う前に、ご自分の布を乾かした方がよいと思いますわ」


ヴィオラが目を瞬かせる。


「私の布、ですか」


「はい。濡れた布で他の場所を拭くと、汚れが広がってしまいますもの」


ヴィオラは、はっとした顔をした。


その言葉は、責めるものではなかった。


だが、正しかった。


彼女はまだ、自分のことで精一杯だ。


誰かを助けることで、自分の罪悪感を薄めようとしている。


それは優しさでもあり、逃げでもある。


ヴィオラは深く頭を下げた。


「……分かりました。まず、自分のことから逃げないようにします」


「ええ」


リディアは微笑んだ。


「乾いたら、その時にお茶を飲みましょう」


ヴィオラは少しだけ笑った。


「はい」


クラリスは、リディアを横目で見た。


こういうところがずるい。


リディアは、相手を突き放さずに線を引く。


本人はただ布の話をしているつもりなのだろうが。


マリアは、少し迷った後で言った。


「では、私は……お掃除組とは呼ばないようにします」


「助かるわ」


クラリスは心から言った。


「でも」


マリアは、小さく笑った。


「心の中で、少しだけ感謝するのは許してください」


クラリスは、今度こそ何も言えなかった。


リディアが嬉しそうに頷く。


「心の中は、きっと大切なお部屋ですものね」


「はい」


マリアは微笑んだ。


ヴィオラも、少しだけ穏やかな顔をした。


その時、廊下の向こうからまた小さな声がした。


「お掃除組の方々だわ」


クラリスは振り返らなかった。


聞こえないことにした。


だが、聞こえている。


確実に。


そして、その声には悪意がなかった。


羨望。


感謝。


期待。


それらが混ざっていた。


クラリスは、深く息を吐いた。


「リディア」


「はい」


「これは、かなりまずいわ」


「何がですの?」


「善意で包囲されている」


リディアは、少し考えた。


「包囲」


「ええ。敵意の包囲より厄介よ」


「どうしてですか?」


「突破すると、相手が傷つくから」


リディアは黙った。


その答えは、彼女にも少し分かったらしい。


クラリスは廊下の窓を見る。


外では、午後の光が中庭に落ちている。


学院は、少しだけ明るくなったのかもしれない。


けれど、明るくなった場所には、人が集まる。


人が集まれば、影も濃くなる。


その影の中で、誰かが二人を見ているかもしれない。


「ベルモンドさん」


低い声がした。


振り向くと、ミレーヌ学院長補佐が廊下の奥に立っていた。


いつからいたのか。


相変わらず、気配の薄い人だった。


マリアとヴィオラが慌てて礼をする。


クラリスとリディアも続いた。


「学院長補佐」


ミレーヌは、四人を順に見た。


そして、最後にクラリスとリディアを見る。


「ずいぶん、名前が広がっているようですね」


クラリスの背筋が冷えた。


「私たちは名乗っておりません」


「分かっています」


ミレーヌは淡々と言った。


「だから厄介なのです」


クラリスは黙った。


ミレーヌは続ける。


「名乗った組織なら、規則で扱えます。名乗らない噂は、扱いが難しい」


リディアが首を傾げる。


「噂にも席がございますか?」


「あります」


ミレーヌは即答した。


「ただし、席札がないので厄介です」


クラリスは、妙に納得してしまった。


リディアも、真剣な顔で頷いている。


「フォルクレアさん。ベルモンドさん」


「はい」


「あなた方に、相談窓口の役割を担わせるつもりはありません」


クラリスは少し安堵した。


だが、ミレーヌの次の言葉で、その安堵は消えた。


「一方で、あなた方が拾った違和感が、学院の記録に必要であったことも事実です」


味方の言葉ではない。


評価の言葉でもない。


これは、観察だ。


ミレーヌは二人を、役に立つものとして見ている。


同時に、危険なものとしても。


「今後、誰かから相談を受けた場合は、個人的に処理しないこと。必ず記録できる形で学院長補佐室へつなぎなさい」


クラリスは眉を動かした。


「それは、私たちに相談対応をしろという意味でしょうか」


「違います」


ミレーヌは言った。


「勝手に対応するな、という意味です」


クラリスは、少しだけ息を吐いた。


「承知しました」


「次にあなた方が、学院の記録を通さずに“掃除”を行った場合、私は学院長へ報告せざるを得ません」


ミレーヌの声は、変わらず淡々としていた。


「それは、フォルクレア家の教育方針への疑念となります」


リディアが、わずかに瞬きをした。


「わたくしの、家に?」


「はい」


ミレーヌは頷いた。


「また、ベルモンド商会についても、学院内の問題へ過度に介入した商会として、契約見直しの対象になります」


クラリスの背筋が、冷えた。


ベルモンド商会。


父。


帳場。


荷を運ぶ者たち。


茶葉を確かめる母。


ほんの少し前に守ったばかりの信用。


それが、今度は自分たちの行動によって揺らぐ可能性がある。


「あなた方の善意や観察眼は、学院にとって有用です」


ミレーヌは言った。


「ですが、掃除道具が部屋を壊し始めたら、片づける対象になります」


廊下の空気が、すっと冷えた。


マリアが青ざめる。


ヴィオラが唇を噛む。


自分たちの感謝が、二人を危うくしていることに、ようやく気づいたのかもしれない。


リディアは、真剣な顔でミレーヌを見上げた。


「掃除道具も、片づけられるのですか」


「ええ」


ミレーヌは答えた。


「使い方を誤れば」


リディアは、少しだけ悲しそうにした。


「それは、寂しいですわね」


「寂しいかどうかは問題ではありません」


ミレーヌは冷静だった。


「必要か、危険かです」


クラリスは、その言葉を胸に刻んだ。


有用。


危険。


必要。


排除。


ミレーヌは、そういう秤で人を見る。


それは冷たい。


けれど、学院という大きな部屋を管理する者としては、当然なのかもしれない。


「また、お掃除組という呼称は、公式には存在しません」


「はい」


「存在しませんが」


ミレーヌは、一拍置いた。


「存在しないものほど、廊下ではよく歩きます」


クラリスは、返す言葉に困った。


リディアが小さく言う。


「幽霊のようですわね」


「似たようなものです」


ミレーヌは真顔で返した。


「ただし、幽霊より厄介です。噂は生きている人間を動かします」


その言葉は重かった。


ミレーヌは、最後にクラリスを見た。


「ベルモンドさん」


「はい」


「名前は道具です。あなたなら分かるでしょう」


「……はい」


「使い方を誤れば、値がつき、売られ、奪われます」


クラリスは、静かに頷いた。


まさに、先日自分が考えていたことだった。


ミレーヌは、次にリディアを見る。


「フォルクレアさん」


「はい」


「あなたは、汚れを見つけることがあります」


「たぶん、そうですわ」


「見つけたものを、すぐに拭こうとしないこと」


リディアは、少し驚いた顔をした。


「汚れを、そのままにするのですか?」


「記録する前に拭けば、汚れがあったことも、誰が汚したのかも分からなくなります」


リディアは、真剣に考え込んだ。


「……それは、よくありませんわね」


「ええ」


ミレーヌは頷いた。


「掃除より先に、確認です」


クラリスは、少しだけ笑いそうになった。


ミレーヌ学院長補佐は、リディア語を理解し始めている。


それは少し恐ろしい。


「以上です」


ミレーヌは、用件を終えたように歩き出した。


すれ違う直前、彼女はごく小さく呟いた。


「有用ですが、危険でもありますね」


誰に向けた言葉かは分からない。


クラリスには聞こえた。


リディアには、おそらく意味までは届いていない。


マリアとヴィオラは気づいていない。


ミレーヌは、そのまま廊下の向こうへ消えた。


クラリスは、背筋に小さな冷えを感じた。


敵ではない。


味方でもない。


ミレーヌは、彼女たちを見ている。


学院の淀みを暴く道具として。


同時に、学院の秩序を乱す異物として。


「クラリスさん」


リディアが声をかける。


「はい?」


「お掃除は、先に記録してから、ですわね」


「ええ」


クラリスは答えた。


「かなり面倒な掃除になるわ」


「でも、ちゃんと拭いた方がよいですものね」


リディアは、穏やかに言った。


その横顔には、迷いがなかった。


クラリスは、それを少し羨ましく思った。


そして、少し怖くも思った。


廊下の向こうでは、また誰かがこちらを見ている。


声には出さない。


けれど、唇の形だけで分かる。


お掃除組。


名乗っていない。


存在していない。


公式には、どこにもいない。


けれど、その名前はもう、学院の廊下を歩き始めている。


クラリスは、扇を開いた。


「絶対に名乗らないわよ」


「はい」


リディアはにこりと笑った。


「名乗らないお掃除組ですわね」


「違う」


「違いますの?」


「違う」


「では、何ですの?」


クラリスは少し考えた。


そして、ため息をつく。


「……ただの、通りすがりの令嬢二人よ」


リディアは、嬉しそうに頷いた。


「まあ。では、通りすがりに少しだけ埃を払うのですね」


クラリスは、否定しようとして、やめた。


たぶん、それくらいが一番近い。


ただの令嬢二人。


通りすがり。


少しだけ埃を払う。


だが、埃を払った先で、部屋全体の汚れが見えてしまった。


それだけの話だ。


そしてそれだけの話が、学院ではもう噂になっている。


「行きましょう」


クラリスは言った。


「どこへですか?」


「お茶を飲みに」


「まあ」


リディアが嬉しそうに笑う。


「今日のお茶は、美味しいでしょうか」


「少し苦いと思うわ」


「では、甘いお菓子が必要ですわね」


クラリスは歩き出した。


その背後で、マリアとヴィオラが静かに礼をする。


下級生たちが、遠巻きに見送る。


そして、学院の廊下には、また小さな噂が残った。


お掃除組は、名乗らない。


けれど、確かにそこにいる。


廊下を曲がる直前、クラリスはふと足を止めた。


ほんの一瞬だけ、空気の奥に甘い花の香りが混じった気がした。


夜の沈丁花。


振り返っても、そこには誰もいない。


ただ、窓際の小さな屑入れに、白い布切れのようなものが半分だけ覗いていた。


手袋なのか。


ただの布なのか。


確かめればよかった。


けれど、クラリスは確かめなかった。


確かめなかったことを、少しだけ後悔した。


リディアが、前方から振り返る。


「クラリスさん?」


「……何でもないわ」


クラリスは歩き出した。


廊下の空気は、少し明るくなった。


けれど、どこかにまだ、甘く冷たい毒の香りが残っている。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第13話は、事件後の学院の空気と、「お掃除組」という呼び名が定着していく回でした。


クラリスはその名前の危険性を理解しています。

けれど、マリアにとっては救いの言葉であり、ヴィオラにとっては償いのきっかけでもあります。


今回は、ヴィオラの「末端として働かせてください」という申し出を、クラリスが少し冷たく止めました。

誰かを手伝うことで、自分の罪悪感から逃げてはいけない。

その後のリディアの「濡れた布」の比喩も含め、善意と依存の境界を描いた回です。


また、ミレーヌ学院長補佐からは、フォルクレア家やベルモンド商会にまで及ぶ具体的な警告が入りました。

「お掃除組」という名前は、ただの照れくさい噂ではなく、一歩間違えれば破滅につながる危険な名前でもあります。


そして最後に、沈丁花の香りと白い布。

ロザリンドの毒は、まだ消えていません。


次回は第一章のエピローグ。

席札事件のその後と、ロザリンドの静かな私怨、そして次章への火種へ進みます。


続きも読んでいただけると嬉しいです。

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