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おっとり令嬢の社交掃除 〜姉御肌の親友と、学院の悪意を上品に片づけます〜  作者: 平八
第一章 席札の嘘と、淀んだお茶会

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第14話 席札の嘘と、開いた窓

茶会室の窓が、少しだけ開いていた。


初夏の風が、白いカーテンをゆっくり揺らしている。


王立アストリア貴族学院の午後。


数日前なら、同じ部屋の空気はもっと重かった。


席札の位置。


視線の向き。


扇の角度。


半歩の距離。


笑顔の裏にある小さな悪意。


それらが、紅茶の香りに溶けて、誰にも見えない染みのように広がっていた。


だが今日は、少し違う。


完全に澄んだわけではない。


けれど、淀みきってはいなかった。


「今日は、お茶があまり濁っておりませんわ」


リディア・フォルクレアが、ティーカップを両手で包みながら言った。


その声は、いつも通りのんびりしていた。


クラリス・ベルモンドは、向かいの席で小さく息を吐く。


「それは良かったわね」


「はい。窓が開いているからでしょうか」


「たぶん、窓だけの問題ではないと思うけれど」


クラリスはそう言いながら、茶会室を見渡した。


部屋の端では、マリア・エルシェンが一人で席に座っている。


背筋はまだ少し硬い。


周囲を気にする癖も消えてはいない。


それでも、彼女は以前より深く椅子に腰掛けていた。


椅子の背もたれに、ほんの少し体を預けている。


それは、ほんのわずかな変化だった。


だが、クラリスには分かった。


あれは、自分の席にいる者の姿勢だ。


マリアの手元には、ベルモンド家の実務用紙で作られた謝罪文の写しがある。


受け取るかどうかは、まだ決めていない。


イザベラからの反省文も、まだ一通目すら提出されていない。


それでも、マリアは紙を持っている。


何をされたのか。


何を受け取るのか。


何を拒むのか。


その判断を、今度は自分の手元に置いている。


部屋の反対側には、ヴィオラ・ランスフォードがいた。


彼女はマリアのすぐ近くには座っていない。


距離を取っている。


謝罪を押しつけないために。


許しを急がせないために。


それでも、時折マリアの方を見ては、すぐに目を伏せている。


罪悪感。


後悔。


少しの安堵。


その全部が、まだ乾ききらない布のように彼女の周囲に漂っていた。


ヴィオラは、この茶会室へ来る前に一度、廊下でロザリンド・ハートレイとすれ違っていた。


「ロザリンド様……」


呼びかけかけた声は、最後まで形にならなかった。


ロザリンドは、彼女を見なかった。


叱るでもない。


責めるでもない。


笑いかけるでもない。


ただ、そこに最初から何もなかったかのように、白い手袋の指先を揃えたまま通り過ぎていった。


その無視は、叱責よりも冷たかった。


ヴィオラは、その瞬間にようやく理解した。


自分は、もう役目を終えた駒なのだと。


使えなくなった駒は、拾われもしない。


怒られもしない。


ただ、盤上から消えたものとして扱われる。


その冷たさが、いまも胸の奥に残っていた。


だからこそ、彼女はこの茶会室の距離を間違えまいとしている。


マリアの近くへ行きすぎない。


言葉を押しつけない。


許しを求めない。


自分の罪悪感を、相手の優しさで拭かせない。


それが今のヴィオラにできる、数少ない誠実さだった。


リディアが、その二人を見て小さく微笑んだ。


「少し、風が通りましたわね」


「ええ」


クラリスは頷いた。


「ただし、まだ乾いたわけではないわ」


「濡れた布は、急いで絞ると傷みますものね」


「あなた、だんだん比喩の使い方が的確になってきたわね」


「まあ。褒められました」


リディアは嬉しそうに紅茶を飲んだ。


クラリスは、少しだけ笑う。


この数日で、色々なことがあった。


席札の嘘。


震える招待状。


旧温室の四つ目のカップ。


謝罪文という名の首輪。


夜の沈丁花。


焦げた紙片。


茶葉箱の改ざん。


名前のない指示書。


尻尾を切る白い手袋。


格式という名の古いカーテン。


そして、お掃除組という、名乗ってもいない名前。


ずいぶん、遠くまで来てしまった気がする。


実際には、歓迎茶会から数日しか経っていないのに。


「クラリスさん」


「何?」


「お疲れですか?」


「疲れていないと言えば嘘になるわね」


クラリスは素直に答えた。


「ただ、今回はあなたも疲れているでしょう」


「わたくしですか?」


「ええ」


リディアは少し考えた。


「そうですわね」


珍しく、すぐ否定しなかった。


彼女はカップの水面を見つめる。


「少しだけ、手が重い気がします」


クラリスは、その言葉に目を細めた。


「手?」


「はい。汚れを見つけるだけなら、目が疲れるのだと思っていました。でも、拭こうとすると、手も重くなりますのね」


それは、リディアにしては随分と現実的な感想だった。


クラリスは、ティーカップを置いた。


「ミレーヌ学院長補佐の言葉が効いた?」


「掃除より先に、確認です、というお話ですか?」


「ええ」


リディアは頷いた。


「効きましたわ。汚れを見つけても、すぐに拭いてはいけないことがあるのですね」


「あるわ」


「少し、難しいです」


「そうね」


リディアは、自分の指先を見つめた。


白く、細い指。


茶器を持つための手。


刺繍をするための手。


誰かを傷つけるための手には、見えない。


けれど、リディアはその指先を見つめたまま、小さく言った。


「それに……イザベラ様が泣きそうなお顔をなさった時、少しだけ指先が冷たくなりました」


クラリスは黙った。


リディアの横顔は、いつものように穏やかだった。


だが、その目は少しだけ遠くを見ている。


「汚れを拭くと、布だけではなく、拭いた手にも少し移るのですね」


リディアは、そう言ってから、困ったように微笑んだ。


「わたくし、初めて知りました」


クラリスは、すぐには答えられなかった。


リディアは、誰かを倒したかったわけではない。


マリアを救いたかった。


茶会の空気を整えたかった。


汚れを、汚れたまま美しいと言われるのが嫌だった。


けれど、その結果として、イザベラは泣きそうな顔をした。


ヴィオラは自分の罪を見つめることになった。


ロザリンドは、白い手袋の下で怒りを握った。


誰かを救うことは、別の誰かを追い詰めることでもある。


綺麗な布で拭けば、汚れは消える。


だが、その布は汚れる。


それを持つ手も、少し冷える。


「リディア」


「はい」


「それを、忘れない方がいいわ」


リディアは頷いた。


「はい」


クラリスは静かに言った。


「でも、だからといって、汚れを見なかったことにする必要もない」


リディアは顔を上げた。


「いいのですか?」


「ええ。ただ、拭く前に確認する。誰の汚れなのか。何を拭こうとしているのか。拭いたあと、誰の手が汚れるのか」


クラリスは、自分の手元のカップを見た。


「それを考えるだけで、少しは違うはずよ」


リディアは、ゆっくり頷いた。


「はい。覚えておきます」


その返事は、いつもより少し重かった。


クラリスは、その重さを良いことだと思った。


同時に、少し寂しいことだとも思った。


リディアの無垢な掃除は、もう完全には無垢でいられない。


けれど、それが必要なのだろう。


この学院で、誰かの席を勝手に動かさないためには。


「クラリスさん」


「何?」


「それでも、窓は開けた方がよいと思います」


「急に戻ったわね」


「はい。閉め切ると、やはり埃が溜まりますもの」


クラリスは、思わず笑った。


「あなたは本当に、最後はそこへ戻るのね」


「戻る場所は、大切ですわ」


「それはそうね」


クラリスは窓の外へ目を向けた。


中庭では、下級生たちが数人、こちらをちらちら見ている。


距離はある。


声は聞こえない。


だが、視線にはもう名前がある。


お掃除組。


名乗っていない。


存在しない。


けれど、その名前はもう、歩き始めている。


リディアは、そんな視線を受けながらも、穏やかにカップを置いた。


「では、名乗らないままでいましょう」


クラリスは瞬きをする。


「ずいぶん簡単に言うのね」


「だって、名乗らないと決めたのでしょう?」


「そうだけれど」


「なら、名乗らずに、必要な時だけ窓を開ければよいのではありませんか?」


クラリスは、少しの間、言葉を失った。


簡単に言う。


本当に簡単に。


だが、その簡単さが時々、核心を突く。


名乗らない。


組織にならない。


相談窓口にもならない。


けれど、閉じきった部屋に気づいた時は、窓を開ける。


それくらいなら。


もしかすると、自分たちにもできるのかもしれない。


「……あなた、時々本当に厄介なくらい真っ直ぐね」


「まあ。厄介ですか?」


「褒めているわ」


「そうでしたか」


リディアは嬉しそうに微笑んだ。


その時、茶会室の扉が軽く叩かれた。


クラリスが視線を向けると、学院の事務補助員が立っていた。


「ベルモンド様」


「何かしら」


「学院長補佐室より、こちらを」


差し出されたのは、薄い封筒だった。


クラリスは受け取り、封を確認する。


学院長補佐室の印。


開けると、中には短い通知が入っていた。


ベルモンド商会への納入保留について。


現時点で一時解除。


追加確認の結果が出るまで、通常取引を継続。


ただし、今後の倉庫管理・委員会関係者の出入りについては記録運用を見直す。


簡潔で、事務的で、冷たい文面だった。


だが、クラリスの肩から、ほんの少し力が抜ける。


「クラリスさん?」


リディアが覗き込む。


「商会の納入保留が、一時解除されたわ」


「まあ」


リディアは、心からほっとしたように笑った。


「よかったですわ」


「ええ」


クラリスは紙を丁寧に畳む。


父の顔が浮かんだ。


商会の帳場。


番頭。


荷運びたち。


母の茶葉を確かめる指先。


守れた。


完全にではない。


まだ正式な結論は出ていない。


それでも、今のところ、ベルモンド商会の信用は落ちずに済んだ。


「お父様に、報告しないといけませんね」


「そうね」


クラリスは、少しだけ苦笑する。


「きっと返事は短いわ」


「どのように?」


「“よく確認した”くらいかしら」


「素敵ですわね」


「そう?」


「はい。短い言葉でも、きちんと届く時がありますもの」


クラリスは、何も言わずに通知をしまった。


茶会室の隅で、マリアがゆっくり立ち上がる。


ヴィオラがそれに気づき、少し身を固くした。


マリアは数歩だけ近づいた。


近すぎない距離で止まる。


「ランスフォード様」


ヴィオラが顔を上げる。


「はい」


「反省文の写しは、まだ持っています」


「……はい」


「受け取るかどうかは、まだ決められません」


「はい」


ヴィオラは、深く頷いた。


「それで、当然だと思います」


マリアは少しだけ迷った。


それから、言葉を選ぶように続ける。


「でも、昨日よりは、少し読めました」


ヴィオラの目が潤む。


「……ありがとうございます」


「お礼を言われることではありません」


マリアは静かに言った。


「私が、読むと決めただけです」


その言葉に、クラリスは小さく息を吐いた。


いい言葉だった。


自分で決めた。


受け取ることも。


読まないことも。


読むことも。


その判断が、マリアの手に戻っている。


リディアは、そっと呟く。


「席が、戻ってきていますわね」


「ええ」


クラリスも小さく頷いた。


「少しずつね」


窓から入る風が、白いカーテンを揺らした。


洗われたカーテン。


手入れされた布。


埃を溜め込まないために、時々窓を開ける部屋。


リディアが言った通り、今日はお茶があまり濁っていない。


けれど。


廊下の向こうから、かすかな甘い香りがした気がした。


夜の沈丁花。


クラリスは顔を上げた。


「クラリスさん?」


リディアが気づく。


「……何でもないわ」


そう言ったものの、胸の奥に小さな冷えが残った。


ロザリンドの毒は、まだ消えていない。


むしろ、静かに別の形へ移ろうとしている。


その頃。


ロザリンド・ハートレイは、自室にいた。


窓は閉じている。


カーテンも揺れていない。


部屋には、甘い沈丁花の香りが漂っていた。


いつもより控えめに。


けれど、確かに。


机の上には、白い手袋が置かれている。


昨日までなら、汚れた手袋は洗わせればよかった。


少しでも糸がほつれれば、新しいものに替えればよかった。


ハートレイ家の令嬢が、汚れた手袋を身につけ続ける理由などない。


だが、今日の汚れは布についたものではない。


ロザリンドは、手袋を指先で摘まんだ。


白い。


清潔。


上質。


けれど、彼女の目には、その白さがどこか嘘のように見えた。


「……管理不備、ですって」


小さな声が、部屋に落ちる。


ベルモンド商会の娘。


クラリス・ベルモンド。


紙と記録と損害の文面で、白い手袋の逃げ道を塞いだ少女。


そして。


リディア・フォルクレア。


汚れを見つける目を持つ、おっとりした異物。


ロザリンドは、白い手袋を握る。


力は強くない。


それでも、布にわずかな皺が寄った。


自分は負けていない。


少なくとも、決定的には。


名前は残していない。


指示書もない。


ラザフォードは切れる。


イザベラはもともと粗い駒だ。


礼法委員の手続きは一時的に窮屈になったが、完全に奪われたわけではない。


それでも。


彼女は、確認される側の席に座らされた。


その事実だけは、消えない。


調査する側ではなく。


整える側ではなく。


見られる側へ。


席を動かされたのは、ロザリンド自身だった。


「お掃除組」


口に出すと、ひどく滑稽な響きだった。


だが、ロザリンドは笑わなかった。


あの名前は危険だ。


幼稚で、軽くて、下級生が喜びそうな呼び名。


けれど、だからこそ広がる。


恐れよりも、感謝の方が速い。


憎しみよりも、希望の方が目立つ。


そして希望は、時に秩序を壊す。


ロザリンドは、手袋を持ったまま暖炉の前へ歩いた。


まだ季節外れだが、細く火は入っている。


香を焚くための小さな火。


彼女は白い手袋を見下ろした。


「汚れを見つける目」


リディアの顔が浮かぶ。


あの無邪気な瞳。


人を裁こうとしていない。


だからこそ厄介だ。


悪意なら、悪意で返せる。


策略なら、策略で上回ればいい。


けれど、あの令嬢は、本当に汚れを見つけてしまう。


ただ見つけてしまう。


それは、刃より面倒だった。


次に、クラリスの顔が浮かぶ。


あの商人の娘。


言葉を紙にし、紙を記録にし、記録を鎖にする。


美しさではなく、逃げられなさで人を縛る。


「記録で逃げ道を塞ぐ手」


ロザリンドは、静かに笑った。


「目と、手」


どちらか一方なら、まだ対処できる。


目だけなら、見間違いにできる。


手だけなら、書かれる前に燃やせばいい。


だが、あの二人は揃っている。


リディアが見つけ、クラリスが残す。


だから厄介だ。


ならば。


見たくないものを見せればいい。


残したくないものを、記録させればいい。


善意。


感謝。


救済。


名前。


お掃除組。


美しい言葉ほど、汚れた使い方ができる。


ロザリンドは、白い手袋を暖炉へ落とした。


火が、清潔だったはずの布をゆっくり黒くしていく。


白が、灰色に。


灰色が、黒に。


布の端が丸まり、焦げていく。


沈丁花の香りに、わずかな焦げ臭さが混じった。


ロザリンドは、その黒さを最後まで見ていた。


白い布が黒く崩れ、火の中で形を失っていく。


「濁った水で淹れたお茶は、どんな味がするのかしら」


彼女は、楽しげに微笑んだ。


「楽しみですわね。お掃除組の皆様」


その声は、甘かった。


だが、温かくはなかった。


「たくさん洗ってくださいませ。誰も触れたがらない布を」


火の中で、手袋が崩れる。


かつて白かったものが、形を失っていく。


ロザリンドは、そこでようやく自然に微笑んだ。


そして、机へ戻る。


新しい便箋を一枚取り出した。


白ではない。


淡い灰色の紙。


飾り罫はない。


香りもない。


名前も、まだ書かない。


ただ、最初の一行だけを頭の中で整える。


――お掃除組に、ぜひ見ていただきたいものがございます。


ロザリンドはペンを取らなかった。


まだ早い。


一章の幕が降りるには、少しだけ静けさが必要だ。


けれど、次の幕のための布は、もう選んだ。


学院の別の部屋では、クラリスとリディアが紅茶を飲んでいる。


マリアは少しだけ椅子に背を預け、ヴィオラは距離を守りながら息をしている。


窓は開いている。


風は通っている。


席札の嘘は、ひとまず記録された。


だが、窓を開けた部屋には、外から別の埃も入ってくる。


そして、その埃がどこから来たのか。


誰が撒いたのか。


それを見つける者がいる限り。


お茶会は、まだ終わらない。


夕方の鐘が鳴った。


第一章の終わりを告げるように。


そして、別の淀みが、静かに揺れ始める音のように。

第一章、完結です。

窓を開け、風を通し、リディアたちは自分たちの席を少しだけ整えることができました。


彼女たちの物語はまだまだ続いていきますが、本連載としては一区切りとさせていただきます。ロザリンドが暖炉に投げ入れた手袋の行方や、お掃除組のその後など、想像の余白を楽しんでいただければ幸いです。


拙い物語ではありましたが、温かく見守ってくださりありがとうございました。

もしまた、新しい窓を開ける時が来ましたら、その時はどうぞよろしくお願いいたします。

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