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おっとり令嬢の社交掃除 〜姉御肌の親友と、学院の悪意を上品に片づけます〜  作者: 平八
第一章 席札の嘘と、淀んだお茶会

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第11話 尻尾を切る白い手袋

学院長補佐ミレーヌ・アーヴィングの執務室には、今日も茶器がなかった。


香りの強い花もない。


甘い菓子もない。


あるのは、紙とインクと、古い木の匂い。


そして、逃げ道を塞ぐために積み上げられた記録だけだった。


机の上には、ベルモンド商会の実務用紙が数枚。


購買倉庫の入退室記録。


茶葉箱の現品確認記録。


封蝋の加熱痕についての説明書。


焦げた紙片を包んだ証拠保管用の小袋。


ラザフォード補助員の証言記録。


そして、ハートレイ家の私用便箋に似た飾り罫についての覚書。


クラリス・ベルモンドは、それらを整えて机上に並べた。


飾り気はない。


高級紙でもない。


だが、どの紙にも役割がある。


何を見たのか。


誰が言ったのか。


どこまで分かっていて、どこから先が推測なのか。


曖昧なものは曖昧なまま。


灰色は灰色として。


そのかわり、なかったことにはしない。


リディア・フォルクレアは、隣で小さく首を傾げていた。


「クラリスさん」


「何?」


「今日は、紙がたくさん並んでおりますわね」


「ええ。今日は紙のお茶会よ」


「まあ」


リディアは少し嬉しそうにした。


「紙にも、席がございますのね」


「あるわ。むしろ、今日一番動かしてはいけない席よ」


クラリスは淡々と答えた。


部屋の奥に立つミレーヌ学院長補佐は、そのやり取りに表情を動かさなかった。


ただ、机に並んだ書類を順に確認している。


彼女は味方ではない。


少なくとも、クラリスはそう見ていた。


公正ではある。


しかし、公正な者が必ず味方になるわけではない。


ミレーヌが守るのは、リディアでもクラリスでもなく、学院の記録と秩序だ。


だからこそ、今は使える。


そして、いずれ警戒もされる。


「ベルモンドさん」


ミレーヌが口を開いた。


「購買倉庫の確認記録、ラザフォード補助員の証言、焦げた紙片。以上について、あなたの主張を簡潔に述べなさい」


「はい」


クラリスは一歩前へ出た。


「ベルモンド商会の茶葉箱は、納入後に何者かによって開封されています。封蝋には加熱痕があり、麻紐の通し方も当商会の手順と異なっていました。箱の中には等級の違う茶葉が混入し、焦げた紙片が残っていました」


ミレーヌは頷く。


「続けて」


「購買倉庫の記録によれば、該当棚を最後に補助確認したのは、ノエル・ラザフォード補助員です。ラザフォード補助員は、差出人不明の封筒で、茶葉箱番号、棚位置、封蝋の扱い、確認記録への署名を指示されたと証言しました」


ロザリンド・ハートレイは、少し離れた位置に立っていた。


白い手袋。


淡い灰紫のドレス。


整った髪。


完璧な微笑み。


今日の彼女からは、夜の沈丁花の香りはほとんどしなかった。


香りを抑えている。


あるいは、違う香水に替えたのかもしれない。


だが、リディアは彼女の手袋を一度だけ見て、何も言わなかった。


ロザリンドの後ろには、イザベラ・グランヴィル。


その横に、ノエル・ラザフォード。


そして、購買係のエリアス・ヴェントが控えている。


ラザフォードは青ざめていた。


エリアスは表情を整えている。


イザベラは、何か言いたそうに唇を結んでいる。


ロザリンドだけが、静かに微笑んでいた。


「差出人不明の封筒」


ロザリンドが、柔らかく言った。


「それは、とても困ったものですわね。差出人のない指示に従うなど、ラザフォード補助員も軽率でしたわ」


ラザフォードの肩が小さく跳ねた。


来た。


クラリスは、扇を開かずに待った。


ロザリンドは続ける。


「けれど、差出人がない以上、その指示がどなたからのものかは分かりません。ハートレイ家の名を出すには、少々無理があるのではなくて?」


声は穏やかだった。


丁寧で、品がある。


けれど、その言葉は刃物のようにラザフォードの首筋へ置かれていた。


クラリスは、彼女の意図を正確に読んだ。


ラザフォードが勝手にやった。


差出人は不明。


ハートレイ家は関係ない。


ロザリンドは知らない。


白い手袋に汚れはない。


切るのだ。


この場で、尻尾を。


ラザフォードの喉が鳴る。


クラリスは、ゆっくり微笑んだ。


「その文面でも構いませんわ」


ロザリンドの微笑みが、ほんのわずかに止まった。


「……文面?」


「はい」


クラリスは机上の紙を一枚取った。


「“ノエル・ラザフォード補助員が、差出人不明の封筒に従い、独断でベルモンド商会の茶葉箱を改ざんした”」


ラザフォードの顔色がさらに悪くなる。


ロザリンドは、すぐに表情を戻した。


「事実であれば、そのような記録になるのでしょうね」


「ええ。ですが、その場合も確認事項が残ります」


クラリスは別の紙を取った。


「一つ目。ラザフォード補助員は、ハートレイ家の紹介で学院購買係へ入っています」


エリアスが、ほんの少し目を伏せた。


「二つ目。焦げた紙片には、ハートレイ家の私用便箋に似た飾り罫が残っていました」


ロザリンドは、微笑んだまま動かない。


「似ているだけでは?」


「もちろんです。ですから、似ている、とだけ記録します」


クラリスは続ける。


「三つ目。ラザフォード補助員は、封筒に甘い花の香りがあったと証言しています」


「香りなど、いくらでも移りますわ」


「はい。ですから、香りだけで断定はしません」


クラリスは頷いた。


その素直さが、逆にロザリンドをわずかに硬くした。


クラリスは、最後の紙を取る。


「四つ目。ベルモンド商会の取引網で確認したところ、焦げた紙片と同種と思われる飾り罫の便箋は、王都で一軒の紙問屋が扱っています」


ロザリンドの白い手袋の指先が、わずかに動いた。


ほんのわずか。


だが、クラリスは見た。


「その紙問屋は、ハートレイ家と継続取引があります。今月、その飾り罫入り便箋をまとまった数で購入した記録もありました」


イザベラが息を呑んだ。


ラザフォードは、クラリスを見る。


エリアスは沈黙している。


ミレーヌ学院長補佐の目が、机の紙へ向いた。


「ベルモンドさん」


「はい」


「その購入記録は?」


「紙問屋側から正式な証明を取るには、まだ時間がかかります。ただし、ベルモンド商会にも同じ紙問屋との取引があります。紙の裁断幅、飾り罫の型、糊の香りについては、当商会の紙類担当が確認済みです」


「現時点では商会側の覚書ですね」


「はい。ですから、断定には使いません」


クラリスは、真っ直ぐミレーヌを見る。


「ただし、追加確認の必要性を示すには十分です」


そこで、ロザリンドが一歩だけ前に出た。


「ベルモンド様」


声は、柔らかい。


けれど、その奥に薄い棘があった。


「商売の場でなら、その推測も立派なものなのでしょう。けれど、ここは学院長補佐の執務室ですわ」


白い手袋の指先が、そっと重なる。


「商人の覚書を、そのまま学院の記録として扱うのは、少々危ういのではなくて?」


部屋の空気が、わずかに変わった。


イザベラの目に、わずかに力が戻る。


ラザフォードは俯いたまま。


エリアスは何も言わない。


クラリスは、ロザリンドの言葉を正面から受け止めた。


商人。


覚書。


学院の記録。


ロザリンドは、クラリスの論理ではなく、クラリスの立場を刺した。


古い貴族の娘が、新興商会の娘へ向ける、薄く上品な軽蔑。


だが、クラリスは怯まなかった。


「おっしゃる通りです」


ロザリンドの微笑みが、一瞬だけ深まった。


勝ったと思った顔。


だからこそ、クラリスは続けた。


「ですから、本格調査が必要ですわ」


ロザリンドの微笑みが止まる。


「……本格調査?」


「はい。商人の覚書に信憑性が低いとおっしゃるなら、学院から紙問屋へ正式に照会していただくのが最も確実です」


クラリスは、静かに言った。


「もし私の提出した覚書が虚偽であれば、ベルモンド商会は今後、学院への出入りを禁じられても構いません」


その言葉に、エリアスがわずかに顔を上げた。


イザベラも目を見開く。


ラザフォードは、信じられないものを見るようにクラリスを見た。


ロザリンドだけが、微笑みを保とうとしていた。


だが、その白い手袋の指先が、先ほどより固く重なっている。


「その代わり」


クラリスは続ける。


「事実であった場合は、紙の出所と、誰がそれを学院倉庫の改ざんに用いたのか。そこまで正式に確認していただきます」


沈黙。


そこへ、こつり、という小さな音が落ちた。


ミレーヌが、ペンを置いた音だった。


その音だけで、執務室の空気が引き締まる。


「ロザリンド・ハートレイ」


ミレーヌの声は荒くなかった。


しかし、誰も聞き流せない重さがあった。


「この件について、ベルモンド商会が紙問屋へ正式な照会をかけた場合、学院へ届く回答は、今の報告と相違ありませんか」


ロザリンドの白い手袋が、ほんのわずかに止まった。


それは質問だった。


だが、同時に警告でもあった。


ここで否定し、のちに紙問屋から同じ回答が届けば、ロザリンドは学院長補佐の前で偽ったことになる。


白い手袋で隠せる汚れではない。


ロザリンドは、静かに息を吸った。


「紙問屋の購入記録までは、わたくしには分かりかねますわ」


「では、確認します」


ミレーヌは即答した。


逃げ道を塞ぐ音がした。


クラリスは、そこで次の紙を取った。


「ロザリンド様」


「何かしら」


「二つの文面をご用意できます」


「二つ?」


「はい」


クラリスは、ロザリンドを見た。


「一つ目。ハートレイ家関係者が、ラザフォード補助員に指示を出した可能性がある。つまり、関与疑い」


部屋の空気が、わずかに冷える。


「二つ目。ラザフォード補助員が、ハートレイ家の私用便箋に類似する紙を勝手に入手し、ハートレイ家の紹介で得た購買補助の立場を利用して、学院倉庫で不正を行った。つまり、紹介者および私用紙管理の不備」


ロザリンドの微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。


クラリスは、さらに一歩踏み込む。


「どちらでも構いません」


「……構わない?」


「ええ」


クラリスは、穏やかに笑った。


「知っていたなら共謀。知らなかったなら管理不備。どちらの文面で確認を進めるかは、学院とハートレイ家がお選びください」


ラザフォードの喉が鳴った。


イザベラは何か言いかけて、ロザリンドの横顔を見て口を閉じた。


エリアスは黙ったままだ。


だが、その沈黙は、以前の安全な沈黙ではない。


自分も記録されることを知っている者の沈黙だった。


ロザリンドは、ゆっくりと息を吸った。


「ベルモンド様」


声は、まだ柔らかい。


「それは、ハートレイ家を脅していらっしゃるの?」


「いいえ」


クラリスは首を横に振った。


「記録の選択肢を整理しているだけです」


「ずいぶん物騒な整理ですこと」


「商売では、曖昧な損害ほど後で大きくなりますので」


クラリスの声は静かだった。


「だから、初めに名前をつけます」


リディアが、そこでふと口を開いた。


「クラリスさん」


「何?」


「これは、名前をつけるお掃除ですの?」


「たぶん、そうね」


リディアは、ロザリンドを見た。


「名前のない紙は、寂しいですものね」


ロザリンドの視線が、リディアへ移る。


リディアは、相変わらず穏やかに微笑んでいた。


「でも、紙には名前がなくても、香りや折り目や端の飾りが残ります。誰かに大事にされた紙ほど、持ち主の癖が残りますわ」


「……フォルクレア様は、紙にもお詳しいの?」


「いいえ」


リディアは首を振った。


「ただ、汚れた布も、切られた紙も、黙っているようで、少しだけ訴えておりますもの」


ロザリンドの微笑みが、さらに薄くなる。


「面白いことをおっしゃるのね」


「ありがとうございます」


「褒めてはいませんわ」


「まあ」


リディアは素直に驚いた。


クラリスは心の中で、今はそこじゃない、と呟いた。


だが、リディアは続けた。


「それから」


「まだ何か?」


「尻尾を切っても、血の匂いは残りますわ」


その瞬間、部屋から音が消えた。


紙をめくる音も。


ペン先が走る音も。


誰かの息遣いさえも。


壁の時計だけが、こつ、こつ、と時間を刻んでいた。


ラザフォードは、無意識に自分の腕を押さえた。


まるで、切られたのが自分だと、今さら気づいたように。


イザベラが、はっきりと息を呑む。


エリアスの眼鏡の奥が、わずかに揺れる。


ミレーヌ学院長補佐でさえ、一瞬だけ視線を上げた。


ロザリンドは、微笑んだままだった。


しかし、白い手袋の指先だけが、確かに震えた。


ほんの一瞬。


それだけで十分だった。


「……随分と、残酷な比喩ですのね」


ロザリンドが言った。


「そうでしょうか」


リディアは困ったように首を傾げる。


「切られた方は、きっと痛いと思いますわ」


クラリスは、ラザフォードを見た。


彼は俯いていた。


先ほどまで自分を守ってくれると思っていた名前に、今まさに切られかけている。


その自覚が、彼の肩を小さく震わせていた。


クラリスは、そこを逃がさない。


「ラザフォード様」


「……はい」


「あなたは、指示書の差出人を見ていない。そう証言しました」


「はい」


「では、封筒を受け取った場所は?」


「購買係の控室です」


「誰が置いたかは?」


「見ていません」


「その控室に出入りできる者は?」


ラザフォードは黙った。


エリアスが静かに答える。


「購買係職員、登録補助員、学院職員の一部。それから、備品確認の許可を得た委員会関係者です」


クラリスはエリアスを見る。


「委員会関係者」


「はい」


「礼法委員は?」


エリアスは、少しだけ沈黙した。


「備品確認を理由に、出入り申請が出ていました」


ロザリンドの目が、エリアスへ向いた。


エリアスは顔を上げなかった。


しかし、言葉は続けた。


「昨日の午後、礼法委員から、茶会備品確認の申請がありました。申請者名はロザリンド・ハートレイ様です」


イザベラが椅子を鳴らした。


「ロザリンド様」


ロザリンドは、微笑んだままだ。


「茶会備品の確認は、礼法委員の通常業務ですわ」


「もちろんです」


クラリスは頷いた。


「ですから、申請そのものを不正とは申しません」


「では」


「ただし、同日にハートレイ家紹介のラザフォード補助員が茶葉棚に触れ、ハートレイ家私用便箋に似た紙片が茶葉箱から見つかり、その指示書には香りがあり、礼法委員が購買控室へ出入りしていた」


クラリスは静かに言った。


「並べると、少し込み合った席順になりますわね」


ミレーヌ学院長補佐が、そこで口を開いた。


「エリアス・ヴェント」


「はい」


「礼法委員の備品確認申請書は残っていますか」


「はい。購買係に控えがあります」


「提出しなさい」


「承知しました」


ロザリンドは、なお微笑んでいた。


だが、沈丁花の香りがない今日、その微笑みの奥の冷えた空気だけが、やけに目立った。


ミレーヌは次に、ラザフォードを見た。


「ノエル・ラザフォード」


「はい」


「あなたは、差出人不明の指示書に従い、ベルモンド商会の茶葉箱を改ざんしたことを認めますか」


ラザフォードは震えた。


「……はい」


ロザリンドは動かない。


「ただし、指示者は不明」


「はい」


「指示書は焼却済み」


「はい」


「その一部と思われる焦げた紙片が茶葉箱から発見された」


「……はい」


ミレーヌは書類に目を落とした。


「本件は、席札事件とは別に、学院購買記録および納入品管理の問題として正式に調査します」


ロザリンドが、初めてわずかに口を開いた。


「学院長補佐」


「何ですか」


「礼法委員として、わたくしも調査に協力いたしますわ」


「結構です」


ミレーヌは淡々と言った。


「ただし、あなたは本件の関係者として確認対象に入ります。調査側ではなく、確認される側です」


部屋の空気が、目に見えないほど細く張り詰めた。


ロザリンドの白い手袋が、ゆっくりと握られる。


「……承知いたしました」


その返答は美しかった。


だが、一拍、遅れた。


ミレーヌは続ける。


「また、礼法委員による備品確認申請の運用についても、当面見直します。申請者、目的、実際の出入り場所を記録に残すこと」


「はい」


「エリアス。購買係も同様です。委員会関係者の出入りについて、記録を省略しないように」


「承知しました」


エリアスは深く頭を下げた。


クラリスは、そこでようやく息を吐いた。


完全勝利ではない。


ロザリンドの名前が指示書にあったわけではない。


彼女が封筒を置いた証拠もない。


だが、彼女はもう「無関係な礼法委員」ではいられない。


調査する側ではなく、確認される側。


その席へ動かされた。


リディアが、そっと呟く。


「席が、動きましたわね」


クラリスは小さく答えた。


「ええ。今度は、勝手にではないけれど」


ロザリンドは、リディアを見る。


その微笑みは、まだ美しい。


しかし、その目の奥にあるものは、もう隠しきれていなかった。


屈辱。


警戒。


そして、私怨に変わり始めた何か。


「フォルクレア様」


「はい」


「あなたは、本当に汚れを見つけるのがお上手ですのね」


「いいえ」


リディアは首を横に振った。


「汚れの方が、目立つ場所に出てきてしまうだけですわ」


ロザリンドは、静かに笑った。


「そう」


それ以上は言わなかった。


だが、その一言だけで十分だった。


次に来る。


もっと静かに。


もっと綺麗に。


もっと見えにくく。


クラリスはそれを感じた。


だから、先に言った。


「ロザリンド様」


「何かしら」


「名前のない紙は、便利です」


ロザリンドの目が細くなる。


「けれど、便利な紙ほど、出所を見られると弱いものですわ」


「ご忠告として受け取っておきます」


「いえ」


クラリスは微笑んだ。


「記録として残しておきます」


部屋の空気が、また一段冷えた。


ミレーヌが、書類をまとめる。


「本日の確認は以上です。関係者は、後日改めて呼び出します。ベルモンドさん、フォルクレアさんも、提出記録の確認のため同席を求める可能性があります」


「承知しました」


クラリスは礼をした。


リディアも続く。


部屋を出る時、ラザフォードは椅子に座ったまま、両手を握りしめていた。


彼の水差しは、今日はなかった。


けれど、彼は先ほどより少しだけ呼吸していた。


エリアスは扉の近くでクラリスへ小さく頭を下げた。


味方ではない。


だが、少なくとも沈黙だけでは済まないことを理解した顔だった。


廊下に出ると、リディアが言った。


「クラリスさん」


「何?」


「今日のお茶は、苦かったですわね」


「お茶は出ていないわ」


「でも、苦い香りがしました」


クラリスは少し笑った。


「そうね。かなり苦かったわ」


「甘いお菓子は、まだですか?」


「第十二話くらいまで待って」


「だいじゅうにわ?」


「何でもないわ」


クラリスは扇を閉じた。


ロザリンドは倒れていない。


だが、白い手袋はもう完全な白ではない。


名前のない紙。


焦げた飾り罫。


沈丁花の香り。


ラザフォードの証言。


エリアスの記録。


そして、礼法委員の備品確認申請。


それらはすべて細い糸だ。


一本だけなら切れる。


だが、束ねれば布になる。


逃げ道を塞ぐ布に。


「リディア」


「はい」


「次は、イザベラ様の番かもしれないわ」


「格式の方ですか?」


「ええ。格式の方」


リディアは少し考えた。


「格式は、綺麗に洗えばよい布ですか?」


「本来はね」


クラリスは、廊下の先を見た。


「でも、洗っていない古いカーテンになっているなら、埃を払わないと」


リディアは、にこりと笑った。


「では、次はカーテンのお掃除ですわね」


クラリスは思わず笑った。


「あなたに言わせると、全部お掃除になるのね」


学院の廊下には、午後の光が差していた。


その光の先で、ロザリンドの白い手袋が、扉の向こうへ消えていく。


今はまだ、燃えていない。


切られてもいない。


けれど、その白さは、少しだけ嘘を含み始めていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


第11話は、ロザリンドの「尻尾切り」を、クラリスが逆に利用する回でした。


ロザリンドは、ラザフォードが勝手にやったことにしようとします。

けれどクラリスは、

「知っていたなら共謀」

「知らなかったなら、ハートレイ家の私用便箋と紹介人の管理不備」

という形で、どちらに転んでもハートレイ家に傷が戻る文面を作りました。


さらに今回は、ロザリンドが「商人の推測」としてクラリスの覚書を軽んじたことで、逆に正式照会への道が開いています。


リディアの一言、

「尻尾を切っても、血の匂いは残りますわ」

も、今回の静かな刃です。


ロザリンドはまだ倒れていません。

ですが、調査する側ではなく、確認される側の席に移されました。


次回は、席札事件の最初の中心だったイザベラと、学院の「格式」へ戻っていきます。


続きも読んでいただけると嬉しいです。

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