39.7話 亮介の手記②~情報物理学の目覚め~
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有名な科学者の逸話には、目覚めのごとく鮮烈な閃きの瞬間が語られることが多い。
アルキメデスなら、入ったふろの湯がこぼれ落ちた時。ニュートンなら、リンゴが落ちるのを目撃した時。アインシュタインならば、落下する男が感じる無重力を夢想した時。
そんな瞬間が今日この日、僕、遠藤亮介のもとにも訪れた。
*
僕はそこそこの無駄金を落として行ってから、三越百貨店を後にした。
普段からもらっている実家からの金に加え、時々ものを書いたり特許に関わったりしているから金に困ることはない。こういうものは貯めていても仕方がないし、特に今日のことについては実家の方に知られても困る。口止めの意味も込めて無用な買い物をする必要があったわけだ。
そして、今から向かう目的地でも、また金を落としていかなければならない。
「やれやれ、今日は財布が軽くなる日だ」
まあしかし、こっちの方ははした金で済みそうだし、そう無駄な買い物というわけでもない。
大事な友人のため、秘密保持のため絶対確保すべき品物を押さえに行くのだ。
「やあ、やってるかい?」
「なんだ、先生ですかい?ずいぶんご無沙汰だったじゃねえですか。――親父、先生だぜ」
質屋の店番はそう言って、店の主人に声をかける。僕は普通のものは買わないようなガラクタを高く買い取ることが多いので、この店でも得意の部類に入っている。
「やあやあ、先生。待ちかねやしたよ。先生が来ない間に面白えものが色々入ってますぜ」
「まさにそれさ。ちょいと他じゃ出回りそうにないものを仕入れたって噂を聞いてね」
「ははは。相変わらずの地獄耳だぜ。で、どんな噂の品をご希望で?」
「怪しい女が他じゃ見たこともない時計を売りにきたそうじゃないか。それを買取に来た」
そう言うと店の親父は客商売用の笑顔を引っ込めた。
「――先生、そりゃどこから聞いてきたね」
「誰だと思う?」
「茶化すのはなしだぜ、先生。アンタ、アレがどんなものかわかって来たんだろう?」
「ああ。お前さん以上にね。――まあ、警戒するなよ。別におっかない親戚のツテってことはないからさ」
それを聞いて店主は安心したように息をついた。
「よかったぜ。真壁さんの耳に入ってたら、下手すりゃ軍の連中に搾り殺されちまうとこだったからな」
店主の言う真壁さんとは、僕の義弟のことだろう。彼は陸軍の情報将校だ。店主が不安がるのも無理はない。
「ははは。欲をかいたら、想像以上に厄介な代物だったってわけだ。そりゃあ、帝都のどんな時計屋だって見たことがないようなとんでもない技術で作られた代物だ。こんなものが出回っているなんて、このご時世に軍が放っておくわけがない」
「人が悪いや、先生…!そう言うことをわざと店の中で話すのはなしだぜ」
「大丈夫。近くで聞き耳立てている奴がいないことは保証済みだぜ。まあ、そんな厄ネタ、いつまでも抱えてちゃ危ないだろ?僕が引き取ってやるよ。もちろん、その分、値段の方は勉強してもらうがね」
「……ちくしょう、あんな怪しい女、さっさと追い出してやればよかったぜ」
店主はそういうと、店の奥に引っ込むと、やがて腕時計を持って現れた。
一目見ただけで、現代では見ることのない素材でできた時計だとわかる。全くこんなものを売り払うとは考えなしにも程がある。まあ、この場合、買う方も買う方だが。
「じゅ、十円てとこでどうだい、先生」
その値段は店主が皮算用していた値段から明らかに桁の少ない値段だったのだろう。少し強張った表情でそう言ってくるが、ここで折れてやっても面白くない。
「あんまり欲をかくものじゃない。こっちは面倒を代わりに背負い込んでやるって言っているんだ。金をもらっても構わないぐらいだぜ」
そこで僕はにんまりと笑いを作った。
「ま、六円ってとこだろ」
それはちょうど陽菜が手に入れたと言っていた売値そのままだった。我ながら意地が悪い。
「じゃ、冗談じゃねえや!こっちは調べたり口止めだったりで元手かかってんだぜ?!」
「だから勉強してもらうって言っただろう?よかったじゃないか。下手なものには手を出さない。良い教訓を得られたわけだ」
僕は返事も聞かず六円札を放り投げると腕時計を受け取った。
一通り重要な話が終わった後、時計が消えた件を陽菜に伝えたところ陽菜が頭を下げながら伝えて来たのがこの時計の話だ。この時計ならば消えることもないとのことなので、宗一に代わりということで渡しておこう。
払い戻しの代金も支払うと陽菜は言っていたが、受け取らなかった。あの手の娘には貸しを作っておいた方が後々都合がいい。
その代金だと思えばあまりにも安い買い物だった。
鼻歌まじりに店を出るところで店主が悔しそうに聞いてくる。
「ところで先生、結局誰から話を聞いたんです?それくらい教えてくださいよ」
「はは。知らぬが仏さ」
売りつけた本人からだと答えたら、店主のやつ、目を剥いて怒り出すに違いない。余計なことを言われぬうちにと、僕はさっさと店を後にした。
*
上機嫌な調子で涼介が自宅への帰路についていると
「ずいぶんと陽気ですね。亮介さん。それほど彼女の回答は満足でしたか?」
暗闇からヌッと志乃が現れた。
「やあ、先ほどは見張りご苦労さん。おかげで安心して脅しをかけられたよ」
「構いません。マレビト様の足跡が広まらないことは私にとっても重要ですから」
「それは意外だな。君たちはむしろ彼女という存在を広く喧伝したいのかと思っていたがね」
「そういう方もいらっしゃいますが、主流派は今はまだ隠匿すべきと考えております」
どうやら組織が一枚岩ではないというのは本当のことらしい。ならば、陽菜の存在を狐女と呼んで騒いでいたのは、陽菜を喧伝したい一派なのかもしれない。
僕がそんなことを考えていると志乃がこちらも見ずに続けた。
「意外というなら、亮介さんがあの娘の言うことを間に受けたことの方が意外ですね。事実初めは疑っておられる様子でしたが。そんなに、情報の質量という考えに惹かれたのですか?」
流石によく見ている。
その通りだ。
陽菜の話に出てきた突拍子もないその発想が、僕にとって―――目覚めの瞬間だった。
「物理学者の皆様からしたら、鼻で笑うような話では?」
「……実はそうでもない」
僕はすこし自身の声が再び上ずりつつあることを自覚しながらも、話が止まらなかった。
「実は去年、学会を大きく揺るがせるとんでもない発見が報告された」
「はあ。どうでもいいですが」
「いいから聞きなさい。君は電子という言葉を知っているかい?」
「知りませんし興味ありません」
志乃の答えを無視して話を続ける。
「とりあえずは電気の元のようなものと思いたまえ。目にも見えない小さな極小の粒だ。しかし、この粒、物体でありながら波と同じようなふるまいをすると考えられている」
「意味が分からないのですが」
「物理学的に言って、物質と波っていうのは違うものなんだよ。要点はそこではないからとりあえずそう言う話があるとだけ理解してくれればいい。でだ、このように全く別の性質を持つこの物質だが、この振る舞いの差は何で生まれると思う?」
「なにでって、知りませんよ。何か環境要因でもあるのでしょう?学者でない私にはわかるはずもありません」
「ズバリ、人が観測するかどうかだ」
「―――は?」
そこで志乃は怪訝そうに顔をこちらを向けた。
「…どういう意味です」
「言ったままの意味だよ。学者ではない君向けにざっくりと説明するが、人間が観測した電子はすべて物体だ。ただの粒だしそれ以上の振る舞いを起こさない。しかし、人間が観測をしない間はそれは物体ではない。だから波でしか起こりえない現象を起こすのさ」
「なんですかそれ。人が見ているか否かで、物体になったりなくなったりするんですか?」
志乃が瞬きをしながらそう問い返してきた。
全くなじみのない分野の話なのに呑み込みがいい。きっと彼女の地頭はかなりいい方なのだろう。
「驚くだろう?物理学会は混乱の嵐さ。今まで物質は物質、それ以外はそれ以外とはっきり固まった世界を持っていたのに、極小の世界を覗き込んだとたん、世界はいきなりあやふやになる。しまいには、それを理論的に解明することをあきらめて、現象の振る舞いさえ理解すればいいというのが主流派になりつつある」
この大いなる流れに、かの愛しきアインシュタインは真っ赤になってご立腹だ。なまじ自身であまりに美しい理論を築きあげてしまっただけに、まだ未知の要素があるだけで世界に理論的に解けないものはないとただ一人叫んでいる。
しかし、その叫びに世界は答えない。彼が熱望する未知なる何かなど、未だその片鱗すらも見つかることはかなった。
今までは。
「しかし、彼女の理論――情報物理学は、この難題の解になりえる」
「……よくわかりません。とてもなりそうにないと思うのですが」
「それがなるのさ。彼女が能力を使う際、自分の脳内の思念のほかに、物体である建物の情報を流用する、という話が合ったろう。これがもし可能なら――物質とは情報と置き換えられる」
「それが何か?」
「だから情報の質量さ。知ってるかい?電子ってのはね―――とっても軽いんだ。つまり、電子という情報も又軽い。軽いものは、動かしやすい。いや、情報というなら書き換えやすい、というべきかな?」
「……!それつまり、電子は物体でない、という情報は、簡単に、電子は物質であるという情報におきかえられると?」
「大正解だ!人は装置でそこに電子があると観測した。人間の脳内に、そこにあるのは物質であるという情報が加わった。人間の認識という、本来物理現象ですらならないかそけき重さの情報にすら動かされ、電子は物質であると、現実が書き変わった。――そうとらえることもできるだろう?」
通常ならば、これはただの空想に過ぎない。小説にすら出てこない、荒唐無稽の馬鹿話だ。
しかし、陽菜は僕の目の前で、軽々とあり得ない現象を引き起こした。
彼女の思念と――未来の物体という情報を使って。
だからこそ、僕は、今日この日を自分の目覚めだと確信する。
―――世界は、情報でできている。
勿論、これはただのきっかけだ。
公理にたどり着くにはまだまだ長い道程が必要だ。
――何より、この現象はまだ公認されたものじゃない。その実在の実証からスタートしなくてはな
だからこそ、この度の志乃と冴子の共闘に、何が何でも介入しなくてはならない。
そうやって、目の前でより多く陽菜が能力を使う瞬間を目撃し、可能であればそれを誘導していかなければならない。
そのために、彼女たちの信頼を得る必要があるだろう。
質屋から時計を取り返してきたのも、そういうステップの一環だ。
――そのために陽菜君や志乃君にはいろいろ助言をしておいたんだ。おかげで次に落ち合う算段も付いた
陽菜は、自身があの理論を提唱していくせに、いまいちその理論に基づいた推論ができていない。
僕に言わせれば、あの情報物理学という条件さえ理解すれば、帝国に亡者が沸き上がるくらい――当たり前だ。
――ぜひ、僕の目の前で大暴れしてくれよ。この世界の謎を解き明かすため
それを思い僕の頬が自然と緩んでいく。
「……まあ、よくわかりませんがわかりました。それほど、情報物理学というのは貴方のような学者の目から見ても、信憑性があるということなのですね」
志乃はそんな僕の様子を見てため息をつくようにそう言った。
それが少し引っかかった。
「――そんなに、この理論に興味があるのかい?」
だからこそ、僕は気になっていたことに切り込むことにした。
陽菜にあの能力を使わせて亡者たちと戦わせるためには、嫌でも今後とも志乃とは関わっていく必要がある。
だからこそ、不安要素はさっさと摘んでしまいたい。
「別に。ただ世間話に付き合ってあげただけですよ」
「そうかな?君が僕と無駄な会話をするとはあまり思えない。普段ならばっさり切り捨てて後は耳も貸してくれないだろう?それが、学術的な話にまで突っ込んでくるなんて正直君らしくない」
「貴方が私らしさなんて知るわけもないでしょう?それほどの付き合いでもありませんし」
「だからこうして聞いているんじゃないか―――君にとって、情報物理学って何なんだい?」
その問いかけに、志乃はふいと僕から顔をそむけた。
僕は構わず続ける。
「らしくないと言えば、今日の三越百貨店で陽菜君が話をしているときもらしくなかったね。場を支配したがる君が、あの時は終始無言だったね」
「……くだらないたわ言を相手にするつもりがなかっただけですよ」
「ならば、君ならばさっさと切り上げるだろう?君としては、冴子と亡者を祓うための段取りを進める方がよほど喫緊の問題だ。だからさっさと陽菜君の独演会を中止してしまえばよかったんだ。なのにしなかった」
無言。志乃は何も答えない。
やはり何かあるな。そう考えざるを得ない。
「特に君が反応があったのは―――情報物理学という、その名前だ。一瞬君の目が揺れたのを僕は見逃さなかったぜ?あれはどういう反応なんだい?」
僕はだんまりを決める志乃の前に立ちふさがるように回り込んだ。
淑女に迫るような、紳士としてあるまじき行動だが、別に僕は紳士でないし相手も淑女ではない。
「今回の事態に、陽菜君はまだ予測がついていない。冴子に至っては想像もつかないだろうさ。――僕の協力は必要だ。そうじゃないかい?」
「だから何です?貴方こそ、私たちに関わりたくて仕方がないのでしょう?それは交渉材料にはなりませんよ?」
「勘違いしないでくれ。僕は、僕たちはこの問題に関してはパートナーだと言っているんだ。……ならば、君の懸念は僕の懸念にもなりうる」
「……」
志乃の顔が固まる。
やはり―――それは懸念だったのだ。
「情報物理学という単語が、なんで君の懸念になるんだい?――君が懸念しているってことは、母さんにも何か関係があるんだろう?」
その言葉に、志乃はしばらく無言のままだったが、しかし、最後には根負けしたようにため息をついた。
「……それほど確かなものではありません。ただ、嫌な予感がするというだけです」
そう前置きをして、志乃は亮介と目を合わせた。
「情報物理学という言葉を、あの小娘から聞く前から私は知っていました」
「――は?」
「あれは、あの小娘独自の理論ではありません。提唱者は別にいます。――我々の組織に」
それはあまりに聞きづてならない言葉だった。
この、宇宙を紐解きうる真理の兆しが、既に誰かによって発見されていた?
それは許されない。許してはいけない。
―――これは、僕の真理だ
経験したことのない、どす黒い気持ちが僕の心にしみだしていく。
僕はそれを押さえるでもなく、ただ問い返した。
「……誰だい?その提唱者っていうのは」
「貴方はご存じないかもしれません。学会を追放されたという方ですから。それで、奥様にこの理論を持ち掛けて研究の協力を歎願されてできたのが、帝都心霊科学研究所です」
「………だから誰だい?」
「…正直、彼の名前は一般の方に公開していないのですよ。一応発足時のメンバーなのですが、本人のご希望で名は伏せています。しかし、その会の発足から彼はその誰にも認められていない学問を一人唱えていました。……だからこそ不気味なんです。会の者も知らず、世間も全く取り上げようとしないその学問の名前を急にあの小娘が口にしたのか。しかも地震で思いついただなんて――」
「いいから答えろよ!誰なんだ!その男は!」
怒鳴り声をあげるなんて行為は、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
それでも僕はその名前を聞かないではいられなかった。
志乃は少し困ったような顔で僕を見つめ、そして最後には僕の問いに答えてくれた。
「…来栖善吉博士。貴方と同じ、帝大理学科出身の元学者です」
その名を聞いて、脳内にヤツの癇に障る笑い声が響き渡った。
―――来栖。お前ごときが僕の前に立つのか
僕はその感情の名前を、嫉妬と命名した。
お読みいただきありがとうございました。
物理学を名乗る以上、物理学の世界でも大きなターニングポイントを迎えていたというこの話はいつかはやりたいと思っていました。
本当にこの1928年というのは面白い年ですね。
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