36.5話【拾弐】絢爛たる罠~三越百貨店は蜘蛛の巣に変わる~
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本日は冴子回。お嬢様たちのあこがれの地であり帝都の象徴である三越百貨店の空気をぜひご堪能ください。
東京日本橋の三越百貨店は、言わずと知れた日本を代表する文化の中心地である。
この壮麗な三越日本橋本店が建てられたのは大正3年。十数年前に竣工したこのルネサンス様式の建築は、震災後の修築を経て、今なお帝都の象徴として人々を圧倒し続けている。
きらびやかな大理石の階段や正面玄関の厳かなライオン像の話は、帝国の人間であればだれだって一度は聞いたことのあるだろう。
未来人である陽菜でさえ、この建物については
「あー、あの日本にこんな建物あったんだって感じの西洋風の建物だよね?私、行ったことないけど写真だけ見たことあるや」
などと言ってた。
その言葉に、冴子はなんとなくほっとしたものだ。
陽菜の話に出てくる未来の世界や、陽菜が実際に生み出す未来の建物は、どれも余りにも奇怪で珍奇なため、未来の日本はすっかり魔境になってしまっているのではと不安に思っていたのだ。
どうやら、そのような異界でも、日本が誇るべきかの建築物は正しく承継されているらしい。
さて、そのような三越百貨店は、当然冴子たち府立一鷗女学校の生徒にとっても当然憧れの地である。
大人たちが『今日は帝劇、明日は三越』などと謳うその場所のことを、学生たちが気にならないわけがないのだ。
他では見られない書籍や化粧品、流行最先端の反物や洋服用のレース・リボン、さらに最上階にあるという日本と思えないほどに豪奢な特別食堂。
冴子自身は、同世代の女子たちに比べるとそこまで強いあこがれはないものの、流行嫁修業や授業で学んだ文物の極みが集まる場所という意味では全く興味がないでもない。
とはいえ。
そんな憧れの場所も、瑠璃子からの得体のしれない誘いなんて条件が付けば、どうしても感動よりも警戒の方が先に立ってしまう。
冴子は密かに連れ立つ同級生の様子を観察した。
「ほらぁ。先生からの許可もちゃんといただいたのよぉ。皆さん、あたしに感謝をして頂戴ね」
瑠璃子はすっかりご機嫌で、集団の先頭を軽い足取りで進んでいく。
その後ろに、状況をつかめていないものの、少し興奮気味になっている雅代、そして――
「やあ、これが噂の正面ホールか。天井の高いことといったらないね。まるで空に届かんばかりじゃないか」
そう大げさなことを言ってふざけているのは冴子の友人、和子だ。
どこからともなく、冴子たちが三越百貨店に課題のため見学に行くという話を聞きつけてくると、ちゃっかり一緒に行くと言い出したのだ。
まあ、確かにこの光景は壮観の一言だ。
吹き抜けの広間になっている正面ホールには、天井のステンドグラスから暖かな自然光が降り注ぐ。床の白い大理石がその光をうけて柔らかく輝き、空間全体をどこか神秘的に彩っている。
「あの二階に続く階段も見事なものだね。あの優美な意匠、確か西洋建築の専門書でも最高級のものとされているはずだね」
「あらぁ、よく知ってるじゃない。ならこれはご存じ?あの階段はただ高級な大理石というだけでなく、何万年も昔のアンモナイトの化石が埋め込まれているんですって。太古の昔から遥かな未来に至るまで、この帝国を見守ってくれているってことなのかしらねぇ」
和子と瑠璃子はそう言ってはしゃいでいる。優等生で読書家の和子はもちろん、瑠璃子も新聞社の娘なのでこう言ったことは詳しい。
雅代はどこか緊張しているようで表情が少し硬い。華族の出である彼女ならば三越百貨店にも家族で何度か来ていると思うのだが、こういう場所が苦手だったりするのだろうか。
そんな女学生の一団後ろに控えている陽菜はというと、あまり衝撃を受けた様子もなかった。街中ではどこか浮いた洋装の姿もこの空間ではむしろあるべき姿に見える。彼女の未来社会での身分を考えれば当然だろう。
それでもどこか楽しそうに「これはめっちゃバエるなるぁ。配信したい」などとよくわからない独り言を話しているのは、なんと言うか彼女らしい。
――今の所、特におかしなことは特にはないわね
曰くありげな瑠璃子の誘いだったが、ここに来て瑠璃子の様子に不審なところはない。ただただ三越百貨店へのお出かけを楽しんでいる風だ。
冴子はそっと自分達一行のすぐ近くでこちらを伺っている遠藤家の使用人である誠一の存在を確認する。いざという時は彼も役に立ってくれるはずだ。
「さあ、課題のために呉服売り場に行きましょう。あと、高級素材というなら、貴金属の取り扱いを見るのも大事よね」
瑠璃子は皆を引き連れて正面大階段を少し気取って登っていく。冴子たちも彼女の後を追った。無論、優雅な振る舞いを心がけて。女学生である彼女たちは、周りの大人からどこか品評されるような視線を浴びせられる。だからこそ、しくじりなどゆるされないのだ。
そこで、冴子は大事なことを陽菜に伝え忘れていたことに気が付いた。
このような場では、お付きの者もふさわしいふるまいが求められるのだ。ここで、挙動不審な様子や無作法な振る舞いをしてしまっては、冴子も、陽菜自身も静江から厳しく咎められるだろう。
――江川さんばかりに気をとられてすっかり忘れてしまっていたわ…!
不安になってそっと振り返ると、意外なことに、陽菜は落ち着いた様子で、冴子たちと適切な距離を保った状態で後を付いてきていた。
普段の彼女の動きはどちらかというとセカセカとしているが、今の彼女はむしろ手足の先まで神経を行き届かせようと、ゆっくり丁寧に振舞っているのがわかる。
これには少し驚いた。
なにか、陽菜の意識に変化でもあったのかもしれない。
あるいは、未来のこうきな生まれである彼女としては、このような場にはなれているのか。
――どちらにせよ、これなら陽菜さんの手助けは気にせずに、周囲の警戒に集中できそうね
冴子は安心すると、再び瑠璃子やその周囲に意識を集中させた。
瑠璃子を先頭に大階段を登りきると、二階からは吹き抜けを取り囲むように優雅な回廊が続いている。
その奥につづく売り場につづくアーチ状の開口部をくぐると、にぎやかな喧騒の空気は一転、静謐なサロンともいうべき空間が広がっている。
床には高級じゅうたんが敷き詰められ、足音すら聞こえない。壁一面に立ち並ぶ、天井まで届く木製の什器は引き出しになっており、その中には、この国で最も高級な衣類が収められている。
二階正面。呉服売り場だ。
「いらっしゃいませ。学生様でいらっしゃいますか?」
しばし売り場の空気を味わっていると、店員の一人が声をかけてきた。
その問いに答えるのは雅代だ。華族出身である彼女はこのような場になると代表になりやすい。雅代は相変わらず緊張した表情ながら、背筋を伸ばして答える。
「恐れ入ります。わたくし達、府立一鷗高等女学校の生徒です。もしよろしければ、学校の課題で少しお話を伺いたいのですが」
「それは素晴らしいですね。ではこちらへどうぞ。いくつか当店の品をお持ちいたしますね」
店員は冴子たちを店内にしつらえられている席の一つに案内される。
見ればマホガニー材の重厚な商談テーブルとカブリオール・レッグの優雅な椅子だ。流石は三越百貨店、売り場の机や椅子まで行き届いている。
――と、感心している場合ではないわ。ちゃんと警戒を続けないと
冴子は思わず圧倒されている自分に心の中で喝を入れる。
冴子とて、三越百貨店に始めてきたというわけではない。しかし、学生のみでこの場を訪れたのは初めてだ。そのためか、どうしても何事も新鮮に感じ、つい舞い上がってしまう自分がいる。注意しなければいけない。
――でも、本当に江川さんの様子は普段のままなのよね
今日一日、何かおかしな気配を漂わせたことは一度もない。
周囲に関しても、不審な存在は皆無だ。
唯一店員以外で視線を感じる相手がいるとしたら、それは見張りとして付いてきている誠一のものである。彼は女学生の冴子たちと一緒に売り場に入るわけにもいかないので、回廊の手すりに背を持たれかけさせてこちらの様子をコッソリうかがっているようである。
誠一の退屈そうな表情を見れば、彼の目から見ても特におかしな存在は見受けられないと考えていいだろう。
――わたくしの考えすぎだったのかしら
特に何も考えていない様子でただ今の状況を楽しんでいる瑠璃子の横顔を眺めていると、どうしても警戒する気持ちが緩んでいく。
昨日の強引な態度は何だったのかと言いたくなるくらい、彼女は自然体だった。
――あるいは、彼女の役割はただわたくしたちを呼び出すことだけだったので、後は気にならない、ということなのかもしれないけれど
その場合、彼女以外の人間が冴子や陽菜に強い興味を持っていた、ということになるが、その場合もう少し視線を感じてもよい気もする。
それもない以上、瑠璃子は単に陽菜の物珍しさにひかれて一緒に歩いてみたかっただけ、と考えるのが一番自然な気もしてくる。
ならば、課題の為に得難い経験をしているのだし、余計なことは考えずこの時間を楽しむのが一番なのかもしれない。
冴子はそこまで考えてようやく肩の力が抜けていくのを実感した。それを見て和子が揶揄うように笑った。
「おや、遠藤嬢がようやく現世に帰ってきたようだね。そんなにこの場に圧倒されていたのかい?」
「それも仕方ありませんわ。三越百貨店の呉服売り場となれば、日本で最も華やかな舞台と言えますもの。遠藤さんも同じ心持ちだというのは正直安心しますわ」
「あらぁ。将来は何度も来る場所になるのよぉ?だからこそ今のうちに慣れておかなくっちゃ」
友人たちの気楽な会話を聞いていると、張り詰めていたのがなんだか恥ずかしくなってくる。
陽菜が未来の貴人だとして、変に舞い上がってしまっていたのかもしれない。
冴子はそう思って笑った。
要するに。
油断したのである。
「ご歓談のところ失礼いたします。恐れ入りますが、お嬢様、もしや江川瑠璃子様ではいらっしゃいませんか?」
アーチ状の入り口をくぐって店員が一人、冴子たちのもとにやってきてそう声をかけた。
「ええ。そうだけど?」
「ご家族の方が、3階サロンのほうで首を長くしてお待ちでございます。ご友人様方もご一緒に、ぜひこちらへお越しくださいませ」
「あら。いやだわぁ。そう言えばそういう話だったわね」
瑠璃子はそこで冴子たちの方を振り返ると、得意そうに声をかけてきた。
「おじさまが、こちらによるついでに店内を案内をしてくださる約束になっていたのよ。皆さん、ご一緒にいかがかしら?」
その瞳が冴子を見る際に微妙に揺れたのを見て、冴子は瑠璃子の狙いがこの誘いにあったのだと理解した。
――しまったわ
すっかり腰を落ち着けて話をしていた以上、ここで急にこの誘いを退けるのは流石に不自然だろう。
他の二人もすっかりその気になってしまっている。
「それはいい。こちらからお願いしたいところさ」
「ええ。せっかくの機会ですもの。ねえ、遠藤さん?」
「え、ええ。そうね」
冴子はそう頷くしかなかった。
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店員に案内され三階に向かう途中、冴子は考えを巡らせていた。
――狙いはやはり陽菜さん?江川さんのうちは新聞社だし、陽菜さんの生まれの秘密がばれたのかしら?
しかし、そんなはずはないのだ。陽菜がどれほど先の未来から来たかは知らないが、目が眩むほど先なのは確かだ。だとしたら今の時代なら彼女本人どころか、その両親すらまだ生まれていない可能性が高い。気づけるわけはない。
ならば、狙いは陽菜が言うように、自分かもしれない、と冴子は考える。
彼女の家は、いわゆる新中間層と呼ばれる、近代都市部の発展とともに勢力を付けてきた一族である。その分、家としての歴史は浅く、箔をつけるためには、老舗雑貨問屋出身の冴子など旧来の富裕層と関係を持ちたがる傾向がある。
だからこそ、無理やり自分との縁を強調して、縁組を有利に働かせる狙いがあるのかもしれない。
ただ、瑠璃子は待ち合わせの相手を「おじさま」と呼んでいた。ならば年齢差はそれなりにあるのだろうし、縁組にも無理があるだろう。あるいは、彼の息子などが待ち構えているのかも――
そんなことを考えている間に、三階にたどり着いてしまった。
店員はそのままアーチ状の入り口をくぐるとフロア端の通路を通ってさらに奥へと冴子たちを案内する。ちらりと振り返ると、誠一郎は流石にこの売り場の中を通って冴子たちの後をついていくことはできないらしい。回廊部分で立ち往生しているのが遠目で見えた。
商品の展示が減り、店の客の声も遠のいたころ、廊下の突き当りにある応接室のプレートのかかった扉が見えてきた。
「こちらでお待ちでございます。どうぞお入りください」
まさか、相手がラウンジのような場所ではなく、立派な応接室にいるとは思っていなかったのだろう。ここに来て、和子と雅代は戸惑うような表情を見せた。
一方、瑠璃子は全く気後れすることなく、そのまま案内に従って部屋の中に入っていった。
「お待たせしてしまったかしらぁ。ついお店の方のお話が面白くって」
そこで待っていたのは。
冴子の想像を完全に裏切る相手だった。
「ははは。どうせもったいぶるためにわざと時間をかけたんだろう?君のしそうなことだよ」
待ち合わせの相手、瑠璃子が「おじさま」と呼ぶその男は―――瑠璃子の叔父などではなかった。
「――やあ、僕の可愛い姪っ子さん。随分とご無沙汰だねえ。待ちくたびれたもんだからこちらから招待させてもらったよ」
その長身を深々と高級ソファーにしずめこむ、パナマ帽に羽織に着物の出で立ちの男。
亮介だった。
「ということで、僕だよ。お嬢さん方。そこの彼女の叔父をやってます。――あと一応連れも紹介しておこうか」
そう言って亮介は芝居がかったしぐさで、隣に座る女を指し示す。
女は軽く亮介の紹介を手で遮ると、立ち上がった。
蜘蛛の根付が軽く揺れる。
「志乃と申します。―――以後、よしなに」
お読みいただきありがとうございました。
ということで、三越百貨店ツアーいかがだったでしょうか。
こちらの建物自体は現在も残っておりますが、色々と光景は変わっています。エスカレーターとか中央のまごころ像とか。それでも当時の空気は感じられますのでご興味のある方は一度行ってみてください。
ということで、いよいよ志乃の登場です。このだまし討ちの裏側と彼女は何を目的にしてここに現れたのかについて、次回明らかにしていきます。
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