13.5話【伍】遠藤家に潜む闇とダニ
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本日は冴子パート。
陽菜がどん底で足掻いているその裏側で、物語の暗部が静かに、しかし確実に動き始めます。
陽菜を一人にしない。
そのためにまず必要なことは陽菜を見つけること、そして説得すること――ではない。
もっとその前の段階から、課題がある。
冴子が行動できる自由を勝ち得ること。そこから始めなければならない。
良家の令嬢たる冴子に、好きにしていい時間などほとんどないのだ。
昭和三年三月三十日午前。
冴子はまだ動けないでいた。
静江直々の花嫁修業が課せられていたからだ。今日の科目は客に対する来客への礼儀作法の実習である。
「よいでしょう。作法も所作も言うことはありません」
静江はそう評価した。しかし油断をしてはならない。そう気を付ける冴子に静江は、案の定、減点部分を告げる。
「問題はこの土産の品についてです。貴女の選んだものは、遠藤商店で取り扱う国産の万年筆でしたね」
「はい。お客様は大学教授という設定でしたので、普段使われる文房具を選びました」
「その視点は間違っていません。しかし、選ぶ品は不正解です」
「…遠藤商店でも最新で最高級の万年筆であればご満足いただけるものかと思ったのですが…」
「普段から使っていただくものならば貴女の考えで問題ありません。しかし土産の品としては、使っていただくより、愛でていただくことを重視するべきです。こちらの品は少し実用的過ぎます。もう少し装飾性や物としての格を意識しなさい」
その冬の湖のような底冷えのする視線に、冴子の背筋は縮み上がる。静江はいつだって正しい。その正しさに、冴子はただ従い続けるだけだった。
しかし、これからはそういうわけにはいかない。
陽菜とともに行こうというならば、冴子は「冒険」をしなければいけない。
「とはいえ全体としては十分合格点です。午後からはもう少しもう少し内向きの修行に切り替えましょう」
「そのことなのですが」
そこで冴子は口を開いた。
「実は牛込のお祖父様…師匠のお言いつけで午後には神田明神のご挨拶に伺う必要がございます」
その言葉に静江はぴくりと眉を動かした。
「…また、お父様ですか?昨日も、なにやら用事があったと聞いていましたが…」
その言葉に冴子はひそかに冷や汗をかく。昨日、古着を買って陽菜のもとに着物を届けるときも、とっさに師匠忠之の言いつけだと嘘をついたのだ。そのように不審がられるのも無理はないだろう。しかしここでわずかでも言いよどんでしまってはいけない。冴子は取り澄ました表情で続ける。
「昨日の用事とは別件です。一昨日の鎮魂について、真壁家としても少し関りがあったとのことです。詳しくはわからないのですが、師匠からは真壁が確認に来たと言えばわかると言い遣っております」
大きな嘘は言っていない。真壁家が鎮魂とかかわりがあったことは本当だ。ただし、それは忠之も知らなかった裏の秘儀に関わることであり、言いつけなども真っ赤な嘘ではあるが。
「なぜお父様ご自身ではなく貴女を遣いに?お父様も貴女が大事な時期であることはわかっているでしょうに…」
静江の纏う温度がだんだんと下がっていく。冴子はそれに気後れしないよう自らに喝を入れ、続ける。
「わたくし自身が御役目を引き受けたためです。遠藤家としても鎮魂祭後のご挨拶がまだですし、わたくしたちはすぐ近所なのですからわざわざ師匠にご足労をかけることもないかと思い」
「…まあ、貴女には修行も兼ねて挨拶に行ってもらう予定ではありましたし、良いでしょう。…本当はお松を付けるつもりだったのですが、あいにく今日は別の用事を言いつけてしまいました。おスズと行ってらっしゃい」
「承知しました」
その言葉に冴子はほっと息をついた。ただ、神社に話を聞きに行くだけでも一苦労だ。これから先を思うと思いやられる。
しかし、冴子は諦める気は全くなかった。
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嘘をついてまで神田明神へ行くのには理由があった。陽菜が言っていたことが、どうしたって気にかかったからだ。
『…あの男たちと何らかの関わりがあるかもしれないし、その疑いがあるうちは私はそこには頼れない』
そんなはずはない、そう言い切りたかった。なにせ冴子の父は氏子総代であり、祖母は神田明神にいまだ影響力を持つふじだ。冴子はある意味神田明神の関係者と言っていい。だからこそ、神田明神の何者かが陽菜に無体な真似をしたなんて、認めたくはない。
しかし、否定できなかった。
ふじのことがどうしても気にかかったからだ。
異変があったと飛び込んできた神田明神の遣い。それを知らされたはずなのに早々に帰ったふじ。そして一人不自然に残された志乃。陽菜の話では男たちに交じって、女性が一人残っていたという。何か、嫌な符号を感じてしまう。
ちなみに、その志乃と言えば、あの日の翌日、普通に帰っていった。あの男たちの目的が陽菜の確保にあるなら、まだ目的も達していないのに帰ってしまうのは早すぎる。なので冴子の考えすぎの可能性は十分ある。
だからこそ禰宜にそれとなく話を聞いて安心したい。
これが目的の第一だ。
「では私はここでお待ちしておりますので」
神田明神につくと、スズが生真面目な顔で言った。
しかし、それは少し厄介だ。せっかく嘘をついてまで時間を作ったのだ。もう少し、出来ることはしておきたい。そのためには、静江が付けた女中の目は邪魔だ。
「おスズ。禰宜様とのお話は長くかかると思うから、少し御遣いに行ってきてほしいのだけれど」
「なりません。静江様直々に冴子様のおそばを離れるなと硬く言い遣っております」
警戒心を強めるスズに冴子はあらかじめ考えていた言い訳を口にした。
「…これはお母様には内緒よ。ほら、お母様、家のこととは違って、ご自身のことにはあまりお金をお使いにならないでしょう?この前、お母様がお部屋で使っていた鏡がだいぶ曇っているのを見つけてしまったの。…だから、わたくし、余計なことかもしれないのだけれど、新品を買って差し上げたくて」
そういうと、スズは驚いた後、どこか納得したようにうなずいた。
「昨日の突然の外出はもしかして…」
「…ええ。その見繕いをしたかったのよ。でも、あまり時間がなくて、結局決められなかったの。ほら、わたくしはこれからあまり時間が取れないでしょう。4月にはすぐ学校も始まってしまうし…。だからおスズ。貴女にはわたくしの代わりに手鏡を見繕ってもらいたいの」
冴子はそういうとスズに自分の小遣いを渡す。そこまで言うとスズはようやく警戒を解いたようにうなずいた。
「…畏まりました。お嬢様の代わりに良い品を見繕ってまいります」
「ありがとう。多分禰宜様との話は15時くらいまでかかると思うから、そのあと萬世橋あたりで落ち合いましょう」
そういうとスズは足早に境内を離れていった。
これでわずかにだが時間ができた。
あとは手早く用事を済ませて、次の目的地に向かう必要がある。冴子はそのまま神田明神の社務所に向かうのだった。
冴子はまずは勝右衛門の名代として禰宜とのあいさつを済ませた。ここは手を抜くわけにはいかない。決められた通りの挨拶の後は、鎮魂祭の評判や今後の影響など、遠藤家として伝えるべきこと、確認するべきことは一通り押さえていく。
しかし、それで終わったのでは無理を通した意味がない。一昨日の夜のことをそれとなく聞いてみるため、冴子は慎重に話題を選んでいった。
「そう言えば、鎮魂祭の後、何か将門公に関わることでおかしなことはありませんでしたか?」
「おかしなこと、ですか?どうしてまたそのようなことを?」
「ほら、この度はお国を挙げての祭事だったでしょう?万が一にでも間違いなどあってはいけません。でも、鎮魂祭なんて慣れない行事ですし、問題がなかったか父も少し気にしているようでして」
「まあ、この度の祟りの騒動はまさに前代未聞の出来事でしたからな。しかし、御心配には及びません。全てつつがなく、その後何事もない平和な日常が戻ってきておりますよ」
そう笑って見せる禰宜に不自然な点はない。大したものだと冴子は感心する。
――しかし、冴子はその言葉が嘘であることを知っている。
「そうだったのですね。少し安心しました。ほら、鎮魂祭の次の日に神田明神の御遣いの方がいらしたでしょう?そのとき、なんだかその方の様子が大変なことでも起きたように見えて、美代子が怖がっていたんです」
その言葉に禰宜の表情が一瞬だけ強張った。冴子は気づかなかったふりをして続ける。
「だからなのですかね、実は美代子ったら怖い夢を見たなんて言うんですよ。神田明神の近くに地獄に続く階段が現れたとか何とか」
「な!」
禰宜は思わずといった風に声を漏らした。
「どうかなさったのですか?」
「い、いえ、はは、失礼。我々としては、すぐ近くに地獄があるなどと聞き捨てなりませんからな。思わず反応してしまいました」
「それは……大変失礼いたしました。わたくしったら失礼なことを」
「気にしないでください。子供の言ったことでしょう」
そう言いつくろうものの、禰宜の表情は明らかに動揺を隠せていなかった。
想定通りだ。禰宜はふじの存在も、美代子がふじの孫にあたることも知っている。だからこそ、彼は、美代子が予知夢を見た可能性を否定しきれないのだろう。
何せ、事実なのだから。
「…本当に何事もなかったのですか?」
「あ、貴女まで何を言い出すのです」
「…我が家に慌てて神田明神の方がいらしたのは本当なようですし、家の者が言うにはお祖母様も少し様子が変だったと言っていました。…本当に父に何もなかったと伝えてよいのですね?」
「も、勿論です。もし何かあったなら、あのふじさんが、何もせず鎌倉に帰るわけがないでしょう?」
その表情をみて、冴子は何となく察する。後々そのように言い訳できるよう、ふじはあえて普通に帰ったのだろう、と。
勿論、そのような言葉でごまかされるわけにはいかない。
「では、何の用でいらしたのです?流石にその話を確認しないと父に何もなかったとは伝えられません」
「そ、それはですな」
「…そう言えばですけど、昨日、ちょうどそのお使いの方がいらした頃に、こちらの参道近くで急に工事を始められていましたね。今日にはもう撤収しておりますが。
……正直に言うと、なんだか美代子の夢と符合するようでわたくしもちょっと不安ですの。
それに、もし美代子の言葉が父に伝われば、父もそのことを気にすると思うんです」
その言葉に禰宜は黙り込んでしまった。冴子はここで畳み掛ける。
「……禰宜様。
わたくしはただ、本当のことが知りたいだけなんです。
もし、納得ができる理由があれば、家族には問題がないように伝えることもできます。
わたくしも幼い日より将門公を敬愛する身、大事になるのは避けたいのです。…そのためにも可能な部分だけでも何があったか伺えませんでしょうか」
禰宜はその言葉を受けても黙ったままだったが、しばらくして諦めたように息をついた。
「……やはり、ふじさんの孫ですね…。血は争えませんか。
わかりました。正直に話しましょう。……ですので、勝右衛門さんへのご報告はご勘弁いただきたいです。…すべては終わったことですので」
「終わったこと、ですか?」
「ええ。一時はどうなるかと思いましたが、ふじさんのおかげで全て解決することができました」
その言葉に冴子はざわつくものを感じた。
解決しているわけがない。あの事件を起こした現況の陽菜が、まだ元の場所に帰れてはいないのだから。
嫌な予感がする。ふじに感じたあの違和感が、形になってしまいそうな恐怖を感じながら、冴子は禰宜の話を余さず聞くのだとそう自分に命じた。
話はこういうことだった。
28日午前中、おひざ元に謎の魔界が出現した神田明神は、急ぎそれを工事という体で隠すと、ふじに相談に行った。
そこでふじは、その魔界は将門公とは関りのない、悪意ある術者の仕業であると喝破したという。
その言葉を受け、神田明神はひそかに氏子のうち荒事になれた若い衆を集め、術者を確保するために人目のない夜にその階段下の建物に踏み込んだ。
術者は面妖な術で男たちを外へと放り出しそのまま逃走を図ったとのことだが、ふじが別に集めた特に霊力の強い集団により対処した。
二度と神田明神の足元に魔界など作られることはないので、心配はいらない。
それが禰宜の語った真実のすべてだった。
その「ふじが別途集めた集団が」陽菜を取り押さえようとしたことも、それに失敗したことも、あの亡者たちのことまで、すっかり話から抜けていた。
「霊力の強い集団…?そのような方々が神田明神にはいらっしゃるのですか?」
「いえ、神田明神とは無関係です。ふじさんが独自に見込んで率いている方々と聞いていますよ」
禰宜はそう答えた。それが本当に知らないのか、しらを切っているのか冴子には判断がつかない。しかし冴子はこれ以上踏み込むための武器がなかった。
結局冴子は禰宜に丁重にお礼を言うとそのまま引き下がるしかなかった。
だがわかったことがある。
神田明神との関係はわからない。
しかし、ふじが陽菜の確保に関わっていることが、わかってしまった。
しかもよくわからない組織まで率いて、秘密裏に、計画的に。
――警戒心が強いあの子がわたくしの手を取ってくれる可能性が、これでだいぶ減ったわね…
だが放置できない理由も増えた。
理由は知らないが、自分の身内であるふじが彼女に危害を加えようとしていることがわかったのだ。これを見逃すような不義を冴子は許すわけにはいかない。
「…全く仕方のないお嬢様ですね」
決意をかためて階段を下りる冴子に、その声は突然降ってきた。振り返ると、いつの間にか見慣れた女が冴子の背後をとっていた。その気配のなさにぞっとする。
「……お志乃さん。帰ったのではなくって?」
「帰りたくても帰れないのですよ。仕事が終わっていないうえ、遠藤家にとんでもないおてんば娘がいることがわかってしまったので。夜歩きの次は、探偵ごっこですか?もっとお利口なお嬢様と伺っていたのですがね」
そう言って志乃は困ったように眉をひそめて嘆息する彼女は、遠藤家で見せていた姿とは別人のような、異様な威圧感を持っていた。
帯につけている蜘蛛の根付がかすかに揺れる。あまり似合わない装飾だと思っていたが、それが今では、あまりに彼女の姿を現して見えた。
「ちゃんとした御遣いですもの。貴女にとやかく言われる筋合いはないわ」
「お遣いで禰宜様を脅迫するなんて、大したものです」
「…その話を聞いていたあなたの方が大したものね。聞こえるような声で話したつもりはないのだけれど」
「まあ、それは色々と方法はあるのですよ」
志乃はそう言ってコロコロと笑う。ただものではない。秘儀の夜、夜歩きというだけで緊張して見えた普通の女中としての姿は、見事な仮面だったようだ。
「…言いつけられるなら言いつけてみなさい。盗み聞きが禰宜様に知れたら、貴女もただじゃすまないわよ」
「そんな無駄な方法はとりませんよ。そもそも貴女が調べようとしてもどうせ何もわかりはしませんし」
「…じゃあ、なんでわざわざ声をかけてきたの?」
「万が一ということがありますから、釘をさしておこうと思いまして。ふじ様からのお言葉もあったはずです。この件に貴女が関わる必要はありません」
「…それは貴女が決めることじゃないわ」
「貴女が決めることでもないでしょう?貴女はただ大人の言いつけを守っていたらいいのです。その方が幸せになれますよ」
志乃はそう言って、すっと冴子の耳元に顔を寄せると小さな声で囁いた。
「……一応今回までは大目に見てあげますけど、これ以上目に余るようだと静江様にお伝えするべきことができるでしょうね。貴女の小太刀の件とか」
「…!」
「それではまた。お嬢様」
志乃は何もなかったかのように顔を戻すと、踵を返して階段を昇って行った。
思わずほっと息が漏れる。完全に場を制されていた。
「お祖母様、なんて娘を女中にしているのよ…」
遠藤家に連なるものに、あのような者がいたことが、何とも言えず空恐ろしい。
それどころか、それを束ねているのがあのふじだというのだ。恐ろしいどころの騒ぎではない。
遠藤家にも闇がある。
そんな知りたくもない事実を前に、冴子は静かに目を閉じて息を整えた。
――落ち着きなさい、冴子。敵の攻撃に振り回されては駄目
敵の攻撃を恐れれば、もはやそれしか見えなくなってしまう。それは完全に場の支配権を失うことを意味する。
そうではなく、場全体の起こりを見る。
その流れの中に自分を置いて、とどまることなく次に備える。活路とは、その先にしか存在しない。
――大丈夫。お志乃さんはわたくしを侮っている
冴子はただの自由のない女学生だ。出来ることなどないし、いざとなったら簡単に押さえつけられると高をくくっている。
その油断こそ、次につながる活路だ。
そしてそのための一手を冴子はすでに売っていた。冴子は次の目的地に急ぐ。
――わたくしができないのなら、出来る相手を頼るまでだわ
⚔
冴子が向かった待ち合わせ場所は、聖橋のたもとだ。
あいにく待ち合わせの時間になっても相手はまだ来ない。
――急なお願いだったし、無理だったかしら
そう思いつつも冴子はしばらくそこで待つことに決めた。待ち合わせ相手が時間にだらしのないことは知っている。ただ遅れているだけかもしれない。
そうはいっても手持無沙汰ではある。
そこでふと、冴子は自分の荷物から一本のペンを取り出してみた。
昨日、陽菜からもらった美しいペンである。
装飾は少ないものの、全く無駄のない洗練された姿をしている。
昨日の晩、試しに紙に書いてみたら、その書きやすさに目を剥いてしまった。まあ、線の表情が全くないのは少し難点だが、その代わりインクが全く途切れることもなく、書いた後乾かす必要もない。機能性の塊のようなペンだ。
だからこそ冴子は午前中の修業の際に、万年筆の土産物を思いついたのだ。…まあ、静江には見事に駄目を出されてしまったが。
――まったく、あなたのせいなんだからね。陽菜さん
この無駄のない美しさにほれ込んでしまったものだから、つい普段言われていることを忘れてしまったのだと、心の中でふざけるように愚痴る。
「こんな魔法のようなペン、貴女の国には普通にあるものなの?」
もしそうなのだとしたら、物語に出てくる魔法の国のようだなと思う。
そんなおとぎ話のような、と頭が否定する一方で、もしかしたらあり得るのかもしれないと心が期待する。なにせ、冴子自身がここ数日おとぎ話のような体験をしてきたのだから。
そんな益体もないことを考えていると
「やあ。待たせてしまったかな。ちょっと面白い現象にあっていてね。つい時間を忘れてしまったよ」
欠片も悪いと思っていない声色で、そう声をかけてくる男がいた。
パナマ帽をかぶりながらも羽織に着物というちぐはぐな格好をした背の高い男。
冴子の待ち人のようだ。
「いえ。突然のお願いにもかかわらずお越しいただきありがとうございます――亮介叔父様」
遠藤亮介。それが男の名だ。冴子の父、勝右衛門の弟にあたる。
「いやいや、いいんだよ。僕は兄さんと違って時間は売るほどある。それに、何年も会っていない可愛い姪っ子が急に電報を打ってまで呼び出してくれるんだ。そんな面白い現象、見に行かないわけないだろう?」
そうへらへらと笑う笑顔に、失礼と思いながらも思わず顔が引きつってしまう。
彼とはろくに会ったことも話したこともないが、話だけは勝右衛門から彼の名はいやというほど聞かされている。
『遠藤家のダニ』という悪態と一緒に。
彼はいわゆる「高等遊民」と呼ばれる生き方をしている。
帝国大学理学部物理学科卒という輝かしい学歴を持ちながら、学問の道に進むことも、働くこともせず、日々何もせずだらだらと生きている、というのが勝右衛門の評価である。
ほかにも、家内の女中たちの話を聞くと、妙な知り合いが多いとか、ろくでもないカフェーに入り浸っているとか、おかしなことが起こったらすぐ首を突っ込むとか、あまりいい噂を聞いたことがない。
しかし、だからこそ、冴子は今回協力者に彼を選んだのだ。
「それで?嫌われ者の僕に、兄さんの大事な可愛い姪っ子ちゃんが何の用だい?」
「…その、理由は詳しくは言えないのですが、人探しをお願いしたいんです」
彼に頼みたいこと、それは陽菜の情報を探すことである。
なにせ、陽菜の情報を集めようにも、冴子が大っぴらに聞いて回ることなんてできるわけはないし、そんな自由もない。
しかし、亮介には、売るほどの時間も、妙な人脈もあるというらしい。さらに面白いことに目がないというならば、あれほど面白い娘のことを放っておくわけがない。きっと、喜んで協力してくれるはずだという算段だ。
「ふふふ。本当にここ最近は面白いこと続きだ。あの奇妙な娘の後には、これまた奇妙なお願いが来るとはね」
「…奇妙な、娘?どんな娘です?」
聞き捨てならない言葉に冴子は思わず反応する。
「ん?興味ある?実は僕の行きつけのカフェーに急に何も知らない顔で飛び込んできた娘がいてね。異様に艶のある髪の毛と肌をしているのに、服はみすぼらしい着物という妙な子だよ」
陽菜だ。
そう確信する。思わず声を上げようとして
「いやー。面白かった。まさかあんな場所で、未来人なんてものに出会えるとはね」
亮介の思いもしない言葉に、冴子は言葉を失ってしまった。
「未来人、ですって?」
遠い国からやってきた娘だと思っていた。
しかし、その予想はまだまだ甘かった。
現実は、おとぎ話よりもなお面妖なようだった。
お読みいただきありがとうございました。
前話で陽菜を助けた「ひょろ長い男」こと、遠藤亮介、本格参戦です。
本作の根幹ルールである「情報物理学」を解き明かすために、帝国大学で物理を修めた高等遊民(要はニートです)の彼はいろいろ動いてくれることでしょう。早速、陽菜の正体を見破ってくれましたしね。
しかし、協力者に選べるのが彼くらいしかいない冴子の手札のなさよ…。
次回、陽菜パート。
引き続きダンジョン生成能力を喪失中の陽菜。誰にも見られないで、なるべく時間をつぶす必要がありますが…。1928年の帝都にはうってつけの場所がありますね。
「冴子、その男に頼っていいの?」「志乃なんか怖い…」と思っていただけましたら、ブックマークや下部の【☆☆☆☆☆】(評価)で応援いただけると、とても嬉しいです!




