第6話
私はノートを買った。
黒い表紙の、少し厚いノートだった。最初のページを開くと、何を書いても許されるような気がした。
西部劇の話を考えた。砂漠を歩く男の話。現代サスペンスも考えた。行方不明になった女を探す話。恋愛小説も考えた。もう戻れない二人の話。どれも面白そうに思えた。
最初の数日は、言葉がよく出た。
私は夜中まで書いた。友人が寝たあとも、テーブルの小さな灯りをつけて、ノートに文字を書き続けた。手が痛くなっても、眠くなっても、やめたくなかった。
初めて、自分の中に何かがある気がした。
けれど、それは長く続かなかった。
書けば書くほど、どこかで見たことのある場面になった。
孤独な主人公。雨の夜。駅。別れ。美術館。音楽。救い。喪失。
全部、どこかにあるものだった。
私はノートを閉じた。
数時間後、また開いた。
でも、何も書けなかった。
書けないのではなく、書いたものが全部嘘に見えた。
悲しいと書けば、悲しいふりをしているように見えた。孤独と書けば、孤独を飾っているように見えた。死にたいと書けば、その言葉でさえ誰かから借りてきたもののように思えた。
自分の感情が、自分のものではない気がした。
私は物語を書いているのではなく、物語に出てきそうな自分を演じているだけなのではないか。
そう思うと、何も書けなくなった。
食欲が落ちた。
眠れなくなった。
友人が仕事から帰ってくる頃、私は同じ姿勢でテーブルの前に座っていることが増えた。ノートは開かれている。でも、ページは白いままだった。
「最近、大丈夫なの?」
友人が言った。
「すごい追い込まれてるけど、趣味なんでしょ」
「そうなんだけど」
「なら、少し休めば?」
「休んだら、もう書けなくなる気がする」
「今も書けてないじゃん」
友人の言葉は正しかった。
正しい言葉は、ときどき一番残酷だ。
「どうしても、この物語は完成させたいの」
「どんな話なの?」
聞かれて、私は答えられなかった。
どんな話。
それは、私にもわからなかった。
恋人と別れる話なのか。芸術に救われる話なのか。救われなかった話なのか。自分を物語にしようとして失敗する話なのか。
あるいは、ただ終わりたいだけの話なのか。
「わからない」
私は言った。
「でも、書かなきゃいけない気がする」
友人はしばらく黙っていた。
「小説家とかって、そういうものなのかもね」
その声は優しかった。
「でも、体には気をつけなよ」
「わかってる」
私はそう言った。
でも、わかっていなかった。
わかっているふりをしていただけだった。
その夜、私はホールデンのページを開いた。何度も読んだ箇所だった。彼は相変わらず苛立っていて、傷ついていて、世界とうまくやれずにいた。
私はふと思った。
ホールデンは、誰かに受け止めてもらいたかったのだろうか。
それとも、誰にも触れられたくなかったのだろうか。
たぶん、その両方だったのだと思う。
私も同じだった。
誰かに見つけてほしかった。
でも、見つけられたくなかった。
理解してほしかった。
でも、簡単に理解されたくなかった。
助けてほしかった。
でも、「助けて」と言った瞬間、自分がただの弱い人間になってしまう気がしていた。
ノートを開いた。
白いページがあった。
私はそこに一行だけ書いた。
物語の主人公は、最後まで自分が主人公だと気づかない。
その一文を書いたあと、手が止まった。
続きは出てこなかった。
朝になるまで、私はその一文を見ていた。
翌日、友人が仕事へ行ったあと、私は荷物をまとめた。
長くいるつもりはなかった。けれど、思っていたよりも長く居座ってしまった。畳んだ服を鞄に入れ、借りていた本を机の上に重ねた。『ライ麦畑でつかまえて』だけは、少し迷ってから一番上に置いた。
ノートと原稿は鞄に入れた。
友人にはメッセージを残した。
ありがとう。少し歩いてくる。
嘘ではなかった。
私は本当に、少し歩くつもりだった。
部屋を出る前に、もう一度振り返った。
狭い部屋だった。
でも、そこには確かに、私を生かそうとしてくれた時間があった。
美術館のチケットの半券。飲みかけのコーヒー。床に積まれた本。乾ききっていないタオル。そういうものの一つ一つが、私に向かって、まだここにいればいいと言っているような気がした。
それでも私は、ドアを開けた。
外は曇っていた。
雨が降りそうだった。
駅へ向かう道の途中で、私は鞄の中の原稿に触れた。紙の角が指に当たった。
完成しなかった物語。
でも、もしかしたら、それでよかったのかもしれない。
完成しないものだけが、最後まで嘘にならずに済むのかもしれない。
ホールデンなら、こんな時、何と言うだろう。
そんなことを考えた。
けれど、答えは出なかった。
私は彼ではない。
どんなに似ていると思いたくても、私はホールデン・コールフィールドにはなれない。
私は私にしかなれなかった。
それが、どうしようもなく苦しかった。
駅が見えてきた。
改札の向こうから、発車メロディが聞こえた。
私は鞄を抱え直した。
物語は、まだ終わっていなかった。
けれど私はもう、続きを書く方法を知らなかった。
[みき]




