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未完成  作者: みき
6/7

第6話

 私はノートを買った。


 黒い表紙の、少し厚いノートだった。最初のページを開くと、何を書いても許されるような気がした。


 西部劇の話を考えた。砂漠を歩く男の話。現代サスペンスも考えた。行方不明になった女を探す話。恋愛小説も考えた。もう戻れない二人の話。どれも面白そうに思えた。


 最初の数日は、言葉がよく出た。


 私は夜中まで書いた。友人が寝たあとも、テーブルの小さな灯りをつけて、ノートに文字を書き続けた。手が痛くなっても、眠くなっても、やめたくなかった。


 初めて、自分の中に何かがある気がした。


 けれど、それは長く続かなかった。


 書けば書くほど、どこかで見たことのある場面になった。


 孤独な主人公。雨の夜。駅。別れ。美術館。音楽。救い。喪失。


 全部、どこかにあるものだった。


 私はノートを閉じた。


 数時間後、また開いた。


 でも、何も書けなかった。


 書けないのではなく、書いたものが全部嘘に見えた。


 悲しいと書けば、悲しいふりをしているように見えた。孤独と書けば、孤独を飾っているように見えた。死にたいと書けば、その言葉でさえ誰かから借りてきたもののように思えた。


 自分の感情が、自分のものではない気がした。


 私は物語を書いているのではなく、物語に出てきそうな自分を演じているだけなのではないか。


 そう思うと、何も書けなくなった。


 食欲が落ちた。


 眠れなくなった。


 友人が仕事から帰ってくる頃、私は同じ姿勢でテーブルの前に座っていることが増えた。ノートは開かれている。でも、ページは白いままだった。


「最近、大丈夫なの?」


 友人が言った。


「すごい追い込まれてるけど、趣味なんでしょ」


「そうなんだけど」


「なら、少し休めば?」


「休んだら、もう書けなくなる気がする」


「今も書けてないじゃん」


 友人の言葉は正しかった。


 正しい言葉は、ときどき一番残酷だ。


「どうしても、この物語は完成させたいの」


「どんな話なの?」


 聞かれて、私は答えられなかった。


 どんな話。


 それは、私にもわからなかった。


 恋人と別れる話なのか。芸術に救われる話なのか。救われなかった話なのか。自分を物語にしようとして失敗する話なのか。


 あるいは、ただ終わりたいだけの話なのか。


「わからない」


 私は言った。


「でも、書かなきゃいけない気がする」


 友人はしばらく黙っていた。


「小説家とかって、そういうものなのかもね」


 その声は優しかった。


「でも、体には気をつけなよ」


「わかってる」


 私はそう言った。


 でも、わかっていなかった。


 わかっているふりをしていただけだった。


 その夜、私はホールデンのページを開いた。何度も読んだ箇所だった。彼は相変わらず苛立っていて、傷ついていて、世界とうまくやれずにいた。


 私はふと思った。


 ホールデンは、誰かに受け止めてもらいたかったのだろうか。


 それとも、誰にも触れられたくなかったのだろうか。


 たぶん、その両方だったのだと思う。


 私も同じだった。


 誰かに見つけてほしかった。


 でも、見つけられたくなかった。


 理解してほしかった。


 でも、簡単に理解されたくなかった。


 助けてほしかった。


 でも、「助けて」と言った瞬間、自分がただの弱い人間になってしまう気がしていた。


 ノートを開いた。


 白いページがあった。


 私はそこに一行だけ書いた。


 物語の主人公は、最後まで自分が主人公だと気づかない。


 その一文を書いたあと、手が止まった。


 続きは出てこなかった。


 朝になるまで、私はその一文を見ていた。


 翌日、友人が仕事へ行ったあと、私は荷物をまとめた。


 長くいるつもりはなかった。けれど、思っていたよりも長く居座ってしまった。畳んだ服を鞄に入れ、借りていた本を机の上に重ねた。『ライ麦畑でつかまえて』だけは、少し迷ってから一番上に置いた。


 ノートと原稿は鞄に入れた。


 友人にはメッセージを残した。


 ありがとう。少し歩いてくる。


 嘘ではなかった。


 私は本当に、少し歩くつもりだった。


 部屋を出る前に、もう一度振り返った。


 狭い部屋だった。


 でも、そこには確かに、私を生かそうとしてくれた時間があった。


 美術館のチケットの半券。飲みかけのコーヒー。床に積まれた本。乾ききっていないタオル。そういうものの一つ一つが、私に向かって、まだここにいればいいと言っているような気がした。


 それでも私は、ドアを開けた。


 外は曇っていた。


 雨が降りそうだった。


 駅へ向かう道の途中で、私は鞄の中の原稿に触れた。紙の角が指に当たった。


 完成しなかった物語。


 でも、もしかしたら、それでよかったのかもしれない。


 完成しないものだけが、最後まで嘘にならずに済むのかもしれない。


 ホールデンなら、こんな時、何と言うだろう。


 そんなことを考えた。


 けれど、答えは出なかった。


 私は彼ではない。


 どんなに似ていると思いたくても、私はホールデン・コールフィールドにはなれない。


 私は私にしかなれなかった。


 それが、どうしようもなく苦しかった。


 駅が見えてきた。


 改札の向こうから、発車メロディが聞こえた。


 私は鞄を抱え直した。


 物語は、まだ終わっていなかった。


 けれど私はもう、続きを書く方法を知らなかった。





[みき]

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