表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未完成  作者: みき
5/7

第5話

 同棲してからは、毎日は驚くほど明るかった。


 部屋は狭かったし、壁は薄かったし、キッチンは二人で立つには少し窮屈だった。それでも、そこは私にとって初めての「帰る場所」だった。


 仕事はつらかった。朝は眠く、上司の言葉は重く、帰りの電車ではいつも足が痛かった。けれど、駅から家までの道を歩く時間だけは好きだった。部屋の明かりがついているかもしれないと思うだけで、少し早く歩けた。


 ドアを開けると、彼はよく同じ場所にいた。


 ソファの端に座って、テレビを見ているか、スマホを触っているか、たまに眠っているか。


「おかえりー」


 その声が好きだった。


 特別な言葉ではない。ただの挨拶だ。けれど、その頃の私には、それだけで十分だった。


「ただいま」


 そう返すたびに、自分が誰かの生活の中にいるのだと感じた。


 ある日の夜、私はスーパーの袋を両手に持って帰ってきた。袋の中には玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、鶏肉、カレールーが入っていた。


「今日は夕飯何がいい?」


 私が聞くと、彼は少し考えるふりをした。


「んー、今日はね、無難にカレーかな」


「もう材料買ってきちゃった」


「じゃあ最初から聞かないでよ」


「一応、聞いた感じを出したかった」


 彼は笑った。


 私も笑った。


 その笑い声は、今思い出すと少し眩しすぎる。


 キッチンに立って玉ねぎを切ると、目が痛くなった。涙が出て、彼がそれを見て笑った。


「泣くほど俺にカレー作りたいんだ」


「玉ねぎのせいだから」


「愛情かと思った」


「そういうことにしといてもいいよ」


 彼は得意げな顔をして、炊飯器のスイッチを押した。それだけで手伝った気になっているのが少しおかしかった。私はその時、それをかわいいと思った。


 今なら、たぶん違うことを思う。


 でも、その頃は本当に、かわいいと思っていた。


 カレーが煮える匂いが部屋に広がった。窓の外は暗く、カーテンの隙間から隣のアパートの明かりが見えた。テレビではどうでもいいバラエティ番組が流れていて、二人ともちゃんと見ていなかった。


 それでも、音があることが心地よかった。


「カレーおいしいね」


 彼が言った。


「ほんと?」


「うん。世界一おいしいカレー」


「それ、毎回言ってない?」


「毎回世界一を更新してる」


 馬鹿みたいな会話だった。


 でも、馬鹿みたいな会話ができることこそ、幸せだったのだと思う。


 食べ終わったあと、私は食器を洗った。彼は横で皿を拭いていた。水の音と、皿が重なる音と、彼の鼻歌が混ざっていた。


 その頃の私は、未来を疑っていなかった。


 来年もこうしていると思っていた。何度もカレーを作り、何度も同じような会話をして、何度もくだらないことで笑うのだと思っていた。


 物語の読者なら、ここで少し胸騒ぎを覚えるのだろう。


 幸せな場面が描かれるほど、そのあとに何かが壊れると知っているから。


 でも、私は読者ではなかった。


 その時の私は、ただの登場人物だった。


 お風呂はいつも一人で入った。


 彼と一緒に入るのが嫌だったわけではない。ただ、湯船に浸かって何も考えない時間が好きだった。浴室の曇った鏡に、自分の顔がぼんやり映る。髪が濡れて、頬が少し赤くなっている。疲れているはずなのに、その顔はどこか満たされて見えた。


 私は湯船の中で、明日のことを考えた。


 明日も仕事に行く。たぶん疲れる。帰りに牛乳を買う。洗濯もしなければならない。彼はまた靴下を裏返しのまま洗濯機に入れるかもしれない。私はそれに文句を言うかもしれない。


 それでもよかった。


 そういう明日なら、何度来てもいいと思えた。


 夜、布団に入ると、彼はすぐに眠った。


 寝つきの良さだけは本当にうらやましかった。私は横を向いて、彼の寝顔を見た。昼間より少し幼く見える顔だった。口元がわずかに開いていて、髪が額にかかっていた。


 この顔を見ながら眠れること。


 朝起きたとき、この顔が隣にあること。


 それだけで、私は明日も頑張れると思った。


 幸せというものがあるなら、たぶんこういう形をしているのだと思った。


 今になって考える。


 この会話に幸せを感じていたのは、私だけだったのだろうか。


 彼は何も感じていなかったのだろうか。


 それとも彼も、あの頃は本当に幸せだったのだろうか。


 答えはもうわからない。


 聞くこともできない。


 ただ、カレーの匂いだけは、今でもときどき思い出す。


 そしてそのたびに、私は少しだけ、あの部屋に思い出してしまう。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ