第5話
同棲してからは、毎日は驚くほど明るかった。
部屋は狭かったし、壁は薄かったし、キッチンは二人で立つには少し窮屈だった。それでも、そこは私にとって初めての「帰る場所」だった。
仕事はつらかった。朝は眠く、上司の言葉は重く、帰りの電車ではいつも足が痛かった。けれど、駅から家までの道を歩く時間だけは好きだった。部屋の明かりがついているかもしれないと思うだけで、少し早く歩けた。
ドアを開けると、彼はよく同じ場所にいた。
ソファの端に座って、テレビを見ているか、スマホを触っているか、たまに眠っているか。
「おかえりー」
その声が好きだった。
特別な言葉ではない。ただの挨拶だ。けれど、その頃の私には、それだけで十分だった。
「ただいま」
そう返すたびに、自分が誰かの生活の中にいるのだと感じた。
ある日の夜、私はスーパーの袋を両手に持って帰ってきた。袋の中には玉ねぎ、じゃがいも、にんじん、鶏肉、カレールーが入っていた。
「今日は夕飯何がいい?」
私が聞くと、彼は少し考えるふりをした。
「んー、今日はね、無難にカレーかな」
「もう材料買ってきちゃった」
「じゃあ最初から聞かないでよ」
「一応、聞いた感じを出したかった」
彼は笑った。
私も笑った。
その笑い声は、今思い出すと少し眩しすぎる。
キッチンに立って玉ねぎを切ると、目が痛くなった。涙が出て、彼がそれを見て笑った。
「泣くほど俺にカレー作りたいんだ」
「玉ねぎのせいだから」
「愛情かと思った」
「そういうことにしといてもいいよ」
彼は得意げな顔をして、炊飯器のスイッチを押した。それだけで手伝った気になっているのが少しおかしかった。私はその時、それをかわいいと思った。
今なら、たぶん違うことを思う。
でも、その頃は本当に、かわいいと思っていた。
カレーが煮える匂いが部屋に広がった。窓の外は暗く、カーテンの隙間から隣のアパートの明かりが見えた。テレビではどうでもいいバラエティ番組が流れていて、二人ともちゃんと見ていなかった。
それでも、音があることが心地よかった。
「カレーおいしいね」
彼が言った。
「ほんと?」
「うん。世界一おいしいカレー」
「それ、毎回言ってない?」
「毎回世界一を更新してる」
馬鹿みたいな会話だった。
でも、馬鹿みたいな会話ができることこそ、幸せだったのだと思う。
食べ終わったあと、私は食器を洗った。彼は横で皿を拭いていた。水の音と、皿が重なる音と、彼の鼻歌が混ざっていた。
その頃の私は、未来を疑っていなかった。
来年もこうしていると思っていた。何度もカレーを作り、何度も同じような会話をして、何度もくだらないことで笑うのだと思っていた。
物語の読者なら、ここで少し胸騒ぎを覚えるのだろう。
幸せな場面が描かれるほど、そのあとに何かが壊れると知っているから。
でも、私は読者ではなかった。
その時の私は、ただの登場人物だった。
お風呂はいつも一人で入った。
彼と一緒に入るのが嫌だったわけではない。ただ、湯船に浸かって何も考えない時間が好きだった。浴室の曇った鏡に、自分の顔がぼんやり映る。髪が濡れて、頬が少し赤くなっている。疲れているはずなのに、その顔はどこか満たされて見えた。
私は湯船の中で、明日のことを考えた。
明日も仕事に行く。たぶん疲れる。帰りに牛乳を買う。洗濯もしなければならない。彼はまた靴下を裏返しのまま洗濯機に入れるかもしれない。私はそれに文句を言うかもしれない。
それでもよかった。
そういう明日なら、何度来てもいいと思えた。
夜、布団に入ると、彼はすぐに眠った。
寝つきの良さだけは本当にうらやましかった。私は横を向いて、彼の寝顔を見た。昼間より少し幼く見える顔だった。口元がわずかに開いていて、髪が額にかかっていた。
この顔を見ながら眠れること。
朝起きたとき、この顔が隣にあること。
それだけで、私は明日も頑張れると思った。
幸せというものがあるなら、たぶんこういう形をしているのだと思った。
今になって考える。
この会話に幸せを感じていたのは、私だけだったのだろうか。
彼は何も感じていなかったのだろうか。
それとも彼も、あの頃は本当に幸せだったのだろうか。
答えはもうわからない。
聞くこともできない。
ただ、カレーの匂いだけは、今でもときどき思い出す。
そしてそのたびに、私は少しだけ、あの部屋に思い出してしまう。




