第4話
雨が降っていた。
傘を差している人もいれば、差していない人もいた。駅の床にはいくつもの足跡が重なり、黒い水たまりが薄く広がっていた。蛍光灯の光がそこに映って、踏まれるたびに揺れた。
世界は、善悪だけでできているわけではない。
良い人が報われるとは限らないし、悪い人が罰を受けるとも限らない。努力した人が救われるとは限らないし、助けを求めた人の声が誰かに届くとも限らない。
ハッピーエンドは、物語の中でさえ、ときどき嘘くさい。
私はそれを、いつからか知っていた。
一度目は怖かった。
体が勝手に後ろへ下がった。生きたいと思ったわけではない。ただ、終わることが怖かった。痛みが怖かった。暗闇が怖かった。何もなくなることが怖かった。
でも、二度目の夜には、その恐怖がなかった。
恐怖が消えたのではない。恐怖を感じる場所が、もう心の中に残っていなかったのだと思う。
鞄の中には、原稿が入っていた。
完成しなかった物語。誰にも読まれなかった物語。書いた私でさえ、最後まで信じることができなかった物語。何度も書いて、何度も消して、何度も最初からやり直した物語。小説と呼ぶにはあまりにも弱く、日記と呼ぶには嘘が多すぎるものだった。
私はそれを抱えてホームに立っていた。
もしこれが小説なら、ここで何か象徴的なことが起きるのだろう。
雨が止むとか、朝日が差すとか、昔の恋人から連絡が来るとか、友人が走ってくるとか。読者が息を呑むような、ぎりぎりの救いが用意されるのだろう。
でも、何も起きなかった。
スマホは鳴らなかった。
誰も私の名前を呼ばなかった。
発車メロディだけが、いつも通り流れた。
私は、自分の人生が物語ではないことを、その時ようやく受け入れた。
物語ではないのなら、終わり方もきっと選べない。
電車の光が近づいてきた。
風が吹いた。
鞄の口が少し開いていたのか、原稿の端が揺れた。一枚、また一枚と紙が外へ出て、濡れたホームの上に散らばった。そこに書かれていた文字は、雨で少しずつ滲んでいった。
私はそれを見ていた。
自分の言葉が、水に溶けていくのを見ていた。
それは思ったよりも静かだった。
誰かが遠くで息を呑んだ気がした。
アナウンスが途中で途切れた気がした。
けれど、私にはもう、はっきりとは聞こえなかった。
最後に見えたのは、白線だった。
白線の内側。
白線の外側。
ただの線。
ただの境界。
それでも私はずっと、その線の前で立ち止まっていたのだと思う。
紙が舞った。
一枚だけ、風に押し戻されるように、こちら側へ落ちた。




