第3話
幸せは、ある日突然終わるわけではない。
少しずつ、温度が下がっていくのだと思う。
昨日まで温かかったものが、今日はぬるくなる。ぬるかったものが、次の日には冷めている。それでもしばらくは気づかない。気づいてしまうと、もう元には戻れないからだ。
同棲して半年が過ぎた頃、私は彼の行動や仕草に嫌気がさしていた。
最初は、そういうところも好きだった。
のんびりしているところ。急がないところ。何を言っても「まあ大丈夫でしょ」と笑うところ。私が仕事で疲れて帰ってきても、彼はいつも同じ調子で、部屋の空気を柔らかくしてくれた。
でも、好きだったものは、いつの間にか嫌いなものに変わっていた。
のんびりしているところは、だらしなさに見えた。急がないところは、何も考えていないように見えた。「まあ大丈夫でしょ」という言葉は、私だけが大丈夫ではないことに気づいていない証拠のように聞こえた。
その日も、浴室には湿った空気が残っていた。
「お風呂、洗っといてって言ったけど、洗った?」
私が聞くと、彼はテレビの方を見たまま答えた。
「ああ、ごめん。まだ洗ってないや。また後で洗うよ」
また後で。
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が小さく固まった。
彼の言うことは、いつも後回しだった。皿洗いも、洗濯物も、ゴミ出しも、家賃の話も、将来の話も、全部が「あとで」だった。そしてその「あとで」は、ほとんどの場合、来なかった。
私はバッグを床に置いた。仕事帰りの肩は重く、足の裏はじんじんしていた。部屋にはゲームの音が流れていた。画面の中で、誰かが大きな剣を振っていた。彼の指だけが忙しく動いている。
「そういえば、この間の飲み会、どうだったの?」
返事はなかった。
聞こえていないのかと思って、もう一度言おうとした。けれど、彼の耳にはイヤホンが片方だけ刺さっていた。もう片方は外れている。だから、聞こえていないわけではない。
聞こえているのに、返事をしないだけだった。
「ねえ」
「ん?」
「私の話、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「じゃあ、今何て言った?」
「え、飲み会でしょ?」
「どうだったのって聞いたの」
「ああ、普通」
普通。
たった二文字で終わる会話だった。
私は冷蔵庫を開けた。中には昨日の残りの味噌汁と、半分だけ残った豆腐と、彼が買ってきた炭酸飲料が入っていた。私が作ったものと、彼が飲むものだけが並んでいるように見えた。
もしこれが小説なら、この時点で読者はもう気づいているのだろう。
この二人は別れる、と。
でも、当事者は気づかない。いや、本当は気づいているのに、気づいていないふりをする。物語の登場人物はたいてい愚かだ。けれど、現実の人間も同じくらい愚かだと思う。
「もう、なんなの」
自分の声が、思ったより低く出た。
「私よりゲームの方が大事なの?」
言ってから、少し後悔した。こんな言い方をしたいわけではなかった。私はただ、こっちを見てほしかっただけだった。話を聞いてほしかった。疲れていることに気づいてほしかった。私ばかりが生活を支えていることを、少しでいいからわかってほしかった。
でも、口から出た言葉は、子どもじみた嫉妬のようだった。
「今ちょうどいいとこだから、ちょっと待ってよ」
彼は画面から目を離さなかった。
その瞬間、何かが切れた。
「待ってとか、あとでとか、いつもそうじゃない」
彼の指が止まった。
「こっちだって言いたいことをずっと我慢してたんだよ」
「どうしたの、急に」
急に。
その言葉が、一番嫌だった。
急ではなかった。全然、急ではなかった。私はずっと言葉を飲み込んできた。洗面台に落ちた髪の毛を拾うたびに。流しに置きっぱなしのコップを洗うたびに。給料日前に通帳を見てため息をつくたびに。彼が「ありがとう」と言わずにご飯を食べるたびに。
そのすべてが積もって、今ここにあるのに。
「急じゃないよ」
私は言った。
「ずっとだよ。ずっと我慢してた」
彼はようやくゲームを止めた。画面の中のキャラクターが、不自然な場所で立ち止まっている。
「あなたはいつも私を見てくれない。見てるのはスマホかテレビかゲームだけ。家事だってまともにやってくれないし、生活費だってほとんど私が出してる」
「それは、今バイト増やそうと思ってて」
「思ってるだけじゃん」
彼の顔が少しこわばった。
「いつも思ってるだけ。やるって言うだけ。あとでって言うだけ。私ばっかり先に進もうとして、あなたはずっとそこにいる」
「落ち着いてよ」
「落ち着いていられないよ」
声が震えていた。
怒っているのか、泣きそうなのか、自分でもわからなかった。
「もう無理」
その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が変わった。
言葉は不思議だ。頭の中にあるうちは、まだ戻れる気がする。でも、一度外に出してしまうと、それはもう自分だけのものではなくなる。相手の耳に届き、部屋の中に残り、現実になってしまう。
「え」
彼は小さく言った。
「ちょっと待ってよ」
また待ってだった。
私は笑いそうになった。
「私は出ていく」
「いや、待って。話そう」
「今さら?」
「ちゃんと話すから」
「今まで何回も話そうとしたよ」
彼は何かを言おうとして、口を閉じた。
その表情だけは、付き合い始めた頃と同じだった。少し困ったように眉を下げて、何を言えばいいのかわからない顔。昔の私は、その顔を見ると許してしまった。仕方ないなと思って、笑ってしまった。
でも、その日はもう笑えなかった。
私は最低限の荷物を鞄に詰めた。充電器、財布、化粧ポーチ、仕事用の書類、読みかけの文庫本。何を持っていけばいいのかわからなくて、どうでもいいものばかり入れた。大事なものほど、手が伸びなかった。
「本当に行くの?」
玄関で彼が言った。
私は振り返らなかった。
「うん」
「どこに?」
「知り合いのところ」
「迎えに行くから」
「来ないで」
扉を開けると、夜の空気が入ってきた。
廊下の蛍光灯は白すぎて、現実感がなかった。私は靴を履き、外に出た。背中の向こうで、彼が何か言った気がした。けれど、聞こえないふりをした。
階段を降りながら、少しだけ泣いた。
怒っていたはずなのに、悲しかった。
悲しいはずなのに、少しだけ軽かった。
今思えば、私はあの夜、彼だけでなく、幸せだった頃の自分も置いてきたのだと思う。




