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未完成  作者: みき
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第2話

 友人の部屋は、それほど広くはなかった。


 玄関を入るとすぐに小さなキッチンがあり、その奥にベッドと低いテーブルが置かれていた。本棚には小説や美術の本がぎっしり詰まっていて、床にも何冊か積まれていた。壁には映画のポスターが貼ってあった。知らない外国映画のポスターだった。


 私が持ってきた荷物は、部屋の隅に置かれた。


「突然ほんとごめんね。ありがとう」


 私が言うと、友人は缶ビールを開けながら肩をすくめた。


「まあね。でも、そんな彼だったなら、早めに終わってよかったんじゃない?」


「そうかもしれない」


「そうだよ」


 友人ははっきり言った。


「そんなの、とっとと切るのが普通だよ」


 私は笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。


 普通。


 その言葉が、少しだけ胸に刺さった。


 普通なら、そうなのかもしれない。普通なら、あんな人とは早く別れるべきだったのかもしれない。普通なら、もっと怒って、もっと軽蔑して、もっとすっきりしているべきだったのかもしれない。


 でも、私は普通ではなかった。


 彼のだらしなさに腹を立てながら、彼の寝顔を思い出していた。彼の無責任さを責めながら、彼が作った下手な卵焼きの味を思い出していた。もう戻らないと決めながら、スマホが鳴ることを少しだけ期待していた。


 人間は、簡単に一つの感情だけではいられない。


「少し言いすぎたかもしれない」


 私が言うと、友人はすぐに首を振った。


「そんなことないって」


「でも」


「でもじゃない。今は休みな」


 その言葉に、私は黙った。


 休む。


 どうやって休めばいいのか、よくわからなかった。


 仕事を辞めたわけではない。けれど、有給を使ってしばらく休むことにした。朝起きても行く場所がないというのは、不思議な感覚だった。アラームが鳴らない朝は静かすぎて、かえって落ち着かなかった。


 友人は仕事へ行き、私は部屋に残った。


 昼間の部屋は、夜よりも少し散らかって見えた。本の背表紙に埃がついている。マグカップの底にコーヒーの跡が残っている。カーテンの隙間から細い光が入って、床の上に長方形を作っている。


 私はその光の中で、何時間もぼんやりしていた。


 もしこれが小説なら、主人公はここで再生への一歩を踏み出すのだろう。


 新しい趣味を見つける。新しい人と出会う。過去を乗り越える。そうやって物語は、傷ついた人間にも意味を与えようとする。


 でも現実には、意味なんてすぐには見つからない。


 意味のない時間だけが、長く続いた。


 数日後、友人が美術館に誘ってくれた。


「最近、芸術にハマっててさ。音楽とか小説とか絵画とか。あなたも一回、見に行った方がいいよ」


「私、そういうの全然詳しくないよ」


「詳しくなくていいんだよ。見て、なんか思えばそれでいい」


 その言い方が少し乱暴で、でも救いだった。


 美術館は静かだった。


 白い壁。磨かれた床。低い声で話す人たち。誰も急いでいなかった。展示室に入ると、絵がいくつも並んでいた。風景画、人物画、抽象画。正直、何がすごいのかはよくわからなかった。


 でも、一枚の絵の前で足が止まった。


 そこには、誰もいない部屋が描かれていた。窓があり、椅子があり、テーブルの上に白い花瓶が置かれている。ただそれだけの絵だった。


 なのに、私はその前から動けなかった。


 誰もいない部屋なのに、誰かがいた気配がした。今さっきまで誰かが座っていて、ほんの少し前に出ていったような感じがした。戻ってくるのかもしれないし、もう戻ってこないのかもしれない。


 その曖昧さが、なぜか胸に残った。


「気に入った?」


 友人が聞いた。


「わからない」


「わからないけど見てるんだ」


「うん」


「それでいいんじゃない」


 その日から、私は少しずつ芸術に近づいていった。


 コンサートにも行った。ホールの椅子に座って、楽器の音が空間に広がっていくのを聞いた。音楽は不思議だった。言葉がないのに、何かを言われている気がした。誰かが私の中の、言葉にならない部分に触れているようだった。


 映画も見た。


 小説も読んだ。


 友人の本棚から、何冊も借りた。最初はただ時間を潰すためだった。けれど、ページをめくるうちに、私は少しずつ本の中へ逃げるようになった。


 他人の感情を読むのは、自分の感情を感じるよりずっと楽だった。


 そこには形があった。始まりがあり、終わりがあり、誰かの孤独にも名前がついていた。怒りも、悲しみも、退屈も、きちんと文章になっていた。


 私が一番長く手元に置いていたのは、『ライ麦畑でつかまえて』だった。


 ホールデン・コールフィールド。


 彼はずっと怒っていた。世界の偽物っぽさに苛立っていて、大人たちの言葉にうんざりしていて、でも本当は誰かにわかってほしそうだった。


 私は彼に似ていると思った。


 いや、正確には、似ていると思いたかった。


 ホールデンの孤独は、どこか美しかった。ページの中で彼は迷い、傷つき、誰かを拒みながら、ちゃんと一人の人物として存在していた。私はそれがうらやましかった。


 私の孤独は、もっと散らかっていた。


 美しくも、鋭くも、特別でもなかった。ただ生活に疲れ、恋人とうまくいかず、仕事に戻る気力もなく、友人の部屋で布団を借りているだけの人間だった。


 それでも、本を読んでいる間だけは、少し呼吸がしやすかった。


「私さ」


 ある夜、私は友人に言った。


「小説とか、脚本とか、何か書ける気がする」


 友人はベッドに寝転がったまま、こちらを見た。


「そんな簡単なものじゃないぞ」


「わかってるよ」


「本当に?」


「たぶん」


「まあ、趣味ならいいんじゃない。今は時間もあるし」


「うん。趣味がてら、やってみる」


「完成したら、一番最初に読ませてよ」


「もちろん」


 その時の私は、本当に書ける気がしていた。


 美術館で見た誰もいない部屋。コンサートホールに響いた低音。映画の中の雨。ホールデンの言葉。彼と食べたカレー。夜の駅。白線。全部が、私の中で物語になりたがっているように思えた。

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