第1話
この作品に興味を持っていただき、ありがとうございます。
最初は何が起こる物語なのか分かりにくいかもしれません。読み進めるうちに少しずつ全体がつながっていきますので、ぜひ最後までお付き合いください。
夜の駅には、昼間とは別の呼吸がある。
人の数は少ないのに、音だけはやけにはっきりしていた。遠くの踏切の警報音。自動販売機の低い機械音。ホームの端で誰かが咳をする音。線路の向こう側を通り過ぎる車のライト。どれも、普段なら気にも留めないものばかりだった。
けれど、その夜は違った。
世界のすべてが、私のために音を立てているような気がした。
ホームに立っていると、夜の波が押し寄せてくる。海でもないのに、黒い水が足元まで満ちてくるようだった。息を吸うたびに、胸の中に冷たいものが入り込んだ。吐き出そうとしても、それは喉の奥に引っかかったまま、出ていかなかった。
白線の内側にお下がりください。
アナウンスが流れた。
私は白線を見た。
ただの線だった。少し汚れていて、ところどころ剥げかけていて、誰かの靴跡が薄く残っている。ただ、それだけの線だった。
それなのに、その線の向こう側とこちら側では、世界がまったく違うように思えた。
向こう側には終わりがあった。こちら側には、明日があった。
明日。
その言葉を思い浮かべた瞬間、私は少し笑いそうになった。明日なんて、もう何度も裏切ってきたものだった。明日になれば楽になる。明日になれば忘れられる。明日になれば眠れる。明日になれば、少しはましになる。そう思って、何度も夜を越えてきた。
でも、どの明日も、昨日と同じ顔をしていた。
自分の人生なのに、自分が最初の作者ではないような気がした。
もしこれが小説なら、主人公はここで泣くのだと思う。
けれど、私は泣かなかった。
涙は、便利すぎる。泣いてしまえば、悲しい人間になれる。悲しい人間になれれば、誰かに説明できる。けれど、その夜の私は、悲しいというより、何もなかった。
ただ、空っぽだった。
遠くから電車の光が見えた。
最初は小さな点だった。夜の奥に浮かぶ、頼りない光。それが少しずつ大きくなっていく。線路が低く震え、ホームの空気がわずかに動いた。
私は一歩、前に出た。
靴の先が白線に触れた。白線は冷たくも熱くもなかった。ただ、そこにあった。
電車が近づいてくる。
風が先に来た。
髪が頬に貼りついて、コートの裾が揺れた。心臓が一度、大きく鳴った。自分の体が、まだ生きていることを思い出した。
その瞬間、怖くなった。
どうしようもなく、怖くなった。
私は後ろに下がった。
足がもつれて、ベンチの端に腰をぶつけた。電車は何事もなかったようにホームへ入ってきて、扉を開けた。中から数人が降りてきた。誰も私を見ていなかった。誰も、私が今どこから戻ってきたのかを知らなかった。
当然だった。
世界は、私のために止まったりしない。
私はそのままベンチに座った。指先が震えていた。寒さのせいではなかった。恐怖のせいでも、たぶん違った。
生き残ってしまったことが、恥ずかしかった。
死にたかったはずなのに、死ねなかった。終わらせたかったはずなのに、体は勝手に後ろへ下がった。私は自分自身にさえ、最後まで従わせることができなかった。
電車の扉が閉まった。
発車メロディが流れる。
その短い旋律を聞きながら、私は鞄を抱えた。
物語の主人公なら、ここから何かが変わるのだろう。
誰かに出会うとか、朝日を見るとか、知らない老人に話しかけられるとか、そういう都合のいい救いが用意されているのだろう。
でも、何も起きなかった。
ただ、電車が行ってしまった。
ホームには、また夜だけが残った。




