玉座の女
女帝の謁見室は、思っていたより狭かった。
皇城の最奥と聞けば、金と宝石で飾られた広間を想像する。だが実際に刃夜が通された部屋は、磨かれた黒石と重い書棚と、火を落とした暖炉だけでできていた。天井は高いが、飾りは少ない。長机の上には封を切られた報告書の束と、赤い蝋をまだ柔らかく残した密書筒が並んでいる。
豪奢さより、仕事場の匂いが強い。
部屋の奥、段差の上に置かれた椅子へ、一人の女が腰かけていた。
銀の髪を背へ流し、黒銀のローブドレスを着ている。白磁みたいな肌に、氷の芯を思わせる青い瞳。華奢ではない。胸元も腰も、布の上からはっきり分かるほど成熟した体つきをしているのに、その肉感が色気より威圧へ変わっている。
ヴァレシア・ノルディア。
ヴァルハラ帝国女帝。
刃夜は膝をつかなかった。
近衛が息を呑む気配がしたが、ヴァレシアは手で制した。
「よい。そこに立て」
声は静かだった。大きくない。なのに、逆らえばその場で首が飛ぶと分かる。
刃夜は一歩進み、止まる。
ヴァレシアは机上の報告書から目を上げた。
「九條刃夜。断罪広場において、お前は処刑勅命を破り、捕虜の竜人皇女を解放し、近衛と神殿兵を傷つけた」
「そうだ」
近衛の一人が顔を上げる。無礼と感じたのだろう。
だがヴァレシアは怒らない。
「三罪で足りぬな。儀礼破壊、軍律違反、女帝命への反抗。どれを取っても首を落とせる」
「なら落とせばいい」
「死に急ぐ顔には見えぬ」
ヴァレシアは椅子に深く座り直した。
「聞こう。なぜあの場で竜姫を斬らなかった」
刃夜は迷わなかった。
迷う理由がなかったからだ。
「殺せば、帝国のほうが先に崩れる匂いがした」
謁見室の空気が止まる。
近衛たちの手が一斉に剣へかかった。女帝へ向けるには危険すぎる物言いだ。曖昧で、証拠もなく、しかも女帝の国家へ崩壊を告げている。
ヴァレシアは目だけを細めた。
「匂い」
「説明しろと言われても困る。ただ分かった。あの女をあそこで斬るのは、処刑ではなく、何かの餌をくれてやる行為だった」
「何の餌だ」
「まだ知らない」
刃夜はそこで言葉を切った。嘘ではない。
だが知らないことばかりのはずなのに、足元のずっと下で脈打つ熱だけは確信に近かった。あれが処刑台の黒曜拘束杭と同じ系統のものだと、自分の掌が告げている。
ヴァレシアは机上の書類へ視線を落とした。
「広場での報告と、移送路での襲撃報告を読んだ。近衛副長ゼルハ・ヴェインの記述は簡潔だ。お前は拘束されたまま狙撃を読み、彼女を庇い、狙撃手を一人落としたとある」
「事実だ」
「自分を誇らぬのだな」
「誇るほど落ち着いてない」
ヴァレシアの口元が、ほんの僅かに動いた。
笑ったのかと思ったが、違った。疲れだ。長い時間、表情を作り続けた女が、一瞬だけ筋肉の力を抜いた顔に近い。
刃夜は初めて、その青い瞳の奥に眠っていない夜の痕を見た。白粉で隠しきれない微かな翳り。指先の冷え。背筋は伸びているのに、肩だけが硬い。
この女はただ座っているだけで削れている。
「手を見せろ」
刃夜は右手を差し出した。
掌の契約印はまだ薄く赤い。ヴァレシアは椅子を立ち、段差を下りてくる。近衛が制止しようとしたが、彼女は目だけで黙らせた。
間近に来ると、香ではなく冷たい金属と紙の匂いがした。
ヴァレシアは刃夜の手を取らない。ただ、自分の白い指先を印のすぐ上へかざす。
その瞬間だった。
刃夜の掌が熱を帯び、同時にヴァレシアの指先にもかすかな震えが走る。
分かる。
この女も、下にいる何かと繋がっている。
刃夜は反射で彼女の手首を掴みかけ、寸前で止めた。止めきれず、指先だけが触れる。
ヴァレシアの青い瞳が揺れた。
ほんの一息ぶん、玉座の女ではなく、一人の女の反応だった。
「……今、何を感じた」
問いは鋭いのに、声が少し低い。
刃夜は手を離した。
「陛下の下にあるものが、俺の印に反応した」
「曖昧だ」
「まだ言葉が足りない」
「なら学べ」
ヴァレシアはそう言って背を向けた。裾が黒い水面みたいに床を流れる。
椅子へ戻った彼女は、今度は報告書を閉じた。
「お前を今ここで処刑するのは簡単だ。だが簡単な答えは、帝国を長く誤らせる」
刃夜は黙って聞く。
「明朝まで生きていたら、お前に仕事を与える」
「生きていたら?」
「皇城の中には、私の命令だけで動かぬ者が多い。今日のお前はそれを知った」
ヴァレシアの青い瞳が、真っ直ぐ刃夜を射抜く。
「お前を処刑したい者もいれば、奪いたい者もいる。竜姫ごと消したい者もいよう。夜明けまでにそれを抜けたなら、お前は使える」
「使えるなら」
「私が使う」
言葉は冷たい。だが、広場でラズェリアへ向けた自分の台詞と、形がよく似ていた。
刃夜はわずかに口端を上げる。
「それは光栄だ」
「嘘をつけ」
「嘘だ」
近衛が眉をひそめた。だがヴァレシアは、今度こそ確かに笑った。ほんの一瞬だけ、氷の表面にひびが入るみたいな笑いだった。
「下がれ、九條刃夜。収容室へ戻せ」
刃夜が一礼もせず背を向けると、背中へ女帝の声が落ちた。
「ひとつだけ覚えておけ」
足を止める。
「私の前でだけは、見えぬふりをするな」
その意味を訊く前に、近衛が扉を開いた。
廊下へ出た瞬間、刃夜の掌がまた脈打つ。
今度ははっきり聞こえた。床の下、皇城のさらに深いところから、巨大な鼓動が返ってくる。どくり、どくりと、眠りながら飢えている生き物のような音だ。
契約印が、その鼓動へ応じる。
刃夜は歩きながら、焼ける掌を握りしめた。
夜明けまでに生き残れ。
そう言われた意味は、もう十分に分かっている。




