女帝の影
皇城へ続く道は、白く静かだった。
さっきまで血と怒号に満ちていた断罪広場から、ほんの数百歩離れただけで、街路は別世界になる。石畳の両脇には温熱魔石を埋めこんだ街灯が立ち、青白い光が雪の面を淡く照らしていた。住民は外へ出てこない。窓の裏に人の気配だけがある。
刃夜は両手を背へ回されたまま歩かされている。
再拘束された銀鎖は重いが、広場で使われていた処刑用ほどではない。隣を歩くラズェリアにも同じ鎖がつけられていた。だが、彼女はそれを拘束と認めていないような顔をしている。
前後を近衛が固め、先頭にゼルハ。隊列は乱れない。
「ずいぶん丁重だな」
刃夜が言うと、ゼルハは振り返らずに答えた。
「丁重に見えるなら目が曇っている。弓も投槍も、屋根の上まで配置済みだ」
「俺たちを守ってるつもりか」
「消されないようにな」
その一言が、刃夜の背筋へ冷たいものを通した。
処刑場で暴れた反逆者を女帝が呼ぶ。それだけでも異例だ。だが、女帝へ届く前に誰かが二人を消したがるなら話は別になる。
刃夜は視線を上げた。
街路の両脇は石造りの三階建てが多い。屋根の雪は薄く、足跡がついている場所もある。見張りではなく、潜伏向きだ。
ラズェリアが鼻を鳴らした。
「臭う」
「何が」
「油。乾いた弓弦。あと、臆病者の汗」
刃夜は頷かなかった。だが同じ瞬間、視界の奥に細い線が走った。
一本。
二本。
三本。
死角になっている三階屋根の縁から、矢の軌道だけが先に浮かぶ。喉。眼。胸。まるで世界の上に薄い朱線で描かれたみたいに、来る場所がはっきり見えた。
「伏せろ!」
刃夜は反射でゼルハの背を掴み、石畳へ引き倒した。
ほぼ同時に、矢が飛ぶ。
一本目は刃夜の肩を掠め、二本目はさっきまでゼルハの喉があった高さを抜けた。三本目はラズェリアの顔を狙っていたが、彼女は頭を沈めるより早く、鎖ごと身を捻ってかわす。
「上だ!」
近衛たちが一斉に盾を上げる。
刃夜は倒れたまま、ゼルハの腰の短剣を抜いた。彼女が止めるより先に手首を返し、屋根の縁へ投げる。
短剣は一人目の手首を貫いた。
悲鳴。続けて瓦が崩れ、黒装束の男が転落する。ラズェリアが鎖を引きちぎる勢いで一歩出て、その腹を膝で蹴り上げた。男は雪壁へ叩きつけられ、息を吐き切った。
「二人目、左」
刃夜が言うと、ゼルハは起き上がりざまに剣を抜いた。刃が閃き、二階窓の格子を真横に裂く。隠れていた狙撃手が肘から先を失って転がり出た。
三人目は逃げた。
だがラズェリアの尾が石畳を叩く。跳ねた雪と石片が屋根へ散り、男の足を払った。落ちてきたところへ近衛が槍を突きつける。
一息で終わった。
近衛たちの顔に出たのは安堵ではなく、戦慄だった。
拘束されていたはずの二人が、自分たちより先に矢筋を読んだ。しかも、副長を庇ったのは刃夜だ。
ゼルハが立ち上がる。頬についた雪を払う手に迷いはないが、視線だけは鋭くなっていた。
「私を庇った理由を訊いてもいいか」
「お前が死ぬと話が面倒になる」
「可愛げのない答えだ」
「そっちもな」
ラズェリアが肩を揺らした。笑っている。
ゼルハは転落した一人目の口をこじ開けた。歯の裏に薄い金属板が貼られている。彼女が短剣の切っ先で剥がすと、小さな紋が現れた。
王冠の下で蛇が絡む印。
刃夜は知らないはずなのに、その不快さだけは理解できた。宮廷で公には掲げない、だが見た者は皆意味を知っている類の印だ。
「私紋章か」
「ええ」
ゼルハは短く答え、金属板を握り潰した。
「広場の混乱で終わらせるつもりだった。失敗したから移送中に消す。筋は通っている」
「誰の筋だ」
「口に出して確かめるほど甘くはない」
その言い方で十分だった。
女帝の命令だけでは動かない権力が、皇城の内側にある。
隊列は速度を上げた。道の両側の窓から気配が引いていく。雪を踏む音と鎧の擦れる音だけが続く。
やがて皇城の外壁が見えた。
黒銀の石で組まれた高い壁。四隅の塔。正門の上に掲げられた帝国旗は、風がないせいで重く垂れている。門の内側へ入ると、外の街路よりさらに寒い気がした。冷えの質が違う。人の住む場所の冷たさではなく、大きな器に溜まった死気のようなものだ。
刃夜の掌が脈打つ。
赤金の紋が、肌の下で生き物みたいに光った。
ラズェリアが顔を寄せてくる。
「聞こえるか」
「何が」
「下だ。深いところで、古い火が鳴いている」
刃夜にも分かった。
足元の石を通して、どくん、どくん、と遅い鼓動が上がってくる。人の心臓ではない。炉のように大きく、だが確かに生きている何かの脈動だ。
その熱へ、刃夜の契約印が応えている。
「案内してやる」
ゼルハは短く告げ、二人を地下回廊へ連れていった。薄い青灯が並ぶ石の廊下は乾いているのに、どこか湿った匂いがする。古い血か、封じこめられた魔力か。
一時収容室の鉄格子が開く。
刃夜とラズェリアは中へ押しこまれた。広さは十分だが、壁も床も継ぎ目が少ない。脱出前提ではなく、暴れる者を閉じるための部屋だ。
扉が閉まる直前、ゼルハが言った。
「死ぬな。陛下がお前を見たい」
「俺だけか」
「まずはお前だ」
扉が閉じる。錠が落ちる。
静寂の中で、ラズェリアが雪混じりの髪をかき上げた。彼女はしばらく黙って刃夜を見ていたが、不意に近づいてくる。
刃夜が身構えると、ラズェリアは鼻先が触れそうな距離で止まり、すう、と空気を吸った。
「お前の匂いは妙だ」
「褒めてるのか」
「人間の匂いだ。だが、それだけではない」
ラズェリアの瞳が、灯りの下で細く光る。
「竜の火と、人間の死臭が、同じ体に入っている」
刃夜は返す言葉を持たなかった。
前世の記憶。広場で湧いた本能。掌の紋。地下から届く鼓動。
全部がばらばらのまま繋がっている。
その時、廊下の奥で靴音が止まった。
扉の向こうから女の声がする。低く、よく通る声だった。
「九條刃夜だけを連れて来い」
刃夜はラズェリアを見た。
ラズェリアは不機嫌そうに目を細め、それでも鎖を鳴らして壁際へ下がる。
「行け、刃夜」
呼び捨てだった。
けれどその響きは、命令でも侮蔑でもなく、どこか当然のものみたいに耳へ落ちた。




