契約
断罪広場は、もう儀礼の場ではなかった。
逃げ惑う民衆の足跡が雪を泥に変え、倒れた兵の血がその上へ黒く広がっている。広場を囲む近衛たちは盾を前へ出し、槍を半歩ずつ寄せて包囲を狭めていた。塔の弓兵はすでに弦を引き絞り、神殿兵は司祭を守るように半円を作っている。
刃夜は処刑剣を下げたまま、重心だけを落とした。
右腕が熱い。
肘から先へ、見えない炎が通っている。骨の中を液体の鉄が流れているようだった。指先は痺れているのに、剣の重みは最初より軽く感じる。
隣ではラズェリアが肩を上下させていた。砕けた拘束杭の破片が背に刺さったままで、その傷口から薄い蒸気が立っている。首枷は残り、両手首にも銀色の拘束輪がはまったままだ。それでも彼女の気配は、さっきより危うい。
獣が檻を壊した直後のような殺気だった。
ゼルハが足を止める。
「九條刃夜。貴様は執行を妨害し、女帝勅命下の儀礼を破壊した」
「それで」
「普通ならここで首を落とす」
ゼルハの灰色の瞳が一度だけラズェリアへ流れる。続いて刃夜の掌の紋へ。
「だが、命令が変わった。生きて連れて来い、だ」
刃夜は眉を動かした。
「誰の命令だ」
「その問いを許される立場か」
言葉は冷たい。だが、切っ先のぶれがない。感情で喋る女ではないと分かる。
後方の司祭が喚いた。
「何を躊躇う! その竜族はまだ生きているぞ! 契約痕まで出た、いますぐ浄火を」
ラズェリアの喉が低く鳴った。
刃夜の脳裏へ、牙を剥いて司祭の喉を噛みちぎる映像が流れこむ。自分の想像ではない。ラズェリアの衝動だ。
まずい。
刃夜は隣を見ずに言った。
「待て」
ぴたりと、ラズェリアの殺気が止まった。
刃夜自身が一番驚いた。
ラズェリアもまた目を見開き、それから唇の端だけを歪める。
「命じるのか、人間」
「死ぬのが趣味なら好きに暴れろ。だが、ここで終わる気がないなら従え」
わざと突き放して言うと、ラズェリアは肩を震わせた。怒りかと思ったが、よく見ると笑っている。
「面白い」
その一言の直後、弓が鳴った。
塔から放たれた四本の矢が、刃夜とラズェリアへ一直線に落ちてくる。
刃夜は見えた。
矢筋の先が、光の糸みたいに空中へ浮かぶ。左肩。喉。太腿。心臓。どこへ来るか、考える前に分かる。
体が勝手に動いた。
刃夜は前へ出る。処刑剣で一本を弾き、身を捻って二本目を避け、三本目は肩で受け流した。四本目がラズェリアの眼を狙う。
「伏せろ!」
叫ぶと同時に、ラズェリアが頭を沈める。矢は金髪を掠めて飛び、後ろの柱へ突き立った。
驚いたのは兵たちの方だった。
刃夜はその隙を逃さない。剣を捨て、広場の床へ片膝をついたラズェリアの顎を掴む。彼女は牙を見せたが、刃夜は怯まず、その喉元に刻まれた黒い処刑紋へ自分の手を押し当てた。
熱い。
焼印どころではない。煮えた鉄鍋へ手を突っこんだような痛みが、肘まで一気に駆けあがった。
「貴様、何を」
「黙って受けろ」
血が流れていた。さっき矢を弾いた時に裂けた掌から、じわりと赤が溢れている。その血が処刑紋の溝へ吸われていく。
刃夜は知らない言葉を、しかし自分の意志で口にした。
「我が火を分ける。お前の牙を貸せ」
世界の温度が消えた。
次の瞬間、広場中の音が戻るより早く、刃夜の右腕が変わっていた。肘の先に黒い鱗が浮き、指先だけが鉤爪の形へ捻じれている。筋肉が膨れ、袖が裂けた。
群衆が悲鳴を上げる。
ラズェリアの喉からも、苦痛とも歓喜ともつかない声が漏れた。
「……っ、は……!」
彼女の瞳孔が細く縦に割れる。拘束輪が軋み、両腕の筋に金の鱗が走った。
刃夜は立ち上がった。
体の中に、もう一つの鼓動がある。ラズェリアのものだ。自分の鼓動と重なり、荒々しく脈打っている。
ゼルハが初めて眉を寄せた。
「囲みを狭めるな! 一点で止めろ!」
冷静な指示だ。周囲の兵も訓練されている。槍衾を乱さないまま、逃げ道だけを潰しにくる。
刃夜は短く息を吐いた。
「ラズェリア」
「なんだ」
「右を壊せ」
「それだけか」
「十分だ」
ラズェリアは嗤った。
その笑みには、さっきまでの人を試す色がもう混ざっていない。命令を待つ獣の光だけがあった。
刃夜が一歩踏み出す。竜化した右脚が雪を弾いた。槍の穂先が三本、同時に喉と胸と腹を狙う。
遅い。
刃夜は一本目を手甲化した右腕で受け、二本目を掴み、三本目の内側へ滑りこんだ。奪った槍を捻って二人まとめて倒し、空いた隙間へラズェリアが飛びこむ。
尾撃が盾ごと兵を薙ぎ払った。
金色の熱が雪煙の中を走る。兵の列が乱れ、右側の包囲が崩れる。
だが、ゼルハ自身がそこへ踏み出してきた。彼女の剣は細く速い。ラズェリアの尾先を切り返しで払うと、そのまま刃夜の喉を狙ってくる。
刃夜は身を引いた。
浅い。だが甘くない。
「その力、広場だけで済むと思うな」
「思ってない」
「なら尚更、生きて来い」
ゼルハは言うと、刃夜の左後ろを斬った。そこにいた神殿兵が倒れる。刃夜を狙っていた短槍が、雪へ転がった。
近衛の中でも彼女だけが、殺し合いの線を見ている。
刃夜がその意図を読み取った瞬間、司祭がまた叫んだ。
「副長! 命令違反だぞ! その異端ごと」
ゼルハの一喝が遮る。
「口を閉じろ。今ここで死なせて得をするのは、陛下ではない」
その言葉に、広場の空気が変わった。
女帝。
この場を見ていないはずの支配者の名だけで、兵も司祭も一瞬だけ動きを鈍らせる。
刃夜は逃がさなかった。
「走るぞ」
「命令か」
「そうだ」
「なら従う」
ラズェリアが低く笑い、刃夜の真横へ並ぶ。
二人は崩れた包囲の一角へ突っこんだ。雪煙と血煙が上がる。刃夜の視界には兵の足運び、槍の間合い、塔の弓の死角がすべて見えていた。
広場の外縁、石段の手前まで達したところで、再びゼルハが立ちはだかる。
今度は剣を下げている。
「逃がしたと思うな。皇城までの道を開けるだけだ」
「罠か」
「陛下が直に見る。お前も、この竜も」
刃夜は息を整えた。
ラズェリアの指先が、背後から刃夜の外套の裾をつまむ。
「行くぞ、人間」
「刃夜だ」
「では刃夜。私を生かした責任を取れ」
その言葉が奇妙に耳に残ったまま、刃夜は断罪広場の石段を駆け下りた。




