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竜姫の契約者 〜帝国を喰らう最強〜  作者: セルヴォア


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2/6

契約

断罪広場は、もう儀礼の場ではなかった。


逃げ惑う民衆の足跡が雪を泥に変え、倒れた兵の血がその上へ黒く広がっている。広場を囲む近衛たちは盾を前へ出し、槍を半歩ずつ寄せて包囲を狭めていた。塔の弓兵はすでに弦を引き絞り、神殿兵は司祭を守るように半円を作っている。


刃夜は処刑剣を下げたまま、重心だけを落とした。


右腕が熱い。


肘から先へ、見えない炎が通っている。骨の中を液体の鉄が流れているようだった。指先は痺れているのに、剣の重みは最初より軽く感じる。


隣ではラズェリアが肩を上下させていた。砕けた拘束杭の破片が背に刺さったままで、その傷口から薄い蒸気が立っている。首枷は残り、両手首にも銀色の拘束輪がはまったままだ。それでも彼女の気配は、さっきより危うい。


獣が檻を壊した直後のような殺気だった。


ゼルハが足を止める。


「九條刃夜。貴様は執行を妨害し、女帝勅命下の儀礼を破壊した」


「それで」


「普通ならここで首を落とす」


ゼルハの灰色の瞳が一度だけラズェリアへ流れる。続いて刃夜の掌の紋へ。


「だが、命令が変わった。生きて連れて来い、だ」


刃夜は眉を動かした。


「誰の命令だ」


「その問いを許される立場か」


言葉は冷たい。だが、切っ先のぶれがない。感情で喋る女ではないと分かる。


後方の司祭が喚いた。


「何を躊躇う! その竜族はまだ生きているぞ! 契約痕まで出た、いますぐ浄火を」


ラズェリアの喉が低く鳴った。


刃夜の脳裏へ、牙を剥いて司祭の喉を噛みちぎる映像が流れこむ。自分の想像ではない。ラズェリアの衝動だ。


まずい。


刃夜は隣を見ずに言った。


「待て」


ぴたりと、ラズェリアの殺気が止まった。


刃夜自身が一番驚いた。


ラズェリアもまた目を見開き、それから唇の端だけを歪める。


「命じるのか、人間」


「死ぬのが趣味なら好きに暴れろ。だが、ここで終わる気がないなら従え」


わざと突き放して言うと、ラズェリアは肩を震わせた。怒りかと思ったが、よく見ると笑っている。


「面白い」


その一言の直後、弓が鳴った。


塔から放たれた四本の矢が、刃夜とラズェリアへ一直線に落ちてくる。


刃夜は見えた。


矢筋の先が、光の糸みたいに空中へ浮かぶ。左肩。喉。太腿。心臓。どこへ来るか、考える前に分かる。


体が勝手に動いた。


刃夜は前へ出る。処刑剣で一本を弾き、身を捻って二本目を避け、三本目は肩で受け流した。四本目がラズェリアの眼を狙う。


「伏せろ!」


叫ぶと同時に、ラズェリアが頭を沈める。矢は金髪を掠めて飛び、後ろの柱へ突き立った。


驚いたのは兵たちの方だった。


刃夜はその隙を逃さない。剣を捨て、広場の床へ片膝をついたラズェリアの顎を掴む。彼女は牙を見せたが、刃夜は怯まず、その喉元に刻まれた黒い処刑紋へ自分の手を押し当てた。


熱い。


焼印どころではない。煮えた鉄鍋へ手を突っこんだような痛みが、肘まで一気に駆けあがった。


「貴様、何を」


「黙って受けろ」


血が流れていた。さっき矢を弾いた時に裂けた掌から、じわりと赤が溢れている。その血が処刑紋の溝へ吸われていく。


刃夜は知らない言葉を、しかし自分の意志で口にした。


「我が火を分ける。お前の牙を貸せ」


世界の温度が消えた。


次の瞬間、広場中の音が戻るより早く、刃夜の右腕が変わっていた。肘の先に黒い鱗が浮き、指先だけが鉤爪の形へ捻じれている。筋肉が膨れ、袖が裂けた。


群衆が悲鳴を上げる。


ラズェリアの喉からも、苦痛とも歓喜ともつかない声が漏れた。


「……っ、は……!」


彼女の瞳孔が細く縦に割れる。拘束輪が軋み、両腕の筋に金の鱗が走った。


刃夜は立ち上がった。


体の中に、もう一つの鼓動がある。ラズェリアのものだ。自分の鼓動と重なり、荒々しく脈打っている。


ゼルハが初めて眉を寄せた。


「囲みを狭めるな! 一点で止めろ!」


冷静な指示だ。周囲の兵も訓練されている。槍衾を乱さないまま、逃げ道だけを潰しにくる。


刃夜は短く息を吐いた。


「ラズェリア」


「なんだ」


「右を壊せ」


「それだけか」


「十分だ」


ラズェリアは嗤った。


その笑みには、さっきまでの人を試す色がもう混ざっていない。命令を待つ獣の光だけがあった。


刃夜が一歩踏み出す。竜化した右脚が雪を弾いた。槍の穂先が三本、同時に喉と胸と腹を狙う。


遅い。


刃夜は一本目を手甲化した右腕で受け、二本目を掴み、三本目の内側へ滑りこんだ。奪った槍を捻って二人まとめて倒し、空いた隙間へラズェリアが飛びこむ。


尾撃が盾ごと兵を薙ぎ払った。


金色の熱が雪煙の中を走る。兵の列が乱れ、右側の包囲が崩れる。


だが、ゼルハ自身がそこへ踏み出してきた。彼女の剣は細く速い。ラズェリアの尾先を切り返しで払うと、そのまま刃夜の喉を狙ってくる。


刃夜は身を引いた。


浅い。だが甘くない。


「その力、広場だけで済むと思うな」


「思ってない」


「なら尚更、生きて来い」


ゼルハは言うと、刃夜の左後ろを斬った。そこにいた神殿兵が倒れる。刃夜を狙っていた短槍が、雪へ転がった。


近衛の中でも彼女だけが、殺し合いの線を見ている。


刃夜がその意図を読み取った瞬間、司祭がまた叫んだ。


「副長! 命令違反だぞ! その異端ごと」


ゼルハの一喝が遮る。


「口を閉じろ。今ここで死なせて得をするのは、陛下ではない」


その言葉に、広場の空気が変わった。


女帝。


この場を見ていないはずの支配者の名だけで、兵も司祭も一瞬だけ動きを鈍らせる。


刃夜は逃がさなかった。


「走るぞ」


「命令か」


「そうだ」


「なら従う」


ラズェリアが低く笑い、刃夜の真横へ並ぶ。


二人は崩れた包囲の一角へ突っこんだ。雪煙と血煙が上がる。刃夜の視界には兵の足運び、槍の間合い、塔の弓の死角がすべて見えていた。


広場の外縁、石段の手前まで達したところで、再びゼルハが立ちはだかる。


今度は剣を下げている。


「逃がしたと思うな。皇城までの道を開けるだけだ」


「罠か」


「陛下が直に見る。お前も、この竜も」


刃夜は息を整えた。


ラズェリアの指先が、背後から刃夜の外套の裾をつまむ。


「行くぞ、人間」


「刃夜だ」


「では刃夜。私を生かした責任を取れ」


その言葉が奇妙に耳に残ったまま、刃夜は断罪広場の石段を駆け下りた。

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