「流血」
「弓を降ろせ!」
武辛の命令を発する大きな声が、まるで割れ鐘のように辺りに鳴り響く。
きりきりと張り詰めた様子の弓兵達が、皆一様にふっと息を吐きながら、つがえた矢を外し、ゆっくりと弓を下ろすのだった。
その様子を目にした玄嶺を初めとする、五氏族の族長の肩が微かに下がる。
完全に死の危険から解放されたわけでは無いが、即座に命を失うことは無くなったと理解するのだった。
全ての弓兵達が弓を下ろし、静かに佇む姿を目にした武辛、戦車の上に乗っている紂王に向かって軽く黙礼すると、自らは戦車を降りる。
そして愛用の長大な戈を片手に、ゆったりとした足取りで、族長達の元へと向かうのだった。
武辛の一際大きな身体が近衛の槍兵達の間を抜け、楯兵はまるで波が分かれるかのように彼を通す。
主力となる戈兵や槍兵達は大夫らの指図で、まるで龍がうねるが如くさっと道を開いていく。その間、弓兵達は移動を開始し、族長達を取り囲んで保護するかのように、幾重にも丸く陣を作るのだった。
そしてその合間からは、厳しい表情をした斥候達が、抜け目なく辺りを見張っている。
やがて悠然と族長達の元に辿り着いた武辛は、どんとその場に戈を突き立てる。
すると全軍がそれに呼応するかのように、居住まいを正し、静寂が場を支配していく。
辺りを睥睨し、それを目にした武辛はうむとばかりに頷くと、無言のまま有蘇の者達を見つめるのだった。
一方、玄嶺達はその戈の立てた音に驚くかのように、慌てて跪き、深々と叩頭するのだった。
それを見た武辛、ゆっくりと口を開くのだが、そこから生まれた言葉は意外にも厳かで、まるで何かを宣するようだった。
「其方らは、何故乱を起こした?」
静かではあるが、実に厳格に問う、氷のように冷たく固い声だった。
だが族長達は皆平伏したままで、誰も顔を上げようとしないのだった。
これには困り果てた武辛、そっとしゃがみ込むと小さな声で言うのだった。
「済まんが答えて貰わんと話が進まんのだ。代表は誰なのだ?」
すると皆の視線が一斉に玄嶺の元に向く。
ことここに至り、腹をくくった玄嶺はゆっくりと立ち上がる。
するとそれを見習った他の族長達も、徐に立ち上がりつつ頭を垂れるのだった。
「其方は?」
武辛がまず立ち上がった玄嶺に問うと、玄嶺は今一度頭を下げて見せながら答えるのだった。
「私は玄嶺と申します。これら有蘇の族長の筆頭を務めさせて貰っております」
「そうか玄嶺か、某、武辛という、征師の位を賜って居る者だ。それで何故乱を起こしたのだ?」
問われた玄嶺、仲間の族長と束の間視線を合わせると、やがて口を開くのだった。
「申し上げます武辛様、我らの乱は乱であって乱に非ずで御座います」
その答えに面食らった武辛、顔を顰めながら更に問う。
「良いか玄嶺、返答のしようによっては、其方ら氏族は滅ぶことになる。持って回った言い方をせずに実直に申せ」
何とも誠実なその言いように、族長達は互いに顔を見合わせ、頷き合う。
その上で、声を少し和らげた玄嶺が言うのだった。
「はい…、申し上げます。先年起こった長江の氾濫はかつて無いほどの規模で御座いまして、作物を作る田畑の殆どを流されたばかりか、人や家畜も多数失ってしまいました。今の状況では今年の税を納めることはおろか、冬を越すことも怪しい始末」
そこまでの状況を耳にしていた武辛、思わず厳しく顔を顰めるのだった。
嘗ての彼の故郷も度重なる災害の影響で、長く苦境に陥ったことが、つい昨日のことのように思い出されるのだった。
「ただ、その苦境をお恐れながらと奏上しても、どれだけ甚大な損害を受けているか説明する為の力に乏しく、かくなる上はと言うことで、一度こちらにお出で頂くのが何よりと考えた次第で御座います」
その言葉を聞いた武辛、厳しい顔つきで族長達を睨み付ける。
「其方達の気持ちも分からぬでは無い、無いが、畏れ多くも紂王様御自らのご出馬を願うなど、余りにも畏れ多いこと。其方らの徴税の有無などで、左右することでは無いと心得よ」
その言葉に頬を固くした玄嶺が答える。
「はい、確かにその罪深きこと、我らも重々承知しておりまする…」
そこまで言うと玄嶺は居住まいを正し、背筋を伸ばしながら実に苦しそうに述べるのだった。
「その罪、その代価をお支払いする為に、我らは前族長五名の命を差し出す覚悟で御座います」
そこで武辛は大きく目を見開くのだった。前がつくとは言え、族長とは氏族の精神的支柱にもなる存在である。その命はとてもでは無いが軽々に述べられるべき物では無いのだった。
ことここに至って武辛は、自ら事の軽重を量るを良しとせず、この先は紂王自身に預けようと考えるのだった。
そこで武辛は一端、紂王の元へ戻ろうと踵を返しかけるのだが、見れば直ぐ間近まで近衛を伴った紂王、その人がやって来ているのだった。
「武辛、どうした?」
王の腹心中の腹心である武辛、その動きを遠くから見ていた紂王は、武辛が問題を王に委ねようとしていることを、流れを見て既に感じ取っていたのだった。
「大王、こやつらは乱を起こすつもりは無かったと申しております」
「ほう…」
「先年の長江の大水害による現状を、何とか大王に見聞して頂くべく、苦肉の策として乱有りと偽ったようで御座います」
「成る程、余を謀ったという訳か?」
そう言って鋭い目つきで族長達を睨み付ける紂王。
それを目にした族長達は忽ちにして震え上がってしまい、額がすり切れるほど地に頭を押しつけるのだった。
そんな族長達の様子を目に、庇うかのように紂王に奏上する武辛。
「大王、彼らはその詫びにと、前族長五人の命を供犠として差し出すと申しております」
その言葉を聞いた紂王、ほんの僅かに目を見開く。
「前族長五名…か」
そう言うと何とも渋い表情をする紂王。
確かに供犠としてはその重さ、名目共に申し分ない物で有った。
紂王としてはその内容を聞き、既に十分とも考えるのだが、事は供犠についてで有る、一端持ち帰り、貞望の意見を聞かずには、彼をもってしても動くことが出来ないのだった。
そこでその旨を族長達に話そうと思い、玄嶺の元に近付こうとしたその時である。
何処からか飛来する矢の羽の音。
咄嗟に武辛を初めとし、近衛の兵士達はその矢の飛来する方向を探そうとする。しかし慌てて周囲を見回すも、あちこちを向く兵士達の立てる音に紛れて、上手く見つけることが出来ないでいた。
だが皆のその迷いの中、ただ一人稲妻のような動きをした者がいた。
それは近衛の兵に紛れて共にやって来た、婦丁その人なのだった。
彼女は咄嗟に紂王の御前に身を投げ打つと、その肩口にて、飛来した矢を見事に受け止めたのだった。
「ぐうっ!」
一言の悲鳴も上げること無く、歯を食い縛って痛みに耐える婦丁、その肩から溢れ、流れ落ちる真っ赤な血潮が大地を染めていく。
それを見た紂王、即座に腰に付けた組紐を取り外し、婦丁の傷口を縛り上げるのだった。そして怒りを抑えた声で静かに武辛に命ずる。
「探せ!」
その言葉を受け、目を怒らせ、まるで稲妻のような血管を額に浮かべた武辛は、嘗て誰も聞いたことの無いような大音声で呼ばわるのだった。
「射手をさがせぇー!」
見ると既に大勢の近衛の槍兵と楯兵達が、鬼神の如き表情で王の下へと押し寄せている。
そしてその中には運ばれるようにして、貞望と巫の姿が見えるのだった。
だが、それ以外の歩兵や斥候、弓兵達は皆怒濤のように射手を求めて散らばっていく。
さて一万を上回る紂王の軍勢が動いたのである。ある意味射手をつかまえるのにそう長く時間が掛かろうはずは無かった。
余りに急激な展開に、凍り付いたように立つ尽くしている有蘇の民達の間を、土色・黒褐色・茶色の疾風が駆け抜けていく。そしてそれらの前方を、激しい唸り声を上げた犬たちが疾駆していくのだった。
一方、組紐で縛られ、応急の血止めを施された婦丁、巫の処置を受けながら、剛力の武辛の手で肩口の矢を抜かれようとしている。
痛みの余り涙ぐんでいる婦丁の手を、腰を下ろした紂王自ら固く握りしめ、その目で耐えよとしっかと訴えかけているのだった。
一気に引き抜くと同時に、焼けた短剣を押し当て止血する巫。立ち上る煙と共に焦げた肉の匂いや鉄臭さが辺りに漂う。
つい先程まで固く握りしめられていた手が緩んだかと思うと、そこには気を失った婦丁の姿が在るのだった。
何とかぎりぎりのところで、婦丁の命が守られたのを確認した紂王、ゆっくりと立ち上がると目をぎらぎらと血走らせながら、この事態を引き起こした下手人の捕まるのを、今か今かと待ち侘びるのだった。




