第8話「美味しいですか、と聞いてしまう」
この屋敷の誰もあの人に食事の感想を聞いたことがない。
朝のうちにトビへ確かめ、昼に配膳の下働きへ確かめ、日が傾いてからマレンさんにも確かめた。3人とも同じ顔をした。何を言われているのか分からない、という顔だ。
「聞くもんじゃないでしょ、そんなの」
「なんで」
「閣下だよ? 感想とか言う人じゃないでしょ」
「言わないのと、聞かれたことがないのは別だろ」
「同じだよ。誰も聞かないから言わないんだって」
トビの理屈はときどき正しい順番で並ぶ。今のもそうだ。誰も聞かないから答えがない。答えがないから誰も聞かない。よくできた輪で、輪の内側には何も入っていない。
だから俺は今夜その輪に指を突っこむことにした。
夏の日暮れは遅い。食堂の窓は西を向いていて、この時季は夕食の途中まで光が残る。長卓の木目が赤く見えるあいだは、まだ夜になっていない。
俺は自分の席に着いて、袖の内側で手のひらを拭いた。
今夜の献立は鶏と麦を煮たもの、瓜の酢漬け、堅いパン。夏に食が細るのを見越して、ドランさんは酸のあるものを必ず一品つける。あの人の献立には季節への言い訳がない。理由が全部、食う人間の体のほうを向いている。
向かいの椅子が引かれた。
「閣下」
返事の代わりに、目だけがこちらへ来て、すぐ卓のほうへ戻った。
昨夜のことがあるので、俺は少し身構えている。鉢を握って離さなかった使用人と、飯に手をつけずに出ていった主人が、翌日どんな顔で同じ卓に着くのか。作法の本があるなら読んでおきたかった。
鉢が置かれる。俺は銀の毒見皿を引き寄せて、手を伸ばした。
伸ばしきった。
横から入ってくる手がない。取り上げられる覚悟で出した腕が、そのまま目的地に着いてしまった。
匂いを取る。鶏の脂と麦の湯気が真上へ上がって、そのうしろから瓜の酸が細く来る。混ざり方に濁りはない。色を見る。汁は澄んでいて、底に沈んだものもない。銀の縁を煮汁にひたして、窓に残った光へかざす。白いまま。
ひと匙。
塩の当たりが柔らかい。角が丸くて、麦のとろみが舌の上でゆっくりほどけていく。鶏は骨から外してあるのに繊維が崩れていない。火から上げる時刻を手ではなく音で決めている人の仕事だ。
「異常ありません」
「そうか」
クレイス・ヴァルドレイが匙を取る。
この人の食べ方には無駄がない。匙を入れて口へ運び、噛んで飲みこむ。噛む回数まで同じに見える。皿の中身が減っていく速さが、最初から最後まで変わらない。
この食べ方には中身が何であるかという情報が一つも入っていない。鶏でも麦でもたぶん同じ速さで減る。
俺は自分の匙を置いた。
置いた音で、向かいの匙が皿の底をこする速さが半分に落ちた。
「閣下」
「なんだ」
「一つ、うかがってもいいですか」
「言え」
奥歯が勝手に噛み合った。
朝から決めていたのに、いざ口を開くと舌が重い。これは踏みこんでいい線ではない。使用人が主人の体の話に触れるのは、この屋敷の作法では確実に越権になる。
それでも聞くと決めたのは、昨夜この人が飯に手をつけずに出ていったからだ。味のしない人間に、食事を残す理由はない。
「美味しいですか」
匙が止まった。
止まって、動かない。
卓の上では鶏の湯気だけがまっすぐ上がっていく。窓の光がもう一段落ちて、木目の赤が端から消えかけている。次の皿を運んでくるはずの足音が、扉の外から入ってこない。
俺は待った。
怒られるなら早いほうがいい。下がれでもいいし、出ていけでもいい。この人の返事は単語2つか3つで来る。三つ数えるうちに片がつく。
三つ数えた。
来ない。
十まで数えても匙は皿の上にあった。手も動いていない。目はこちらを向いているのに、焦点だけが俺の顔の少し手前で止まっている。俺を見ているのではなくて、俺のあたりにある別のものを見ている。
怒っているんじゃない、と気づいたのはそこだった。
この人は答えを探している。探して、見つからないまま、まだ探している。
「閣下、あの——」
「待て」
待て、と言われた。
この人が会話を引き延ばすところを俺は知らない。短い返事で切って終わらせるのが普段の型だ。その型が今、終わらないまま卓の上に置かれている。
匙の柄が皿の縁に当たって、小さな音が鳴った。
「……なんと言えばいい」
声の高さがいつもより低い。
質問に質問が返ってきた。それも答え方を教えてくれという形の質問だ。
指の関節が硬くなった。俺が聞いたのは好みの話だった。うまいかまずいか、どちらかを言えば済む種類の話だったはずだ。それが済まないというのは、この人の中に、うまいもまずいも入っていないということになる。
「……分かりません」
「お前が聞いた」
「聞きました。聞いておいて、答えの見本を持っていませんでした」
検査の項目だけ作って判定の基準を作らずに現場へ出た人間の顔を、俺は前世で何度も見ている。今日はそれが自分の顔だ。
クレイス・ヴァルドレイは匙を持ち直して、鉢の中を見た。中を見てから、俺を見る。
「お前は、うまいのか」
「うまいです」
「どう、うまい」
どう。
この人は今、五感の説明を求めている。
俺は鉢を引き寄せて、もうひと匙すくった。仕事ではなく説明のために口へ入れる。舌の上でばらばらにして、来た順に名前をつけていく。染みついた手つきが勝手に戻ってくる。
「塩が最初に来ます。角がなくて丸い。そのあとから鶏の脂が追いかけてきて、麦がそれを抱えます」
「麦が抱える」
「はい。とろみのあるものは脂を舌に長く置きます。だから後味が伸びます」
「瓜は」
「瓜の酢は舌の脇を通ります。真ん中は通りません」
「脇」
「酸っぱいものは、舌の縁のほうが強く出ます」
この人が自分の舌の縁を意識したのが口の動きで分かった。
確かめている。確かめて、たぶん何も返ってきていない。
止めるべきだったのかもしれない。でも俺は止めなかった。ここで話を閉じたら、この人は二度と自分の口の中を確かめない気がした。
「閣下。今の話に、どこか一つでも心当たりはありましたか」
返事はなかった。
かわりにこの人は鉢の中身を最後まで食べた。速さも回数もいつもと変わらない。
立ち上がるとき、椅子の脚が石の床を短く鳴らした。
「ユエル」
「はい」
「もう聞くな」
扉が閉まる。
俺は卓に残されて、瓜の酢漬けを一切れつまんだ。舌の脇を酸が通っていく。この人にはこれが通らない。
もう聞くな、と言われた。
やめろとは言われていない。
皿が下がるのを待って、俺は階段を下りた。
夏の夜の厨房は昼の熱が天井に残っていて、扉を開けると顔の高さだけが生ぬるい。竈の火はもう落ちている。奥の樽から塩の匂いが上がってくる。海の塩は乾いていても匂う。
ドランさんは大鍋を伏せて、底の煤を砂で落としていた。
「何の用だ、毒見役」
「今夜の鶏、火の入れ方を教えてください」
「教えてどうする」
「覚えておきたいんです」
砂を握った太い手が、答える前に鍋の底をもう一往復こすった。
「骨のついたまま煮て、湯から上げて、冷ましてから外す。熱いうちに外すと繊維が裂ける」
「冷ます時間は」
「鐘の四半分」
「湯は沸かしますか」
「沸かさん。鍋の縁が細かい泡を出すところで止める。煮立てたら鶏は縮む」
俺は頭の中で書き取った。手順は数字と音で覚える。紙がなくても数字と音は逃げない。
問題はここからだった。
口の中にはまだ夕方の言葉が残っている。なんと言えばいい、という一言だ。
この人に言うべきだろうか。
閣下は味が分からない。だから20年、あなたの鍋の返事が来ない。それはあなたの腕の話ではない。
言えば、この人は救われる。自分の料理が疑われる理由が一つ消えるからだ。
同時に、この人が20年やってきたことの行き先がそこで確定する。届かない相手に届けようとしてきた時間だったと、他人の口から知らされる。
前世でも同じ形の場面を見た。検査の不良が設備側の原因だと分かった日、現場のおばさんが泣いた。自分のせいじゃなかったと知って泣く人がいる。自分のせいだと思って直そうとしてきた年月がそこで行き場をなくすからだ。
それに、あの人の舌の話はあの人のものだ。俺が持ち出していいものじゃない。
「ドランさん」
「まだいたのか」
「一つだけ聞かせてください。閣下に、美味いと言われたことはありますか」
砂を回す手が急に速くなった。
天井から下がった鉄鍋が風もないのに小さく鳴る。靴の中で足の指が縮んだ。この質問は包丁より危ない、と自分でも思う。
ドランさんは布で手を拭いて、体ごとこちらを向いた。
「ねえよ」
「まずい、は」
「それもねえ」
「じゃあ、何を言われるんですか」
「何も言われねえ。皿が空になる。空になった皿が戻ってくる。それで終いだ」
言い終わってから、この人は自分の言葉に腹を立てたような顔をした。怒る相手が卓の向こうにいないので、行き場をなくした分だけ鍋へ戻る。
「20年、そうなんですか」
「20年だ」
「よく続きますね」
「続けてんじゃねえ。作ってるだけだ」
その言い方が俺の胸の内側を引っかいた。
続けているのではなく、作っている。手を止める理由がないから手が動く。続けるには相手が要るが、作るだけなら一人でできてしまう。
「ドランさん。明後日の献立に、味の濃いものを一つ入れてもらえませんか」
「濃いもの」
「はい。塩でも酢でも香辛でも、なんでもいいです。極端なやつを」
「毒見役の舌が鈍ったか」
「鈍ってません。試したいことがあるだけです」
ドランさんは何も言わなかった。砂を握り直して、鍋の底へ戻る。
断られたのかどうか分からないまま、俺は厨房を出た。
階段の下で足を止める。上の廊下は暗くて、食堂の扉の下から光は漏れていない。あの人はもう部屋にいるだろう。
言わずに済ませてしまった。今日の俺が正しかったのか卑怯だったのか、自分でもまだ分けられない。
分けられないまま一つだけはっきりしたことがある。あの人の中にはうまいという言葉を置く場所がない。置き場所を作る方法を、俺はまだ何も持っていない。




