第9話「名前のない犬の話」
この屋敷には犬がいない。
厩にも庭にも林の際にもいない。海の近くで塩と肉を扱う領地なら、番犬の一匹や二匹はいるものだと思っていた。どこの国のどの時代でも、食い物のある場所には犬が寄る。
寄らないということは、寄れないようにしてある。
そう気づいたのは、その朝、村の犬が一匹だけ厩の裏へ迷いこんできたからだった。
夜が明けきる前に叩き起こされて、俺は厩まで歩かされていた。閣下が塩蔵まで見回りに出る日で、携行する水を検めるのが毒見役の仕事になる。規定に飲料と書いてある以上、逃げ道はない。
夏の朝はまだ涼しい。石の壁が夜のあいだに熱を吐いて、そのぶんだけ空気が動いている。厩の中は藁と馬の汗の匂いで、鼻の奥が一度で埋まった。
「毒見役さん、水はそっちの革袋だ」
厩番の老人が顎で示した。柵の向こうで鞍の革を拭いている。指の節が全部太い。
「ありがとうございます。少し桶を借ります」
革袋の口を開けて匂いを取る。革と鉄気。井戸の水の匂いは俺の鼻に入っている。桶へ少し出して色を見て、銀の毒見皿を沈めた。日の出前の光でも、銀の白さは見分けられる。
曇らない。
ひと口を舌に乗せた。冷たい。鉄気が強いのは革袋のせいで、水そのものは井戸端で汲んだものと同じだ。
「異常なしです」
「毎朝そんなことをしてるのかい」
「毎朝です。飲むものが一番危ないので」
「へえ。まずいだろう、その水」
「まずいです」
老人が笑って、鞍を持ち上げた。
俺は革袋の栓を締め直して、柵の外へ下がった。厩の中には馬が3頭いて、そのうちの一頭が首をこちらへ伸ばしてくる。鼻先が肩に触れた瞬間、俺の足は勝手に半歩逃げた。
「馬は苦手かい」
「大きいものが苦手なんです」
「馬は蹴らんよ。腹を空かせてなければ」
「腹を空かせている可能性が残ってるじゃないですか」
そのときだった。
厩の裏手から茶色い塊が滑りこんできて、俺の膝に鼻を突っこんだ。
犬だ。
毛はごわごわで、耳の先が欠けている。首に縄の跡はない。村から魚のあらの匂いを追ってきたのだろうと老人が言った。俺は膝をついて、犬の背を撫でた。埃と海と、少しだけ獣の匂いがする。
「お前、飼い主いないのか」
犬は返事の代わりに尻尾を振った。会話としては効率がいい。
背後で藁を踏む音がした。厩番の老人が鞍を框へ下ろして、柵の内側へ半歩寄る。
クレイス・ヴァルドレイが立っていた。
外套は着ていない。腕をまくって、自分の馬の腹帯を確かめている。当主が自分で腹帯を締める家というのも珍しいのだと、トビが前に言っていた。
「閣下。水は異常ありませんでした」
「そうか」
馬が首を振って、鉄の輪が短く鳴った。犬がそれに驚いて、俺の足の後ろへ回りこむ。
俺は撫でる手をそのまま動かし続けた。続けたのはたぶんこの人がそれを見ていたからだ。皿を取り上げる速さで、この人は俺の手のあたりを見ている。
「閣下。犬はお好きですか」
聞いてから、また余計なことを言ったと思った。
返事が来るまでの間が長い。腹帯を締める手は止まらないのに、口だけが遅れている。
「昔、いた」
「屋敷にですか」
「ああ」
俺の手が犬の背から浮いた。
この人が自分の話をしたのを俺は知らない。書斎でも食堂でも、返ってくるのは命令か「なぜだ」のどちらかだった。それが今朝、過去形の文になって出てきている。
「どんな犬でした」
「小さい」
「子犬ですか」
「小さいままだった。大きくならなかった」
そういう犬もいる。理屈は分かる。分かるのに、足元の藁を握った指へ勝手に力が入った。
「毛の色は」
「覚えていない」
「覚えてないんですか」
「見ていた場所が暗い」
妙な答えだった。
犬の色を思い出せない理由が犬ではなく部屋の明るさで説明されている。前世の癖で、俺は答えより答えの形に引っかかる。人は嘘をつくとき言葉を足すが、隠すときは足さない。この人は足していない。
「懐いてたんですか」
「後ろをついてきた」
「かわいいじゃないですか」
「食い物の匂いがしたからだ」
「それでもついてくるなら、懐いてるってことですよ」
馬の腹に回っていた手が、そのまま馬の腹に置かれた。
馬の背で、朝の光が毛の向きに沿って流れている。厩番の老人は鞍の革を拭いたままで、こちらを見ていない。見ていないのに、布を動かす速さが半分に落ちていた。
「俺の皿から食っていた」
「……皿から」
「俺が食わせた」
言い方が平らすぎた。
子どもが自分の飯を犬に分ける。かわいい話だ。かわいい話のはずなのに、この人の口には、かわいい話をする人間の速さがない。報告書を読み上げる速さで言っている。
「その犬は、今は」
「いない」
「どこかへ行ったんですか」
「動かなくなった」
馬が前足で土を掻く。
動かなくなった。その言い方をする人を、俺は昔いた職場で一人だけ知っている。死んだ、と言えない人が使う言い方だ。俺はそれを知っていて、知っているせいで次の言葉が出てこなくなった。
犬が俺の靴の先を舐めて、厩の裏手へ走っていく。
「……閣下。その犬、名前は」
この人の指が革から離れた。
離れて、そのまま止まる。
皿を取り上げるときの速さも、鉢を引く手の強さも今はどこにもない。手だけが革の上に残っている。俺は待った。待つと決めたわけではなくて、待つ以外の動き方が思いつかなかった。
「若様」
庭のほうから声が来た。
マレンさんだった。籠を腕にかけて、朝露で裾を濡らしたまま厩の入口に立っている。
「塩蔵の帳面をお持ちいたしました。ご出立の前に、お目を通していただきます」
「……ああ」
この人は腹帯へ手を戻して、締め直した。
話が終わった合図だ。合図を出したのはこの人ではない。
マレンさんは帳面を渡すあいだ、一度も俺のほうを見なかった。この人はいつもなら俺を見る。俺が廊下で待ち伏せしたときも、皿の数を数えたときも、必ず目を合わせて釘を刺しにきた。それが今朝だけない。
馬が動いて、俺の肩のあたりに影が落ちた。
驚いて半歩下がった俺の前に腕が一本入った。
クレイス・ヴァルドレイが手綱を引いて、馬の顔を自分のほうへ向けている。動きとしてはそれきりだ。俺は礼を言う機会を逃して、その背中が鞍に乗るのを見上げた。
蹄の音が門のほうへ遠ざかっていく。
庭の外れに、厨房のための香草畑がある。
石を並べた区画が4つある。ういきょうと百里香。はっか。あとは名前の分からない苦いのが一区画。ドランさんが季節ごとに植え替えて、下働きの子が水をやる。この屋敷でいちばん手入れの行き届いた土はここだ。
マレンさんは籠を腕にかけて、そこで枝を摘んでいた。
「マレンさん」
「毒見役。庭に御用がおありですか」
「ご出立、鐘一つ先でしたよね」
摘みかけた枝を、マレンさんは指のあいだに挟んだまま籠へ落とさなかった。
「帳面を渡すのに、急ぐ理由がありましたか」
「……よくご覧になっておいでですね」
「時刻を見るのは仕事のうちです。毒は時刻の隙間から入るので」
嘘ではない。ほんとうはこの人が犬の話を切ったのが分かったからだ。
マレンさんは枝を籠へ落として、次の株へ手を伸ばした。伸ばした先が百里香ではなくはっかで、この人はそれに気づかずに一度掴む。掴んでから、手を離した。
書式を丸ごと頭に入れている人が畑の株を取り違えた。
「閣下は犬の話をされました」
「……」
「小さいままだった、と。ご自分の皿から食べさせていた、と」
「毒見役」
「名前をうかがったところで、あなたが来ました」
籠の縁を握る指の関節が白くなった。
風が香草の上を通って、はっかの匂いが強く立つ。青くて、鼻の奥を冷やす匂いだ。この畑の朝は毎日こういう匂いがしているはずなのに、今朝はそれが刺さるように感じられる。
「犬の話は、なさいませんように」
「なぜですか」
「若様がなさらないからでございます」
「今日はされました」
「……」
「マレンさん。あの犬の名前をご存じですか」
この人はしばらく手を動かさなかった。それから枝を一本折って、籠に入れた。
「その問いに、わたくしはお答えできません」
「知らない、ではなく」
「お答えできません、と申し上げました」
この人は嘘をつかない。つかないから、言葉の選び方に全部が出る。
知らないと言えないということは、知っているということだ。
俺は屋敷のほうを振り返った。
厩にも庭にも林の際にも犬の椀は転がっていない。鎖も小屋も見ていない。飼っていた人間がいる家に、飼っていた痕跡が一つも残っていない。片づけたのなら片づけた人がいて、片づけさせたのなら命じた人がいる。
「マレンさん。この屋敷から犬の道具を片づけたのは、どなたですか」
「……何のお話でございましょう」
「小屋とか、椀とか。捨てたなら誰が捨てたのかと思いまして」
答えは来なかった。
マレンさんは籠を持ち直して、屋敷のほうへ歩きだす。数歩進んだところで、こちらを見ないまま背中で言った。
「毒見役」
「はい」
「答えの返らない問いを、若様に続けてお出しになるのはおやめなさい」
「危ないからですか」
この人はそこで振り返った。目の下の皺が朝の光で深く見える。
「答えられないということを、若様がご自分で気づいてしまわれるからでございます」
言葉が胸のところでつかえた。
昨日の食堂で、俺は同じものを見ている。なんと言えばいい、と聞いた人の顔だ。あれは怒っている顔ではなくて、自分の手元に何もないことを見つけた人の顔だった。
「……マレンさん。それ、俺を叱ってますか」
「叱っております」
「褒めている部分はありますか」
「ございません」
ないらしい。
ないと言われたのに、この人は歩く速さを落として、俺が横に並ぶのを待っていた。




