表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役公爵の毒見役に転生したら、閣下が俺にだけ甘い  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/32

第10話「甘さは記憶からしか来ない」

人の舌に目盛りはついていない。


 だから前世の工場では、舌のほうに目盛りを作った。訓練した検査員を並べて同じものを舐めさせ、出てきた言葉を数字へ直す。官能検査という名前がついている。名前がついているだけで、中身は人力の測定だ。


 俺はその末端にいた。末端でも手順は体に残っている。


 だから夏の終わりのその日、俺は厨房の端の卓に白い器を5つ並べた。


 同じ形。同じ大きさ。中身は湯で溶いた5種類で、どれも料理ではない。塩。酢。焦がした麦。挽いた胡椒。それから蜜。


 混ぜない。飾らない。一つの器に一つの刺激だけを入れる。混ざっているものは、どこが効いたのか分からない。


「毒見役。俺の厨房で何をしてる」


 声が背中から降ってきた。


 振り向くまでもない。この厨房で俺に用があるのはこの人だけで、この人の声はいつも先に温度が届く。今日の温度は低いほうだ。


「実験です」


「実験」


「味を一つずつに分けて、順に出します。混ざっていると、どれが何だか分からないので」


「そりゃ料理じゃねえ」


「料理じゃありません。測るためのものです」


 ドランさんは卓の前まで来て、器を一つ持ち上げた。中を覗いて、匂いを嗅いでそのまま卓へ戻す。指の力が最後まで抜けないので、置いたのに音が大きい。


「うちの蜜を勝手に使いやがったな」


「使いました。すみません」


「謝りゃ済むと思ってやがる」


「思ってません。でも要るんです」


 俺は卓の端に置いた木の板を見せた。炭で線を引いて、5つぶんの記録の場所を作ってある。空白が5つ並んでいるだけの板だ。この人には落書きにしか見えないだろう。


 実際、今の俺が持っているのはこの板と炭のかけらだけだった。


「ドランさん。もう一つ、白状することがあります」


「まだあるのか」


「庭の外れの、名前の分からない苦い草を一株もらいました」


 この人の顔つきが変わった。


 怒りが消えたのではない。怒りの種類が入れ替わった。厨房を荒らされた男の顔から、火のそばで20年やってきた男の顔になる。


「どれだ。出せ」


 俺は布に包んだ株を卓へ置いた。ドランさんはそれを手に取って、葉の裏を返して、折った根の断面を鼻へ近づけた。手つきに迷いがない。


「これは使うな」


「毒ですか」


「これは違う。だが、これによく似たのが林の際に生える。葉の縁の切れ込みが一つ多いだけだ。煮出すと人が死ぬ」


「……見分けられますか」


「俺は見分ける。お前は見分けられねえ」


 言い返せなかった。


 俺の武器は前世の知識で、その知識の中身は異臭と変色と沈殿だ。日本の食品工場の話であって、この領地の林に生えるものの話ではない。葉の縁の切れ込みが一つ多い草の名前を俺は一つも持っていない。


「見分けられません」


「じゃあ触るな」


「はい」


「返事だけは早えな」


 ドランさんは株を布ごと竈へ放りこんだ。青い煙が上がって、苦い匂いが天井のほうへ抜けていく。


 それから、この人は棚の樽から麦を一掴み取った。


「苦いのが要るんだろう」


「要ります」


「麦を深く煎れ。焦がすほど苦くなる。草より安全だ」


「……教えてくれるんですか」


「教えてねえ。端の竈を使え、と言ってる。俺の鍋には触るな」


 背中を向けられた。この人が話を終えるときはいつもこの形で、今日はその背中が少しだけ竈のほうへ寄っている。俺が焦がしすぎたときに口を出せる位置だ。


 麦を煎ると厨房の匂いが変わる。香ばしい匂いが最初に来て、それが焦げの匂いへ倒れていく境目がある。俺は境目のところで火から下ろした。


「毒見役」


「はい」


「お前、閣下の舌の話をしてるな」


 煎った麦の匂いが、急に鼻から遠くなった。


 認めれば早い。この人は納得するだろうし、たぶん手を貸してくれる。20年鍋を振ってきた人間の勘は、俺の器5つより先に答えへ着いている。


 でも認めた瞬間、あの人の体の話を俺が持ち出したことになる。あれはあの人のもので俺のものではない。


「……答えられません」


「そうか」


「聞かないんですか」


「聞かねえ。聞いてどうする。俺が直せるのは俺の鍋だけだ」


 その日の夕食はいつもの手順どおりに終わった。


 鰈の塩焼きと豆の汁、麦のパン。匂いを取って色を見て、銀の縁を確かめ、ひと匙。異常なし。クレイス・ヴァルドレイは決まった量を決まった速さで体に入れて、匙を置いた。


 俺は台所番の子から盆を受け取って、器を5つ卓へ並べた。


「閣下。食後に、少しお時間をいただけますか」


「なんだ」


「器が5つあります。中身は言いません。順に口へ入れて、何か感じたら言ってください」


「なぜだ」


「毒見の精度を上げるためです」


 卓の向こうで、目がこちらを向いた。


 この人の目は動きが少ない。動きが少ないぶん、向けられている時間の長さだけが情報になる。今の時間はいつもより長かった。


「嘘だな」


「……はい」


「なぜだ」


 俺は板と炭を握り直した。


 ここで作り話を重ねることもできる。重ねたところでこの人は見抜くし、見抜かれた嘘は次の質問を潰す。隠すより先に半分だけ開けたほうが話は進む。俺はそれを痛い目を見て覚えた口だ。


「閣下が何を感じておられるのか、知りたいからです。知らないままだと、俺は献立に一言も口を出せません」


 返事はしばらく来なかった。


 窓の外で虫の声が一段大きくなる。夏の終わりの夜は音が高くなって、その高さで季節が動いたのが分かる。卓の上では白い器が5つ、油皿の灯りを同じ角度で返していた。


「やれ」


 一つ目の器を差し出した。


 塩を濃く溶いた湯だ。誰が舐めても顔をしかめる濃さにしてある。


 この人は器を持ち上げて、ひと口ふくんだ。飲みこむまでの動きに乱れがない。


「熱い」


「熱いだけですか」


「熱い」


「しょっぱさは」


「分からない」


 俺は板に炭で線を引いた。一つ目が埋まる。埋まったのに、中身は埋まる前と大差なかった。


 二つ目。酢を薄めたもの。


 口をつけた瞬間、この人の眉が動いた。


「鼻の奥が開く」


「味は」


「味ではない。鼻だ」


「痛みますか」


「痛まない」


 酸は鼻へ抜ける。舌が拾わなくても、鼻が拾う道が別にある。俺は板の二つ目に線を引いて、その横に鼻と書いた。


 三つ目。焦がした麦の煎じ湯。


「焦げた匂いがする」


「苦さは」


「何もない」


「何も、というのは」


「湯と同じだ」


 四つ目。挽いた胡椒を落とした湯。


 これは少し間があいた。ふくんで、飲みこんで、この人は自分の口の中を待つような顔をした。


「痛い」


「どこがですか」


「舌の真ん中と、喉の入口」


「痛いだけですか」


「痛いだけだ」


 板の四つ目に線を引く。


 熱い。鼻。何もない。痛い。


 4つ並べても味の話が一つも入ってこない。この人が拾っているのは温度と刺激と匂いだけで、そこに味と呼べるものは混ざっていない。板の上の4本の線は、何も測れなかったという記録になる。


 俺は五つ目の器を持ち上げた。


 蜜を湯で溶いたものだ。厨房の樽から借りた、この領地の花の蜜。


 差し出す手が少しだけ重かった。ここで何も出なかったら、俺の板は空白のまま閉じる。


 クレイス・ヴァルドレイは同じ手つきで器を持ち上げて、口をつけた。


 つけて、離さなかった。


 器の縁が唇から離れないまま、時間が過ぎていく。俺は炭を握ったまま動けなかった。この人が何かを長く続けるところを、俺はほとんど見ていない。皿を取り上げるのも目をそらすのも、この人はいつも速い。


 器が卓に戻った。中身は減っている。


「これは、なんだ」


「言わない約束です」


「言え」


「……蜜を湯で溶いたものです」


「蜜」


「はい。花から採る、あれです」


 この人は自分の口の中を確かめるように、一度だけ舌を動かした。


「ある」


「え」


「何かある。名前を知らない」


 炭の先が板から浮いた。


「どんなふうにありますか。強いですか、弱いですか」


「弱い」


「痛みますか」


「痛まない」


「熱いとか、冷たいとかとは違いますか」


「違う。……前にもあった」


「前、というのは」


「覚えがある」


 俺は板に炭を下ろせなかった。


 覚えがある。この人が選んだのはその言い方だった。うまいとも感じるとも言っていない。前に同じものが自分の中を通った記録がある、と言っている。


 順番が逆だ。ふつうは舌が先で、記憶があとから追いつく。この人は記憶のほうから手を伸ばして、やっと輪郭をつかんでいる。


 熱い。鼻。何もない。痛い。そして、覚えがある。


 5つのうち4つは体の反応で、五つ目だけが記録だった。


 舌が丸ごと死んでいるわけじゃない。甘味の通る細い道が一本だけ残っていて、この人はそこを何年も使っていない。使っていないから、通ったときに名前が出てこない。


「閣下」


「なんだ」


「今の、どこかで召し上がった覚えがありますか」


「……分からない」


「分からない、ですか」


「分からない。もういい」


 この人は立ち上がった。


 卓の上には器が5つ残っている。塩も酢も焦がし麦も胡椒も、半分より多く残っていた。


 蜜の器だけが空だった。


「閣下。もう一度やらせてもらえますか」


「今日はここまでだ」


「では明日は」


 扉のところで足が止まった。こちらを見ないまま、短い返事だけが落ちてくる。


「……好きにしろ」


 扉が閉まった。


 俺は器を集めて、最後に蜜のものを持ち上げた。底に薄く残ったものが灯りを返している。


 覚えのあるものしか届かないなら、俺の順番はもう決まった。


 味を届けるより先に、あの人に覚えのないものを覚えさせるところから始めるしかない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ