第10話「甘さは記憶からしか来ない」
人の舌に目盛りはついていない。
だから前世の工場では、舌のほうに目盛りを作った。訓練した検査員を並べて同じものを舐めさせ、出てきた言葉を数字へ直す。官能検査という名前がついている。名前がついているだけで、中身は人力の測定だ。
俺はその末端にいた。末端でも手順は体に残っている。
だから夏の終わりのその日、俺は厨房の端の卓に白い器を5つ並べた。
同じ形。同じ大きさ。中身は湯で溶いた5種類で、どれも料理ではない。塩。酢。焦がした麦。挽いた胡椒。それから蜜。
混ぜない。飾らない。一つの器に一つの刺激だけを入れる。混ざっているものは、どこが効いたのか分からない。
「毒見役。俺の厨房で何をしてる」
声が背中から降ってきた。
振り向くまでもない。この厨房で俺に用があるのはこの人だけで、この人の声はいつも先に温度が届く。今日の温度は低いほうだ。
「実験です」
「実験」
「味を一つずつに分けて、順に出します。混ざっていると、どれが何だか分からないので」
「そりゃ料理じゃねえ」
「料理じゃありません。測るためのものです」
ドランさんは卓の前まで来て、器を一つ持ち上げた。中を覗いて、匂いを嗅いでそのまま卓へ戻す。指の力が最後まで抜けないので、置いたのに音が大きい。
「うちの蜜を勝手に使いやがったな」
「使いました。すみません」
「謝りゃ済むと思ってやがる」
「思ってません。でも要るんです」
俺は卓の端に置いた木の板を見せた。炭で線を引いて、5つぶんの記録の場所を作ってある。空白が5つ並んでいるだけの板だ。この人には落書きにしか見えないだろう。
実際、今の俺が持っているのはこの板と炭のかけらだけだった。
「ドランさん。もう一つ、白状することがあります」
「まだあるのか」
「庭の外れの、名前の分からない苦い草を一株もらいました」
この人の顔つきが変わった。
怒りが消えたのではない。怒りの種類が入れ替わった。厨房を荒らされた男の顔から、火のそばで20年やってきた男の顔になる。
「どれだ。出せ」
俺は布に包んだ株を卓へ置いた。ドランさんはそれを手に取って、葉の裏を返して、折った根の断面を鼻へ近づけた。手つきに迷いがない。
「これは使うな」
「毒ですか」
「これは違う。だが、これによく似たのが林の際に生える。葉の縁の切れ込みが一つ多いだけだ。煮出すと人が死ぬ」
「……見分けられますか」
「俺は見分ける。お前は見分けられねえ」
言い返せなかった。
俺の武器は前世の知識で、その知識の中身は異臭と変色と沈殿だ。日本の食品工場の話であって、この領地の林に生えるものの話ではない。葉の縁の切れ込みが一つ多い草の名前を俺は一つも持っていない。
「見分けられません」
「じゃあ触るな」
「はい」
「返事だけは早えな」
ドランさんは株を布ごと竈へ放りこんだ。青い煙が上がって、苦い匂いが天井のほうへ抜けていく。
それから、この人は棚の樽から麦を一掴み取った。
「苦いのが要るんだろう」
「要ります」
「麦を深く煎れ。焦がすほど苦くなる。草より安全だ」
「……教えてくれるんですか」
「教えてねえ。端の竈を使え、と言ってる。俺の鍋には触るな」
背中を向けられた。この人が話を終えるときはいつもこの形で、今日はその背中が少しだけ竈のほうへ寄っている。俺が焦がしすぎたときに口を出せる位置だ。
麦を煎ると厨房の匂いが変わる。香ばしい匂いが最初に来て、それが焦げの匂いへ倒れていく境目がある。俺は境目のところで火から下ろした。
「毒見役」
「はい」
「お前、閣下の舌の話をしてるな」
煎った麦の匂いが、急に鼻から遠くなった。
認めれば早い。この人は納得するだろうし、たぶん手を貸してくれる。20年鍋を振ってきた人間の勘は、俺の器5つより先に答えへ着いている。
でも認めた瞬間、あの人の体の話を俺が持ち出したことになる。あれはあの人のもので俺のものではない。
「……答えられません」
「そうか」
「聞かないんですか」
「聞かねえ。聞いてどうする。俺が直せるのは俺の鍋だけだ」
その日の夕食はいつもの手順どおりに終わった。
鰈の塩焼きと豆の汁、麦のパン。匂いを取って色を見て、銀の縁を確かめ、ひと匙。異常なし。クレイス・ヴァルドレイは決まった量を決まった速さで体に入れて、匙を置いた。
俺は台所番の子から盆を受け取って、器を5つ卓へ並べた。
「閣下。食後に、少しお時間をいただけますか」
「なんだ」
「器が5つあります。中身は言いません。順に口へ入れて、何か感じたら言ってください」
「なぜだ」
「毒見の精度を上げるためです」
卓の向こうで、目がこちらを向いた。
この人の目は動きが少ない。動きが少ないぶん、向けられている時間の長さだけが情報になる。今の時間はいつもより長かった。
「嘘だな」
「……はい」
「なぜだ」
俺は板と炭を握り直した。
ここで作り話を重ねることもできる。重ねたところでこの人は見抜くし、見抜かれた嘘は次の質問を潰す。隠すより先に半分だけ開けたほうが話は進む。俺はそれを痛い目を見て覚えた口だ。
「閣下が何を感じておられるのか、知りたいからです。知らないままだと、俺は献立に一言も口を出せません」
返事はしばらく来なかった。
窓の外で虫の声が一段大きくなる。夏の終わりの夜は音が高くなって、その高さで季節が動いたのが分かる。卓の上では白い器が5つ、油皿の灯りを同じ角度で返していた。
「やれ」
一つ目の器を差し出した。
塩を濃く溶いた湯だ。誰が舐めても顔をしかめる濃さにしてある。
この人は器を持ち上げて、ひと口ふくんだ。飲みこむまでの動きに乱れがない。
「熱い」
「熱いだけですか」
「熱い」
「しょっぱさは」
「分からない」
俺は板に炭で線を引いた。一つ目が埋まる。埋まったのに、中身は埋まる前と大差なかった。
二つ目。酢を薄めたもの。
口をつけた瞬間、この人の眉が動いた。
「鼻の奥が開く」
「味は」
「味ではない。鼻だ」
「痛みますか」
「痛まない」
酸は鼻へ抜ける。舌が拾わなくても、鼻が拾う道が別にある。俺は板の二つ目に線を引いて、その横に鼻と書いた。
三つ目。焦がした麦の煎じ湯。
「焦げた匂いがする」
「苦さは」
「何もない」
「何も、というのは」
「湯と同じだ」
四つ目。挽いた胡椒を落とした湯。
これは少し間があいた。ふくんで、飲みこんで、この人は自分の口の中を待つような顔をした。
「痛い」
「どこがですか」
「舌の真ん中と、喉の入口」
「痛いだけですか」
「痛いだけだ」
板の四つ目に線を引く。
熱い。鼻。何もない。痛い。
4つ並べても味の話が一つも入ってこない。この人が拾っているのは温度と刺激と匂いだけで、そこに味と呼べるものは混ざっていない。板の上の4本の線は、何も測れなかったという記録になる。
俺は五つ目の器を持ち上げた。
蜜を湯で溶いたものだ。厨房の樽から借りた、この領地の花の蜜。
差し出す手が少しだけ重かった。ここで何も出なかったら、俺の板は空白のまま閉じる。
クレイス・ヴァルドレイは同じ手つきで器を持ち上げて、口をつけた。
つけて、離さなかった。
器の縁が唇から離れないまま、時間が過ぎていく。俺は炭を握ったまま動けなかった。この人が何かを長く続けるところを、俺はほとんど見ていない。皿を取り上げるのも目をそらすのも、この人はいつも速い。
器が卓に戻った。中身は減っている。
「これは、なんだ」
「言わない約束です」
「言え」
「……蜜を湯で溶いたものです」
「蜜」
「はい。花から採る、あれです」
この人は自分の口の中を確かめるように、一度だけ舌を動かした。
「ある」
「え」
「何かある。名前を知らない」
炭の先が板から浮いた。
「どんなふうにありますか。強いですか、弱いですか」
「弱い」
「痛みますか」
「痛まない」
「熱いとか、冷たいとかとは違いますか」
「違う。……前にもあった」
「前、というのは」
「覚えがある」
俺は板に炭を下ろせなかった。
覚えがある。この人が選んだのはその言い方だった。うまいとも感じるとも言っていない。前に同じものが自分の中を通った記録がある、と言っている。
順番が逆だ。ふつうは舌が先で、記憶があとから追いつく。この人は記憶のほうから手を伸ばして、やっと輪郭をつかんでいる。
熱い。鼻。何もない。痛い。そして、覚えがある。
5つのうち4つは体の反応で、五つ目だけが記録だった。
舌が丸ごと死んでいるわけじゃない。甘味の通る細い道が一本だけ残っていて、この人はそこを何年も使っていない。使っていないから、通ったときに名前が出てこない。
「閣下」
「なんだ」
「今の、どこかで召し上がった覚えがありますか」
「……分からない」
「分からない、ですか」
「分からない。もういい」
この人は立ち上がった。
卓の上には器が5つ残っている。塩も酢も焦がし麦も胡椒も、半分より多く残っていた。
蜜の器だけが空だった。
「閣下。もう一度やらせてもらえますか」
「今日はここまでだ」
「では明日は」
扉のところで足が止まった。こちらを見ないまま、短い返事だけが落ちてくる。
「……好きにしろ」
扉が閉まった。
俺は器を集めて、最後に蜜のものを持ち上げた。底に薄く残ったものが灯りを返している。
覚えのあるものしか届かないなら、俺の順番はもう決まった。
味を届けるより先に、あの人に覚えのないものを覚えさせるところから始めるしかない。




