第11話「弟が笑うと部屋が冷える」
「兄上は、ちゃんと召し上がっていますか」
その日、俺は同じ質問を3回された。言い方だけが毎回違う。
1回目は挨拶のついでに。2回目は反物を広げながら。3回目は帰りぎわに笑いながら。
同じことを角度を変えて3回聞くのは、答えを引き出す技術だ。前世の監査でよく使った。使う側にいた人間は、使われる側に回ると気づくのが早い。
朝から風が乾いていた。
夏のあいだ海から来ていた湿った風が林のほうからの風に入れ替わっている。ヴァルドレイ邸の石はまだ昼の熱を持っているのに、廊下を歩くと袖の内側だけが冷たい。季節の変わり目というのは、体の場所ごとに順番にやってくる。
「ユエル、離れから人が来る!」
トビが洗い場から走ってきて、俺の袖を引いた。玄関の滑車がきしむ前に知らせが来るのは、この屋敷では最速の部類に入る。
「誰だ」
「弟君! セラン様!」
「あの、林の向こうの」
「そう! 僕、見るの2回目!」
トビの声が上ずっている。喜んでいるのか怖がっているのか、判別がつかない上ずり方だった。
「どんな人なんだよ」
「背が高い」
「へえ」
「洗い場のおばさんは、低いって言ってた」
「どっちだよ」
「あと笑わない人。厩の爺さんは、よく笑う人だって言ってた」
「一つも合ってないぞ」
「合ってるって。背があって、笑ったり笑わなかったりする人かもしれないじゃん」
「それ、この世の全員だろ」
噂というのは屋敷の中で何度も乗り換えをして、乗り換えるたびに荷物を落としていく。トビが運んでくるのはたいてい、落としたあとの空の鞄のほうだ。
玄関広間へ下りると、木箱ではなく長い包みが4つ運びこまれていた。
布だ。冬支度の反物で、油紙の上から縄がかけてある。運んできた下働きが縄を解くと、藍と糊の匂いが立ち上がった。染めたばかりの布は匂いが強い。鼻の奥を藍が先に占領して、糊があとから重なってくる。
その包みの横に、若い男が立っていた。
背は俺と同じくらいで、兄よりは頭半分低い。栗色の髪をきれいに分けて、旅装なのに埃が一つもついていない。ここまで林を抜けて歩いてきたはずなのに、靴の縁まで拭いたように見える。
目が合った。
その瞬間に笑った。
「あなたが、兄上の毒見役の方ですね」
「ユエル・メリクです。セラン様でいらっしゃいますか」
「セランです。お噂はうかがっています。ずいぶん長く続いておられると」
長く続いている。
毒見役に向かって使う言葉として、これほど正確で嫌な言い方はない。俺の前任者たちが何日で終わったかを知っている人間の言い方だ。
「まだ大した日数ではありません」
「そんなことはありませんよ。母も驚いていました」
母。
この人の話は二言目に必ず母が出てくる。
「本日は冬の支度の反物を、母から兄上へお届けに上がりました。仕立てはこちらでなさるとよいと母が申しまして」
「ありがとうございます。検めさせていただきます」
「検める」
セラン・ヴァルドレイの笑顔が、初めてほんの少しだけ形を変えた。
崩れたのではない。目の位置が変わらないまま、口の端だけが1段上がった。人間の顔は上と下で別々に動かすと妙に見える。
「布まで、ですか」
「規定に、口に触れるいっさいの物とあります。染めた布は肌に触ります。肌に触れたものは手につきますし、手についたものは口へ入ります」
「まあ。そこまで」
「そこまでが仕事です」
俺は下働きに湯と白い布を頼んだ。
「……布に、湯を、ですか」
「かけます」
「布に」
「布にです」
下働きの子は桶を置いて、半歩下がった。あの距離の取り方は知っている。俺だって、誰かが冬物の上着を鍋で煮ていたら同じだけ下がる。
「毒見役さん、それ、着る布ですよ」
「着る布だから検めるんです」
「着る前に濡らして大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないので端だけです」
やり取りのあいだ、セラン・ヴァルドレイは黙って見ていた。俺は自分が今、屋敷の客人の前で反物と真顔で戦っているのだと気づいて、気づいたうえで手を進めた。規定にそう書いてあるからだ。
反物の端をわずかに切って、湯に沈める。藍の一反は色が出ない。茜の一反も出ない。生成りの一反は問題外に安全だ。
4反目で手が止まった。
鮮やかな緑だった。
この時代の染めで、これだけ濁りのない緑を出すのは難しいはずだ。前世の知識でいえば、緑を強く出す顔料には触りたくない金属が混ざることがある。俺は白い布を湯に浸して、緑の端をこすった。
白い布に緑が移った。
銀の毒見皿を湯に沈める。曇らない。匂いも異常はない。金属の匂いも酸の匂いもしない。
毒ではない。毒ではないがこれは。
「セラン様」
「はい」
「この緑の反物ですが、色止めが効いていません」
広間の音が全部、俺の口のほうへ集まった。
下働きが顔を上げる。マレンさんが階段の途中で体の向きを変える。俺は自分の言ったことの意味を数え直した。継母からの贈り物に難がある、と使用人が言った。この屋敷の作法では、たぶんいちばんやってはいけないやつだ。
「濡れると落ちます。汗でも落ちます。肌に色が残りますし、他の布を汚します」
「……そうですか」
「毒はありません。そこははっきり申し上げます。品として出来が悪いだけです」
セラン・ヴァルドレイは、俺の手元の白い布を見た。
緑が移った布を見て、それから俺の顔へ視線を戻す。
その間、笑顔が一度も動かなかった。
人は驚くと目が開く。腹が立つと眉が寄る。恥ずかしければ視線が落ちる。この人はどれもしなかった。顔の上に置いてある笑顔と、その下で起きていることが繋がっていない。
「母に伝えます。染屋を替えさせましょう」
「お手数をおかけします」
「いいえ。あなたのおかげで、母が恥をかかずに済みました」
手の甲の皮膚が風もないのに縮んだ。
広間の石はまだ熱を持っている。この人が来てから何も変わっていない。変わっていないのに、俺の体は寒いほうへ勝手に判定を出している。
「毒見役の方。もう一つ、うかがってもよろしいですか」
「どうぞ」
「兄上は、召し上がった後にお加減を崩されることはありますか」
「ございません」
「残されることは」
「決められた量を決められた時刻に召し上がります」
「お好きなものは、何かおありですか」
3回目が来た。
角度を変えて同じ場所を突いてくる。兄の体の状態、食欲の増減、嗜好。並べれば、それは献立の設計に必要な情報だ。同時に、盛る側にとっても必要な情報だった。
俺は答えの形を選んだ。
「セラン様。俺は毒見役でして、閣下の口に入るものを検めるのが仕事です。何を召し上がりたいかは、閣下がお決めになります」
「まあ。それはそうですね」
「はい」
「あなた、面白い方ですね」
この人は本当に楽しそうに笑った。
楽しそうなのに、目の下の皮膚が一つも動かない。
見送りに回廊まで出た。
ヴァルドレイ邸の回廊は柱と柱のあいだに壁がなくて、中庭の空気がそのまま通り抜ける。夏の夜は虫の声が入ってきた場所だ。今日は乾いた風だけが入ってくる。林のほうから、枯れはじめた葉の匂いが混ざっている。
セラン・ヴァルドレイは中庭を眺めながら歩いた。
「懐かしいです。子どもの頃、ここで兄上と走りました」
「ご一緒に育たれたんですか」
「少しだけ。私が離れへ移るまでの、短いあいだです」
その声だけがほんの少し薄い。
笑顔の下から出てきた最初の言葉らしい言葉だった、と思う。思ったところで、次の一言でまた元に戻る。
「離れのほうが体にいいと、母が申しましたので」
回廊の角を曲がったところで、足音が正面から来た。
クレイス・ヴァルドレイだった。
書斎から出てきたところらしい。袖に紙の粉がついている。俺たちを見て、それから立ち止まった。
「兄上」
セラン・ヴァルドレイが頭を下げた。深すぎず、浅すぎない角度。作法の教本があるならこの角度が載っている。
「反物を届けに参りました。母から冬のぶんです」
「そうか」
「お加減はいかがですか」
「変わりない」
会話が3往復で尽きた。
この人たちのあいだには、話す材料がほとんど残っていない。血のつながった兄弟が、天気の話より短い会話で終わっている。
セラン・ヴァルドレイは俺のほうへ手のひらを向けた。
「兄上。こちらの方が、たいへん良い仕事をなさいました。反物の一つに難があったのを見つけてくださって」
「聞いた」
「新しい毒見役の方ですね。お名前は、なんとおっしゃるのですか」
俺は口を開けた。
開けたところで、名乗る前に前が塞がった。
クレイス・ヴァルドレイが半歩前へ出て、俺と弟のあいだに立っている。動作としては大きくない。回廊を歩く人が立ち位置を少し変えた、その幅しかない。
「うちのだ」
風が柱のあいだを抜けた。
「……はい?」
「うちのだ」
二度目のほうが短い。
セラン・ヴァルドレイは瞬きを一つ入れて、それから笑った。今日いちばん自然な笑い方に見えた。
「そうですか。うちの、ですか」
「日が落ちる。林は暗い」
「はい。母が待っておりますので」
弟は頭を下げて、回廊の先へ歩いていく。
背中が中庭の向こうへ消えるまで、俺の横の人は動かなかった。俺も動けなかった。
「閣下」
「なんだ」
「うちの、というのは」
「行くぞ」
答えないまま歩き出す。
俺は少し遅れてついていった。ついていきながら、さっきの一言を頭の中で並べ直している。
うちの。
名前も役職も出てこなかった。
俺の名前を覚えていないのかもしれない、と最初に思った。次に、それはないなと思った。この人は俺を名で呼ぶ。呼ばれた回数なら俺のほうが数えている。
じゃあ何なのかというと、そこから先が続かない。確かめる方法もない。聞いたところで行くぞとしか返ってこないのは、たった今、実演されたばかりだ。
乱暴な言い方だと思う。使用人を持ち物みたいに扱う言い方だ。
思ったのに、耳のうしろが熱くなっている。
夜になっても風は乾いたままだった。
寝台に腰かけて、俺は自分の腕をさすっていた。トビが毛布を引き寄せながら、こっちを見て笑う。
「ユエル、寒いの? まだ秋になったばっかりだよ」
「寒いというか、なんだろうな」
「なに」
「笑ってる人間のほうが読めない、って話」
「なにそれ」
うまく説明できなかった。
俺が昔から苦手なのは怒鳴らない人だ。怒鳴らないまま、こちらの手札だけを数えて帰っていく。数えられていることに、こっちは帰られてから気づく。
弟が笑うと部屋が冷える、なんて言い方はどこでも聞いたことがない。
聞いたことがないのに、俺は今日、袖の内側を何度もさすっている。




