第12話「匂いが変わった、と言えるのは俺だけ」
14本あった。
棚の一段を丸ごと使って、細長い硝子の瓶が14本。蝋で封をしたものが13本と、封を割ったものが1本。並びは背の順でも新しい順でもなく、届いた季節の順に左から詰めてある。
俺は数えるために来たわけではない。数えたのは体が勝手にそうしたからだ。
「毒見役。運び終えたら、すぐに下がりなさい」
「はい」
階段の下からマレンさんの声が飛んできて、俺は返事だけを丁寧にした。
秋のぶんの香油が届いたのは昼過ぎだった。玄関の滑車がきしんで、旅装の使者が木箱を置く。離れの奥様からでございます、と決まった文句を残していく。夏に来たのと同じ形の箱だ。中身も同じ。月桂樹の香油。
運べ、と言われた前例がある以上、行き先は決まっている。私室だ。
だから俺は今、公爵の私室にいる。
思っていたよりも、何もない部屋だった。
寝台が一つ。卓が一つ。椅子が一脚。棚が2つ。壁には紋章の織物も剣も掛かっていない。
俺は勝手に数えはじめていた。昔いた職場に、寮を出る人間の部屋を見て回る係というのがあって、俺はそれをやらされていた。備品と私物を分ける。壁の釘の数まで数える。癖というのは死んでも抜けないらしい。
寝台、備品。卓、備品。椅子、備品。棚、備品。窓の桟、これは建物だ。
この部屋、今日引っ越してきましたと言われたら俺は信じる。信じたうえで、荷ほどきを手伝いましょうかと言う。
実際にはこの人は2年ここに住んでいる。
20歳の公爵当主が寝起きする場所として、これは少ない。
少ないというのは、自分のために何かを買った回数が少ないということだ。
その部屋の中で、香油の棚だけが埋まっている。
人が自分のために何も置かない部屋に、他人から届いた贈り物だけが並んでいる。この構図を俺はしばらく飲みこめなかった。
新しい瓶を、俺は列の右端に置いた。これで15本になる。
置いた手を引くとき、封を割った1本が視界に入った。
夏に俺が蝋を起こして、栓を回して、匂いを嗅ぎかけたところで手首を掴まれたやつだ。あのあと誰も封をし直していない。栓は載せてあるだけで閉まってはいない。
俺は栓を持ち上げた。
匂いが上がってくる。
……違う。
瓶を持つ指の力が勝手に強くなった。
夏の日、玄関広間で嗅いだのはこういう匂いではなかった。乾いた葉と樹脂。焦げる寸前の木の皮に近い、太くて温度のある匂いだ。俺はそれを鼻の奥に入れて、そのあとで手首を掴まれた。掴まれたから、あの匂いは強く残っている。
いま上がってくる匂いには樹脂の太さがない。
葉の匂いは残っている。残っているのに、その下に別の線が一本走っている。濡れた石の匂いに近い。雨の日の井戸の底を遠くから嗅いだときの感じだ。
俺は栓を戻して、隣の瓶を取った。
こっちは封が生きている。蝋の縁に鼻を寄せると、隙間からわずかに漏れてくるものがある。乾いた葉と樹脂。夏に嗅いだやつだ。
次の瓶も同じ。その次も同じ。左端の、いちばん古い瓶まで確かめた。
13本は同じ匂いがした。
封を割った1本だけが違う。
「何をしている」
声が扉のほうから来た。
クレイス・ヴァルドレイが立っていた。いつからそこにいたのかは分からない。この人は足音を落として歩く癖がある。抜き打ちで現場を見に来る人間の歩き方だ。
「閣下。ご報告があります」
「言え」
「この瓶の匂いが変わっています」
俺は封を割った1本を卓へ置いた。
この人は近づいてきて、瓶を見た。手には取らない。取らないのはたぶん命令したのが自分だからだ。使うな、と言った人間が触るわけにはいかない。
「どう変わった」
「夏に届いた日、俺はこれの口を開けて匂いを嗅ぎかけました。そのときの匂いを覚えています。乾いた葉と、樹脂の匂いでした」
「今は」
「樹脂が薄いです。かわりに、濡れた石のような匂いが一本入っています」
「毒か」
「分かりません」
自分でも情けない返事だと思う。けれど嘘をつくわけにいかない。
「銀は」
「曇りません。色も変わっていません。湯へ一滴落としても、油の分かれ方は他の瓶と同じです。紙に垂らして乾かしても、染みの縁が変わりません」
「では、何もない」
「俺の道具では何も出ません。それと、何もないことは別です」
言いながら、瓶を持っていたほうの手のひらが冷たくなっているのに気づいた。
井戸端でトビに言ったことを思い出している。匂いもせず色も濁らず、銀も黒くならない毒があったら、俺はどうやって見つけるのか。あのときトビは見つけようがなくない、と言った。
今の俺はその手前に立っている。匂いだけが違う。匂いだけで、他の道具が何も言わない。
「閣下。もう一つ申し上げます」
「言え」
「封を割ったのは俺です。空気に触れたから匂いが変わったのかもしれません。油は放っておけば変わります。前の仕事でも、封を切ったものは日ごとに匂いが落ちました」
「では、お前の落ち度か」
「その線が消せません」
この人は瓶から目を離して、俺を見た。
窓の外はもう暗い。卓の油皿の灯りだけが部屋を照らしていて、この人の顔の右半分に影が落ちている。目の色は薄い灰で、その色は暗いところだと余計に薄く見える。
「触るな」
「はい」
「誰にも触らせるな。この部屋の掃除を止める。マレンに言え」
俺は口を開けて、そのまま止まった。
早い。判断が早すぎる。
「閣下。お待ちください」
「なんだ」
「証拠がありません。俺が持っているのは、夏に一度嗅いだ匂いの記憶だけです。書き留めたものもありません。他に確かめられる人間もいません」
「それで」
「匂いが違うと言っているのは、この屋敷で俺一人です」
言い終わってから、自分の声が少し震えているのに気づいた。
証拠を出せ。記録はあるのか。お前の主観だろう。同じ言葉を俺は数えきれないほど浴びてきた。浴びるたびに、自分の鼻より紙のほうが強いということを覚えた。
この人はしばらく黙っている。
それから、当たり前のことを言うみたいに言った。
「お前が違うと言った」
「……はい」
「他に何が要る」
要らないらしい。
喉のあたりが変な具合に詰まった。
返事をしようとして、言葉が二つ出かかって、両方とも違った。この人は今、俺の鼻一つを根拠にして、自分の部屋の掃除を止めた。もし俺の記憶違いだったら、この人は使用人の勘違いで生活を変えたことになる。責任の全部が俺の鼻の上に乗った。
こんな重い信じられ方をしたことは、前世を通しても一度もない。
「閣下。もう一つだけ、よろしいですか」
「言え」
「この瓶、なぜ捨てないんですか」
油皿の火が芯の音を立てて少し縮んだ。
「捨てると、次が来る」
「……次」
「気に入らなかったのだと受け取られる。次は違う形で来る。形が変われば、こちらは見つけにくくなる」
「じゃあ、疑っておられるんですね。ずいぶん前から」
「言っていない」
「言ってませんけど、そういう並べ方です」
この人は答えなかった。
俺は棚をもう一度見た。15本。季節の変わり目ごとに一度ずつ届いて、届いたぶんだけ左から詰められている。何年ぶんかは数えれば分かる。数えなくてもこの人が何をしてきたかは分かる。
疑いながら並べていた。並べたまま、何もしていない。
俺なら、この棚を見るたびに眠れない。この人は毎晩ここで寝ている。
相部屋の戸を開けると、昼のうちに閉じこめられた熱が抜けたあとの空気が来た。この部屋は夜のあいだだけ涼しい。
トビが寝台の上で膝を抱えていた。膝の抱え方が前のめりなので、また何か仕入れてきたのだと分かる。
「ユエル。閣下の部屋、掃除禁止になったって本当?」
「早いな」
「洗い場は速いんだって。掃除の子が泣いてた。自分が何か割ったのかと思ったって」
「割ってない。俺のせいだ」
トビが膝を下ろした。
「え、なんで」
「俺が閣下に報告した。それで止まった」
「何を報告したの」
俺は寝台に腰を下ろして、靴を脱ぐふりをした。
言えるわけがない。この屋敷で匂いが違うと言っているのは俺一人で、その一人が根拠を持っていない。人に渡せるものが手元にないのに、話だけを渡すのがいちばん危ない。
「言えない」
「えー」
「悪い。言えないんだ」
トビはしばらく口を開けたまま俺を見ていた。それから膝を抱え直して、寝台の上で少し丸くなる。
「……いいよ。聞かない」
「悪いな」
「あのさ。僕、言わないよ」
「何をだよ。今、何も言ってないだろ」
「何かは知らないけど。知らないまま言わないほうが強いって、洗い場のおばさんが言ってた。持ってる話は財産だから、安売りするなって」
その理屈が正しいのかどうか俺には分からない。分からないまま、息が少しだけしやすくなった。
「トビ」
「なに」
「ありがとう」
「べつに。……で、証拠はあったの」
「ない」
「ないのに閣下、掃除やめさせたの」
「やめさせた」
トビはしばらく黙って、それから小さい声で言った。
「なんで信じるんだ、あの人」
俺は答えを持っていなかった。
持っていないので天井の梁を見た。答えのない質問をされたとき、俺の目は昔から上へ行く。上には何も書いていない。
「僕がさ」
「うん」
「僕が同じこと言ったら、どうなると思う?」
「……」
「たぶんね、何も起きないよ。あなたが知る必要はありません、ってマレンさんに言われて終わり。掃除の子だって止まらない」
トビの声はいつもの調子だった。いつもの調子で、内容だけが平らじゃない。
「トビ」
「なに」
「俺、もし間違ってたら首が飛ぶぞ」
「怖くないの」
「怖い」
「怖いのに言うんだ」
「言わないほうが怖い。黙って、後で何か起きたら、俺は自分の仕事を一生疑う」
トビは寝返りを打って、壁のほうを向いた。
油皿の炎が細くなって、部屋の輪郭が丸くなる。しばらく虫の声だけが窓から入ってきて、それも秋になって数が減っている。
壁のほうから声がした。
「……ずるいよ、ユエルは」
「どこがだ」
「言えば聞いてもらえるとこ」
「聞いてもらえるとは限らないだろ」
「限ってるじゃん。もう2回も」
2回。数えてたのか、と言いかけて、俺は口を閉じた。
この屋敷ではみんな何かを数えている。皿の枚数、賭けの日数、瓶の本数。数えたものを胸の中でどう扱うかだけが人によって違う。
「トビ」
「なに」
「ごめん」
「……なにが」
俺にも分からなかった。
分からないまま謝ったのをトビは壁を向いたまま笑い飛ばす。笑い方がいつもより短い。
「ばか。あやまるとこじゃないでしょ、そこ」




