第13話「【Side クレイス】食卓に座らせるな」
俺の食卓には椅子が2脚しか出ていない。
片方が当主の席で、そこに座るのは俺だ。もう片方は毒見役の席になる。そこに座る男を今夜のうちに片づける。
書斎の卓には塩蔵の帳簿を7冊積んである。革の背が乾いていて、めくるたびに埃の匂いが立つ。秋の勘定は面倒だ。夏に汲んだ海水の量と、乾かした塩の重さと、樽に詰めたぶんの目減りが合わない月がある。合わない理由はたいてい人にある。
数字はいい。
数字は嘘をつかない。書いた者が嘘をついても、数字を並べれば嘘のほうが動く。俺が読めるものは、この家にはあまり多くない。
扉が叩かれた。
「閣下。ご報告に上がりました」
「入れ」
毒見役が入ってくる。
この男の入り方は毎回同じだ。扉を半分だけ開けて、体を先に入れて、それから扉を閉める。音を立てない。使用人の作法としては正しいのに、正しさの出どころが分からない。平民の生まれで字が読める。書式の話が通じて、鼻がいい。どこで身につけたのかを聞いたことはない。
「今日の昼と夕の分、異常ありませんでした。銀も曇っていません」
「そうか」
「香油の部屋は、マレンさんが鍵をかけました。掃除は止まっています。窓を開けるのも止めました。空気を動かすと、匂いの比べようがなくなるので」
「分かった」
「あと、明後日の献立ですが、ドランさんが根菜を多めに使うそうです。秋のものが入りはじめたので」
「そうか」
毒見役は上着を新しくした。マレンに仕立てさせたやつだ。袖の丈が合っている。前のものは袖口が擦り切れていて、卓の上で腕を伸ばすたびに糸が引っかかっていた。
腰の紐の位置が雇った日より内側へ寄っている。痩せた。
あの席の飯は俺が匙を入れた時点で消える。皿ごと消えるのではなく、この男の口へ行くはずだったぶんだけが消える。それは知っていた。知っていて、皿を取り続けている。
途中から、卓へ皿を一枚増やさせた。増やしたことは言っていない。言えばこの男は理由を聞く。理由を聞かれたところで、俺は答えを持っていない。
この男は数える。
皿の枚数を数え、瓶の本数を数え、俺が匙を口へ運ぶ回数まで数えている。数えたものを全部ここへ持ってくる。誰も頼んでいない。
俺は羽根ペンを置いた。
「ユエル」
「はい」
「お前は、なぜ毎晩ここへ来る」
「報告が仕事なので」
「報告しろと言った覚えがない」
毒見役は少し黙った。それから、当たり前のような顔で言った。
「言われてないですけど、やめる理由もないので」
理屈になっていない。
「やめろと言えば、やめるのか」
「やめます」
「では、やめろ」
「はい。明日から、昼と夕をまとめて一度でご報告します」
やめていない。
俺は口を閉じた。言葉の順番を組み替えて、もう一度出せばいいのだと分かっている。分かっているのに、次の一手が出てこない。この男と話していると、こういうことが起きる。話の軸がずれているのではなく、俺の側に返す型がないだけだ。
「閣下。一つだけ、明日のことをうかがってもいいですか」
「言え」
「明日の夕食、俺が先に食べていいですか」
この男はいつもそれを聞く。
「毒が入っていたら、俺が食います。それが仕事です」
卓の上の帳簿の角が視界の端で歪んだ。
木の匙が卓に当たる音がした。
この部屋ではない。もっと低い天井の、もっと小さい卓だ。湯気の匂いがする。俺がもう何年も嗅いでいない種類の匂いだ。俺の目の高さより下につむじがある。旋毛の巻き方まで覚えている。
先に食べます、と声がした。今より高い声だ。
白い皿が卓の上を滑ってきた。
食え、と誰かが言った。
そこで止める。
俺は羽根ペンを取って、帳簿の欄へ数字を一つ書いた。書いた数字は間違っていた。消して書き直す。
「閣下?」
「なんでもない」
「顔色が」
「下がれ」
「まだ返事をいただいておりません。明日の——」
「下がれ」
毒見役は口を閉じて、頭を下げて、扉を半分だけ開けて出ていった。
閉まる音がしない。この男は最後まで音を立てない。
俺は帳簿を閉じた。
この男を食卓に座らせるな。
結論はとうに出ている。出ているのに、俺は3か月それを実行していない。実行しない理由を毎晩ひとつずつ作って、翌朝それを捨てている。
毒見役という役職は、雇い主のために先に死ぬ役職だ。
俺の家ではそれが実際に起きる。噂ではない。この家に毒見役が何人来て、何人が辞め、何人が運ばれたか。マレンは数えている。俺は数えていない。数えないことにしている。
数えないことにしている人間が数える男を雇っている。
執務室は昼に閉めたきりだった。灯りを入れると、閉じこめられていた紙とインクの匂いが一度に立つ。
マレンを呼んだ。この時刻に呼べば何ごとかと思うはずなのにこの女は驚かない。先代の頃から夜中に呼ばれ慣れている。
「若様。お呼びでございますか」
「解任状の書式を出せ」
マレンの手が鍵束の上で一度止まった。
それきりだった。この女はそこから何も聞かずに書棚へ行き、下の段の箱から紙を1枚抜いて、卓へ置いた。
「こちらでございます」
「書き方は」
「理由と、日付と、ご署名がございます。日付は書かれた日をお書きになります。署名のないものは紙切れでございます」
「知っている」
「存じております」
俺は羽根ペンを取った。
日付を書いた。これは書ける。今日が何日かは帳簿を見れば分かる。
その上の行に、理由を書く場所がある。
書けるものがない。
職務怠慢ではない。この男は職務をやりすぎている。能力の不足でもない。あの鼻はこの屋敷の誰も持っていない。不敬でもある気はするが、不敬で毒見役を切る家は毒で潰れる。
書けるものが一つだけある。書けば、それが本当のことになる。
この男は俺の食卓で死ぬ。
俺はペンの先を紙から離した。
インクが一滴落ちて、紙の上でにじんだ。押さえ紙を当てて吸い取る。跡は残った。
「若様」
「なんだ」
「理由をお書きにならなくても、書式としては通ります。日付と署名があれば足ります」
「そうか」
「はい」
助け船のつもりなのかもしれない。この女はときどき、こういう形の言い方をする。
俺は署名の行にペンを下ろした。
下ろした。それきり手が動かない。
自分の名を書くだけだ。ヴァルドレイの当主として、これまで何千回と書いてきた。塩の売買にも領内の割り当てにも、王家への上申にも書いた。手が覚えている。手が覚えているのに今夜だけ動かない。
書けば、あの男は明日から食堂へ来ない。
来ないほうがいい。俺の食卓に座らせておけば、いずれ皿が回ってくる。回ってきた皿を、あの男は取り上げられても取り返しにくる。鉢の縁を掴んで離さない男だ。
だから切る。
切れば、あの男は次の家へ行く。次の家では毒見をさせられる。あの家の主人は皿を取り上げない。
……それは俺の勘定に入れる話ではない。
妹がいると言っていた。冬の薪を買う金が要ると。切れば、その金が止まる。
……それも俺の勘定に入れる話ではない。
言い訳を2つ並べて、2つとも自分で崩した。崩したのに、ペンの先は紙から離れない。
俺は目を閉じた。
明日の夕食の卓を思い浮かべる。椅子が1脚。長卓の端に俺が座って、皿が並んで誰も何も言わない。
俺が生まれてからこの家で続いてきた光景だ。
思い浮かべられなかったのは、そこに俺が座っている絵のほうだった。
美味しいですか、と聞かれた夜のことを、俺はまだ手放せていない。
あの問いに答えられなかった。答えられないことが分かった。分かってしまったものは、分かる前に戻せない。
この男を食卓に座らせるな。
座らせなければ、二度と聞かれない。
ペンの先からインクがもう一滴落ちた。
「若様」
「……」
「本日中に、お渡しになりますか」
渡せば、この男は明日から食堂へ来ない。来ないほうがいい。
ほうがいい、という言葉を俺は今夜すでに何度も使った。使って、一度も手が動いていない。
俺はペンを置いた。
紙を持ち上げて、日付だけが書かれた解任状を眺めた。理由もない。署名もない。マレンの言うとおり、これは紙切れだ。
「いや」
「かしこまりました」
「置いていけ」
紙を引き出しへ入れた。鍵をかけて、鍵を懐へ落とす。
マレンは何も言わなかった。それから扉のところで振り返った。
「若様」
「なんだ」
「……いえ。おやすみなさいませ」
扉が閉まった。
この女が言いかけてやめるのを、俺は昔から知っている。昔から知っていて、一度も聞き返したことがない。聞き返せば、この家の古い話が出てくる。
俺は暗くなった執務室で、引き出しの取っ手に指を置いた。
書式はいくらでもある。明日また取り寄せればいい。




