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悪役公爵の毒見役に転生したら、閣下が俺にだけ甘い  作者: 夜凪 蒼


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第14話「二十年ぶんの一皿」

その朝、井戸の水が痛かった。


 夏のあいだは冷たいだけだった。今朝はつめたさが手の骨まで届いて、桶を引き上げたところで指の関節が固まる。銀の毒見皿を落としそうになって、俺は慌てて両手で抱え直した。


 季節が変わる日は、暦ではなく体のほうが先に知らせてくる。


「ユエル。今日、出るよ」


 トビが洗い場から顔を出した。手が泡だらけのまま、肘で戸を押さえている。


「なにが」


「ドランさんのあれ」


「あれって何だよ」


「秋のいちばん最初に冷えた日にだけ作るやつ。塩漬け肉と根菜の煮込み」


 俺は桶を置いた。


 この屋敷の献立は俺の頭に全部入っている。実験に使った板の裏に、雇われた日から朝と昼と夕に何が出たかを書きつけてきた。塩漬け肉と根菜の煮込みという文字は、一度も書いていない。


「聞いたことないぞ」


「そりゃそうだよ。今年まだ出てないもん」


「毎年出るのか」


「毎年。1回だけ。冷えた日を決めるのはドランさんで、決めた日の朝から仕込みが始まる」


 トビは泡を落として、声を少しだけ落とした。


「あのね。あの皿、いつも同じだけ減って戻ってくるんだ」


「同じだけ」


「ひと匙。閣下、ひと匙だけ召し上がって、あとは残される」


 背中の産毛が動いた。


 毎年1回。ひと匙。


 量が決まっているというのは、意思が入っていないということだ。決めた誰かが最初にいて、あとはその決まりが皿を減らしている。


「ドランさん、それでも作るのか」


「作るよ。もう何年も」


「何年」


「知らない。僕が来る前から」


 厨房に下りたのは、鐘が3つ鳴る前だった。


 竈に火が入っている。奥の樽が一つ、いつもより前へ引き出されていた。ドランさんが樽の蓋を外して、中から布に包んだ塊を持ち上げる。塩漬けの肩肉だ。表面に塩が結晶になって白く浮いている。


 この人は俺を見た。見ただけで何も言わない。


「ドランさん。今日のあれ、手伝わせてください」


「触るな、毒見役」


「切るだけでも」


「触るな」


 言葉は短いのに、追い出し方には昨日までの棘がない。この人は俺の顔ではなく、樽と鍋のあいだにある空気を見ている。


 俺は樽の陰まで下がって、そこから見ていた。


 塩を抜くのに水を3度替える。抜きすぎると味が薄くなり、抜かなすぎると塩しか残らない。この人は水の色を見ない。指を入れて、肉の表面を撫でて、それで決めている。前世の工場なら計器を並べて出す判断を、この人は指の腹だけで出している。


 根菜は皮を厚めに剥いて、大きめに割った。煮崩れる寸前まで煮るからだと後で聞いた。


 火は弱い。弱いまま、昼を越えて夕方まで置いておくらしい。厨房の空気に、脂と土の匂いがゆっくり溜まっていく。


 俺はその匂いの中に立って、この人の背中を眺めていた。


 この人が今日、朝から夕まで火のそばを離れないのは、たぶん誰にも頼まれていないからだ。


 夕食の卓にその鉢が出た。


 深い色をしている。汁は澄んでいない。肉から出た脂と根菜の澱が混ざって、濁ったまま落ち着いた色になっている。見た目で人を呼べる皿ではない。並べて自慢するための料理でもない。


 俺は銀の毒見皿へ取り分けた。


 匂いを取る。塩と脂と土の匂い。鼻の奥へまっすぐ入ってきて、その奥でもう一度広がる。色を見る。濁っているが濁り方に均一さがあって、沈殿の粒はない。銀の縁を沈める。白いまま。


 ひと匙。


 ……いや、待て。


 喉を通ってから、俺は匙を持ったまま動けなくなった。


 塩が最初に来ない。最初に来るのは脂で、そのうしろから塩が上がってくる。塩漬け肉なのに塩が後ろに回っている。抜き方が正確なんだ。根菜は煮汁を吸いきっていて、噛むと繊維が舌の上でほどける。ほどけたあとに、土の匂いだけが長く残る。


 濃い。重い。深い。前世で使っていた言葉を全部並べても足りない。


 これを毎年1回だけ作って、ひと匙で戻ってくる。


「異常ありません」


 声が少し掠れた。


 クレイス・ヴァルドレイが匙を取る。


 俺はこの人の食べ方を3か月見てきた。匙を入れて口へ運び、噛んで飲みこむ。速さが一定で、皿の減り方も一定だ。決められた量に達したら手が下りる。


 この人は最初に麦のパンを割った。それから豆の汁。順番も毎回同じだ。


 そして、鉢へ匙を入れた。


 ひと匙。


 噛む。飲みこむ。


 匙が皿の縁に置かれた。


 ……終わりだ。


 俺は板に書きつけるつもりで、指を膝の上で動かした。ひと匙。トビの言ったとおりだ。この鉢が卓へ出るようになってから、たぶんずっと同じことが起きてきた。


 その膝の上の指が止まった。


 匙が動いている。


 置いたはずの匙をこの人がもう一度取っている。


 鉢へ入れた。


 すくった。口へ運んだ。噛んだ。


 俺は息を詰めていた。詰めていたことに、飲みこむ音がしたところで気づいた。


 ふた匙。


 この人は匙を置いて、布で口の端を拭いた。それ以上は手を出さない。鉢の中身は8割以上残っている。


 壁ぎわのマレンさんが水差しを持ったまま動いていなかった。


 この人も数えている。数えていて、たぶん俺より長く数えてきた。


「閣下」


「なんだ」


「今の、二度目でした」


「そうか」


「今まで、ひと匙だったと聞きました」


 クレイス・ヴァルドレイは布を卓へ置いた。置いてから、鉢のほうへ一度だけ視線を落とす。


「……ドランに」


「はい」


 俺は身を乗り出した。乗り出しすぎて、椅子が石の床を鳴らした。


「いや」


「いや、とは」


「なんでもない」


 この人は立ち上がって、食堂を出ていった。


 言いかけて、途中で畳んだ。あの人の言葉は普段から短いのに、今夜のは短いのではなくて、途中で折れている。


 俺は残された鉢を見た。


 8割以上残っている。減ったのはふた匙ぶん。数字にすればみっともないほど小さい。


 でも去年までの数字はひと匙だ。


 厨房へ駆け下りた。


 階段を4段飛ばして、扉に肩からぶつかるようにして入る。竈の火は落ちかけていて、ドランさんは鍋の前に立ったまま、まな板の上の何もない場所を見ていた。


「ドランさん」


「うるせえ。下がれ、毒見役」


「ふた匙です」


 この人の肩が動いた。


「……なんだと」


「今夜、閣下はふた匙召し上がりました。ひと匙のあとに、匙を置いて、それからもう一度取りました」


 天井から下がった鉄鍋が、その動きのぶんだけ揺れて、鍋どうしがぶつかって鳴った。鳴りやむまで、どちらも次を言わなかった。ドランさんは俺のほうへ体を向けないまま口を開く。


「見間違いだろう」


「見間違えません。俺は数えるのが仕事です」


「毒見が仕事だろうが」


「数えるのも仕事です。皿の枚数も瓶の本数も、匙の回数も全部数えます。今夜は二度、匙が入りました」


 ドランさんが振り向いた。


 この人の顔を正面から見たのは、包丁を突き立てられた日以来だ。あのときと同じ目の大きさで中身だけが違う。怒っていない。


「……座れ」


「え」


「そこの薪の箱だ。座れ」


 俺は言われたとおりに座った。この人は自分も薪の箱に腰を下ろして、太い腕を膝の上に置いた。厨房で座っているドランさんを俺はこの日まで見たことがない。


「あれはな。先代の好物だ」


「先代の」


「秋のはじめに冷えた日に作れと言われた。俺が24の年からだ。理由は知らん。あの人は理由を言わん人だった」


「24歳」


「そうだ。ここの厨房に入って4年目だった」


 指を折って数えるまでもない。この人は44だ。20年、同じ日に同じ鍋を火にかけている。


「若様が生まれた年から、あの卓に出してる」


「……はい」


「3つになる前は、皿を空にしてた」


 薪の箱の縁を握った指が、勝手に力を入れていた。


 3つ。


 俺はその数字を知っている。マレンさんが衣装部屋で言った数字だ。若様が毒を盛られはじめたのは3歳のころでございます。量は少なく、間隔は長く、誰にも気づかれないやり方で。


「その年からだ。ひと匙で止まるようになった」


「……」


「はじめは、大きくなって好みが変わったんだと思った。子どもってのはそういうもんだ。2年、3年と経っても、まだひと匙だ。5年目で、俺は自分の腕を疑った」


「それから」


「疑ったまま、今日までだ」


 この人は自分の手のひらを見た。


 節の太い、火傷の跡だらけの手だ。この手で20年、返事の来ない鍋を火にかけてきた。


「作り方は毎年変えた。塩を強くして、次の年は弱くする。根を細く割り、その次は太く割り直す。同じだ。ひと匙で戻ってくる」


「ドランさん」


「この鍋を20年おろしてきた。はじめの3年をのぞいて、減るのはいつもひと匙だ」


 言い終わって、この人は口を閉じた。


 俺は何を言えばいいのか分からなかった。


 言えることは一つある。あなたの腕の問題ではない。閣下は味が分からない。3歳のときから、その舌はほとんど何も拾えない。言えば、この人の20年に説明がつく。


 それを言う権利を俺は持っていない。


 あれはあの人の体の話で、あの人が誰に話すかを決める。俺が持ち出せば、俺は預かったものを勝手に売った人間になる。


「ドランさん」


「なんだ」


「腕の話じゃないと思います」


 この人の眉が動いた。


「なんでそう言える」


「言えません」


「言えねえのに言うのか」


「言えません。でも、思ってます」


 ドランさんはしばらく俺を見ていた。


 値踏みの目だ。厨房で最初に会った日と同じ目で、今日は最後まで戻らなかった。


 値踏みの終わりは、言葉では来なかった。


 この人は膝を叩いて立ち上がる。何も聞かずに竈の前まで歩いて、鍋の蓋を持ち上げた。中にはまだ半分以上残っている。


 問い詰められるより、そのほうがこたえた。


「明日も出してください」


「同じもんを2日続けて出す家があるか」


「あります。今夜からあります」


「勝手なことを言いやがる」


「勝手を言うのが毒見役の仕事です。閣下の口に入るものを決めるのは俺じゃありませんが、口に入れてほしいものを言うのは、たぶん俺の仕事の隣にあります」


 ドランさんは鍋の中を見たまま、何も言わなかった。


 竈の残り火が芯のところで小さく崩れて、赤い粒が灰へ落ちる。塩と脂の匂いがまだ厨房の天井に溜まっていた。


「一つ聞かせろ」


「はい」


「若様は、どっちを取った。汁か、根か」


 俺は目を閉じて、卓の上をもう一度見直した。


 匙の角度。すくった深さ。鉢の中の減り方。あの人の二度目の匙は、鉢の縁ではなく中心へ入っていった。


「根です。中心の、いちばん煮汁を吸ったところを取りました」


「……そうか」


 ドランさんは蓋を戻した。


「明日は根を多めに切る」


「はい」


「肉は薄くする。若様は噛む回数が少ねえ」


 この人も見ている。


 20年、返事の来ない皿を出しながら、この人は卓のほうを見続けていたのだ。俺が3か月かけて数えたものを、この人は20年ぶん持っている。


「ドランさん。俺、明日から仕込みを見ていていいですか」


「勝手にしろ。触るな」


「触りません」


「……ユエル」


 名前を呼ばれた。


 この厨房で毒見役以外の呼ばれ方をしたのはこれが初めてだ。呼ばれ慣れていない側の耳が先に反応して、返事が半拍遅れる。


「はい」


「鍋を見とけ。火は俺が見る」


 厨房を出て、暗い階段を上った。


 二階の廊下の突き当たりに、鍵のかかった扉がある。掃除の止まった私室だ。香油の瓶が15本並んだまま、誰も入っていない。あの匂いの正体はまだ分からないし、林の向こうの離れからは、季節が変わるたびに何かが届く。


 片づいたことは一つもない。


 それでも今夜、17年動かなかった数字がひと匙ぶん動いた。


 毒を見つけるのが毒見役の仕事だ。それは今も変わらない。


 変わらないまま、その隣にもう一つ増えた。あの人に味を届ける。


 鍋はまだ半分以上残っている。明日はもう少し減らす。

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