第15話「毒見役の入れない部屋」
王宮の晩餐会に行った。
正確に言うと、王宮の晩餐会の隣の部屋まで行った。
ヴァルドレイ邸を出たのは朝だ。馬車で半日と聞いていたとおりに半日かかって、王都の門をくぐってからがまた長い。石の坂を上って堀を渡り、そこからもう一度上る。窓の外を流れる壁の色が3回変わったところで、俺は数えるのをやめた。
王宮は遠くから見ると白い。近づくと灰色になる。もっと近づくと、灰色の面に細かい彫りが入っているのが見えてくる。距離ごとに違う顔を出す建物というのは、たぶんそう造ってある。
馬車を降りて、俺は銀の毒見皿を布に包んで抱え直した。
「毒見役の方はこちらでございます」
案内の役人が示したのは、大広間へ続く廊下ではなかった。その手前で左へ折れる、天井の低い短い廊下だ。
「閣下は」
「公爵閣下はこちらから」
役人の手が右を指す。
右と左だ。分かりやすい。分かりやすいものほど、あとから効いてくる。
「役人さま。俺は毒見役です。閣下のお召し上がりになるものを検めるのが仕事でして」
「存じております」
「では、ご一緒に」
「王宮の卓には、王宮の毒見役がおります」
そうだった。
王家の食卓には王家の毒見役がいる。当たり前の話だ。当たり前の話なのに、俺はそれを今日まで一度も考えたことがなかった。自分の職業が世界に一人しかいないと思っていたわけではない。他の家の食卓にも同じ椅子が置いてあるという絵のほうを思い浮かべたことがなかった。
「その方は、腕はいいんですか」
役人が俺を見た。目が丸くなっている。
「……そのような問いをこの場でなさいますか」
「気になりまして」
「20年お勤めでいらっしゃいます」
「20年」
「はい」
勝てない。何一つ勝てる要素がない。
左の廊下へ入る前に、俺は仕事を一つだけ済ませた。
ヴァルドレイ家が持ち込んだ献上の酒だ。領内の南で作らせているもので、木箱に4本、麦藁を詰めて運んできた。これは大広間に入る前に検める。ここまでは俺の管轄だ。
控えの間の隅を借りて、俺は箱を開けた。
封の蝋を確かめる。4本とも縁の形が同じで割れも継ぎもない。栓を抜いて匂いを取る。葡萄の皮と、樽の木と、その奥にわずかな酸。ヴァルドレイの酒は酸が立つ。土に塩気があるからだと厨房で教わった。
銀の毒見皿へ少し落とす。色は琥珀。濁りはない。皿を傾けて縁を見る。曇らない。
ひと口を舌に乗せた。
酸が先に来て、後から渋みが上がってくる。飲みこんだあとに舌の脇が乾く。異常なしだ。
「4本とも異常ありません」
役人が帳面に何か書きつけて、下働きの手へ箱を渡した。木箱が扉の向こうへ運ばれていく。
扉が閉まった。
それで、今日の俺の仕事は終わりだった。
控えの間というのは、要するに待つための部屋だ。
長椅子が壁づたいに並んでいて、そこに他家の従者が座っている。数えると17人いた。扉に近いほうから順に、王家に近い家の者が座る決まりらしい。誰も説明してくれないのに全員がそれを知っていて、新しく入ってきた人間は迷わず奥へ行く。
俺の席は奥から2番目だった。
いちばん奥は空いている。座ってもいいのかと隣の男に聞いたら、真顔で首を振られた。
「そこは、お帰りにならない方のためのお席です」
「え」
「お待ちのあいだにご主人が席を外されて、そのまま連絡のつかない従者がお座りになります」
「そういう席があるんですか」
「ございます」
あるらしい。
王宮には作法が多い。多いうえに、そのほとんどが誰にとっても得にならない形で残っている。前世の職場にも同じ種類の決まりがいくつもあった。誰も理由を知らないのに、破ると全員が困った顔をするやつだ。
水が配られた。水だけだ。
窓の外の日が傾いた。床の石に長い影ができて、その影が壁まで届いて消える。大広間のほうから弦の音が聞こえてくる。人の声はときどき波のように高くなって、また引く。何が起きているのかは分からない。
鐘が2つ鳴った。
俺の腹も鳴った。
「これ、召し上がりますか」
隣の男が懐から包みを出した。堅パンだ。旅装の従者は自分で食い物を持ち歩くのだとこの日に知った。
「よろしいんですか」
「どうぞ。奥のお席の方は長いですから」
俺は礼を言って受け取った。受け取って、包みを開いて、鼻へ近づけた。
小麦とわずかな酸。発酵の入りが浅い。表面の色は均一で、割れ目の内側にも変色がない。指で押すと硬さが一定に返ってくる。カビの匂いはしない。麦の匂いの下から果実の匂いが少し上がってくる——いや、砕いた干し葡萄が混ぜてあるだけだ。
顔を上げたら、長椅子の男が3人ぶん離れていた。
「あの」
「……いえ」
「今のは職業病でして」
「はい」
「毒見役でして」
「うかがいました」
うかがったので離れたのだと分かる。分かるので、俺は堅パンを黙って食った。硬い。歯より先に顎が疲れる。
それから2時間ばかり、俺は壁の彫りを数えて過ごした。
天井近くの繰り形に葉の模様が並んでいて、片側の壁に84。反対側に84。扉の上だけ意匠が違って、そこに月桂樹の葉が3枚彫ってある。ヴァルドレイの家紋と同じ数だ。偶然だろう。この国の紋には月桂樹が多い。
数え終わって、俺はやることがなくなった。
「毒見役の方でいらっしゃいますね」
声が横から来た。
いつのまにか、隣の席に女の人が座っている。年は40の手前くらいで、旅装ではなく屋敷の仕着せだった。襟に糸で縫いつけた印がある。
「ヴァルドレイの、離れの奥様付きでございます」
顎の後ろで筋が張った。
離れ。林の向こうの離れだ。
「ユエル・メリクです。閣下の毒見役をしております」
「存じております。長く続いていらっしゃると聞きました」
「大した日数ではありません」
「96日でございましょう」
俺は自分の頬が動かないように気をつけた。
96日。数字が合っている。俺が雇われた日から今日までの日数だ。俺自身が板に書きつけて数えているから、間違いだとは言えない。
「よくご存じですね」
「賭けの日数と申しますでしょう。屋敷では、そういう遊びがあると聞きました」
「聞きました、というのは」
「風の便りでございます」
風は林を越えない。
この人が知っているということは、誰かが林を越えて運んだということだ。使用人棟の洗い場で回っている数字を、離れの侍女が王宮の控えの間で口にしている。距離としてはずいぶん遠くまで来ている。
「ところで。閣下は、近ごろお加減はいかがですか」
「変わりございません」
「食が細くなられたとは」
「決められた量を決められた時刻に召し上がります」
「お薬などは」
「存じません」
「まあ。毒見役の方でもご存じないのですか」
「薬は医師の管轄です。俺は食卓の管轄です」
女の人は膝の上で手を組み直した。組み直して、それきり次を聞いてこない。ここで引く人は引いたぶんをどこかで取り返しにくる。秋の日暮れより確かなことだ。
大広間のほうで拍手が起きた。
厚い扉ごしでも分かるくらいの音だ。床を伝って靴の底まで来る。何に対する拍手なのかは分からない。誰かが何かを言って、誰かが笑って、誰かが杯を上げている。その中に俺の雇い主がいて、俺の検めていない酒が注がれている。
俺は膝の上の布包みを握った。
中身は銀の毒見皿だ。今夜これを使ったのは、木箱を開けた最初の1回きりだ。
匂いを取る。色を見る。銀を沈めて、ひと匙。俺の道具は全部そろっている。そろっているのに、道具の効く場所が扉の向こうにあって、そこには入れない。
この仕事は卓の上でしか成立しない。
卓に近づけない日、俺は何の役にも立たない男になる。
馬車が動きだしたのは、鐘が4つ鳴ったあとだった。
車輪が坂の継ぎ目を拾って、座面が細かく跳ねる。夜の王都は昼より匂いが強い。燃やした獣脂と、どこかの家の煮炊きと、雨の降る前の土の匂いが順番に窓から入ってくる。
向かいの席にクレイス・ヴァルドレイが座っていた。
外套の襟を立てたまま、腕を組んで目を閉じている。眠っているのではない。この人は馬車の中で一度も眠らない。
「白い葡萄酒だ」
目を閉じたまま、声だけが来た。
「……はい?」
「最初に白。次に赤が2種。魚は川のもので、皮を焼いてあった。肉は鹿だ」
「閣下」
「菓子は蜜と木の実。杯は脚が長い。縁が薄くて、灯りに透かすと中の色に黄が強く出る」
俺は口を開けたまま、返す言葉を探した。
「なぜ、それを俺に」
「お前が検められなかった」
馬車が段差を越えて、座面が一度大きく跳ねた。
「順番は白が2杯。それから赤と魚。また赤に戻って肉。最後が菓子だ。魚の前に水を替えた。俺の右の男は魚を残した」
「残したんですか」
「残した。理由は言わなかった」
「……閣下」
「なんだ」
「その、お味は」
「知らん」
ですよね、と言いかけて、俺は口を閉じた。
この人は味が分からない。その人間が今、一晩ぶんの卓を全部並べて俺に渡している。
色と形。出た順番。隣の男が残した皿。それは俺が毎日やっていることの、味を抜いた形だ。前世の記録係が計器の壊れた日にやる作業でもある。読めない数字の代わりに、読めるものを全部書いて持ち帰る。
楽な作業ではない。俺は知っている。毎日それをやらされていたから知っている。
「閣下。全部、覚えて帰ってこられたんですか」
「覚えた」
「なんのために」
返事が来ない。
外套の襟が動いて、目が開いた。窓の外を一度見て、それきりまた閉じる。
「毒見役は、王宮の卓には入れん」
「はい。うかがいました」
「あの部屋は俺の裁量ではない」
息を吸う場所を見失った。
この人は決めるほうの人だ。屋敷では決めたとおりの形で物が動く。その人が今、自分の手の届かない場所の名前を言っている。
言い訳ではない。言い訳をする人間は言葉が増える。この人の言葉は増えていない。増えないまま、俺が入れなかった部屋の中身が全部こちらへ渡されている。
これは詫びだ。
詫びの言葉を持たない人間は、卓を丸ごと運んでくるほうを選んだらしい。
「閣下」
「なんだ」
「次からは、お品書きを紙に書いていただけると助かります」
「書けと」
「はい。俺、記録係でしたので。書いたもののほうが強いんです」
しばらく、車輪の音だけが続いた。
「……考えておく」
この人の「考えておく」を、俺は今まで3回聞いている。3回ともそのまま実行されている。皿の数も掃除の停止も報告の回数も。
窓の外の林が切れて、屋敷の灯りが見えはじめた。数えると4つある。厨房。玄関。二階の廊下。書斎。
聞きたいことが一つあった。
次にあなたがあの部屋へ入るとき、俺はどこまで一緒に行けるんですか。
声を出す前に馬車が門をくぐって、質問は俺の手元に残った。




