第16話「誰が汲んだ水かは、誰も知らない」
毒見役の職務規定に馬術の項目はない。
ないことを俺は今日まで確認していなかった。確認していなかったのに、ないという前提でここまで過ごしてきた。前世の仕事なら、報告書の一行目に書かれる種類の抜けだ。
「毒見役。荷駄のほうへお乗りなさい」
マレンさんが庭で采配を振っている。秋の狩りに出るというので、屋敷の前は朝から人と馬でいっぱいだった。
「荷駄でいいんですか」
「馬に乗れる方は馬へ。乗れない方は荷へ」
「助かります」
「助かる話ではございません。荷は遅れます」
遅れてもいい。俺は落ちなければそれでいい。
狩場は屋敷から北へ、鐘3つぶんの林の中にある。ヴァルドレイ家の狩りは秋に1回だけで、家中の者と村から雇った勢子が入る。犬は使わない。この家に犬がいないからだ。
俺は荷駄の樽のあいだに尻を落ち着けて、揺れに身をまかせていた。
半分ほど進んだところで車輪が止まった。
前の晩に雨が降っている。林へ入る手前の道が窪んでいて、そこに水が溜まって、泥がひどい練り具合になっていた。車輪が半分沈んで、馬が足を掻いても抜けない。
「毒見役さん、降りてくれ」
「はい」
降りて、押した。押しても動かない。泥が靴の縁を越えて、靴下まで来た。足の指のあいだが冷たい。
「これ、どのくらいかかりますか」
「鐘1つか、2つか」
2つ。
俺は道の先を見た。林の入口はまだ遠い。歩けば着くが着いた頃には向こうの支度が全部終わっている。毒見役が水を検める前に誰かが飲む。
「歩きます」
「その足でか」
その足でだ。
泥を引きずって10歩ばかり進んだところで、前から蹄の音が戻ってきた。
クレイス・ヴァルドレイが馬を横につけた。外套も手袋も泥がはねている。当主が最後尾まで戻ってくる家というのも珍しいのだと、いつかトビが言いそうなことを俺は勝手に思い浮かべた。
「荷はどうした」
「沈みました」
「歩く気か」
「歩けます」
「乗れ」
俺は馬を見上げた。
近くで見る馬は大きい。厩で首を伸ばされたときも大きかったが、鞍の上まで含めて見ると話が変わってくる。俺の頭より上に座面がある。あそこまで人間が自力で上がるという発想自体が無茶なのだ。
「閣下。俺、乗れません」
「知っている」
「知ってて仰いましたか」
「乗せる」
乗せる、の主語がこの人だと気づくまでに、少し時間がかかった。
鐙に足をかけろと言われて、かけた。かからない。泥で滑って、爪先が外側へ逃げる。もう一度やって、もう一度逃げる。次でとうとう膝が変な方向に曲がり、俺は自分の体重を自分で支えられなくなった。
襟の後ろを掴まれる。
地面が遠くなって、視界が一段上がって、気づいたら鞍の前に座っていた。
馬が一歩動く。
靴の底が地面をなくす感覚に、腹の底が追いつかない。
「落ちます」
「落ちない」
「落ちます。理屈ではなく体感の問題です」
「掴まれ」
「どこをですか」
「好きにしろ」
好きにしろと言われて選べる人間がいるなら会ってみたい。俺は鞍の前輪を両手で握った。握った指の関節が白くなっているのが自分でも分かる。
馬が速足に入った。
揺れが縦に来る。背骨が下から順に突き上げられて、歯が当たりそうになった。俺は前輪を握る力を強めて、目を細めて、風の来る方向だけを頼りに姿勢を保った。
後ろから、家中の者たちの馬が追い越していく。
全員がこちらを見た。
見たあと、全員が何も言わずに前を向いた。何も言わないほうがこたえるということを、俺は今日はっきり学んだ。
「閣下」
「なんだ」
「これ、体裁としてはいかがなものでしょうか」
「知らん」
「俺は毒見役でして、公爵閣下の鞍を借りる立場ではないと申しますか」
「黙っていろ。舌を噛む」
黙った。
黙ったところで風が正面から来た。秋の朝の風は林の匂いを運んでくる。濡れた落ち葉と、土と、どこかで焚いている枝の煙。冷たい。頬の表面から熱が持っていかれる。
外套の前が開いて、風が止んだ。
この人が片手で外套の裾を回して、俺の肩まで囲っている。手綱は片手だけになった。
「閣下。手綱が」
「足りる」
足りるらしい。
風が止んだぶん、馬の体温が背中から伝わってくる。この人の外套は屋敷の香りがしない。革と外の空気しかない。
俺は前輪を握ったまま、しばらく何も言えなかった。
言えなかった理由を後で考えて、たぶん寒いと言っていないのに囲われたからだと分かった。言っていないものを見つけるのは俺の仕事のほうだ。取られた気分になる。
狩場の野営地は林が一度切れる窪地にあった。
天幕が3つ。火の場所が2つ。奥に馬をつなぐ縄が張ってある。到着した順に荷が下ろされて、村から雇った勢子が20人ばかり、離れたところで昼の支度をしていた。
俺の仕事はここからだ。
「水はどこですか」
荷を解いている下働きに聞いた。
「あちらの樽です。村の井戸から運びました」
樽が4つ並んでいる。ほかに革袋が11。俺は数えて、順番に番号を振るために炭の切れ端を探した。
「毒見役さん、樽に印はつけないでください」
「なぜですか」
「返すものなので」
俺は樽の並びを頭に入れた。左から順に1から4まで。革袋は結び目の色で分ける。
1つ目の樽。蓋を外して匂いを取る。木と水とわずかに鉄気。井戸の水はどこでも鉄気がする。柄杓で汲んで色を見る。澄んでいる。銀の毒見皿を沈めた。
曇らない。
舌に少し乗せた。冷たい。土の後味が薄く残るだけだ。
2つ目。同じ。銀は白いまま。
3つ目。
銀の縁に色が乗った。
俺はいったん皿を引き上げて、布で拭いて、もう一度沈めた。
縁から内側へ向かって、灰色が黒へ寄っていく。日の光に傾けると、その黒は均一ではなく雲のような濃淡を持っている。
鉱物毒だ。
匂いはしない。色も濁っていない。これは銀という道具が代わりに教えてくれている。だから見つかった。道具が返事をしてくれる範囲に、たまたま入っていた。
舌には乗せない。乗せる必要がない。
「この樽、下げてください。誰も飲まないように」
「え」
「今すぐです」
下働きの顔から色が抜けた。柄杓を持ったまま動かないので、俺は自分で蓋を戻して、樽の上に自分の布包みを置いた。銀の毒見皿の包みだ。これが乗っている樽には誰も手を出さない。
人が集まってきた。
4つ目も検めた。曇らない。革袋も11すべて確かめて、こちらは全部白いままだった。
「3番目だけです」
俺は集まった人間の顔を順番に見た。
「この樽、誰が汲みましたか」
答えが返ってこない。
最初に口を開いたのは、荷を運んだ下働きだった。
「俺は積んだだけです。積むときには、もう樽で並んでました」
「並べたのは」
「厩の者です」
厩番が呼ばれた。
「うちは荷車まで運びました。汲んだのは村の衆で」
村の勢子頭が呼ばれた。
「井戸からは、うちの若い者が汲みました。3人で。どの樽を誰が汲んだかまでは……」
「決めていなかった」
「順番に汲んで、順番に置いただけです」
順番に汲んで順番に置いた。
俺は樽を見た。4つとも同じ形をしていて、同じ木で、同じ箍が嵌まっている。札もない。印もない。3番目という位置は、荷車に積んだ順番の結果でしかない。
5人の手を経ている。全員が「受け取って、渡した」と言う。誰も嘘をついていない。
誰が汲んだ水かは誰も知らない。
厨房ならこうはならない。ドランさんの厨房では、誰がどの鍋に触ったかが分かる。俺が覚えたのはそういう場所の作法で、その作法は屋敷の壁の外まで来ていない。
「ユエル」
声がした。
クレイス・ヴァルドレイが天幕のあいだから出てきていた。人の輪が割れる。
「1つ出ました。3番目の樽です。銀が曇りました。鉱物のほうです」
「飲んだ者は」
「まだいません。俺が先に検めました」
「そうか」
この人はそれきり樽を見ない。
「勢子には、うちの革袋から配れ。井戸の水は使うな」
「かしこまりました」
「狩りは出す」
俺は顔を上げた。
「閣下」
「なんだ」
「お戻りになるべきです」
「出す」
「毒が出ています」
「毒が出るたびに帰る家は、そのうち出ていないことにされる」
言い方が平らだった。
平らなのに、中身は組織の話として正しい。屋敷が動揺した形跡を見せれば、次はもっと踏みこんでくる。前世の会社でも同じ判断を見たことがある。異常が出た日ほど、生産は止めずに記録を残せと言われた。
正しい。正しさのほうが先に片づいて、俺のほうが片づかない。
あのときの生産物は箱に詰めた菓子で、今この人が動かそうとしているのはこの人自身だ。
「閣下。あなたは——」
そこから先が出てこない。
この人に言うべき言葉を、俺はまだ持っていない。持っていないものを口に出すと、たいてい相手を傷つける形でしか出ない。
「なんだ」
「……いえ。革袋の配り方は、俺が見ます」
この人は俺を見た。見て、天幕のほうへ戻っていく。
林へ入ったのは昼過ぎだった。
勢子の声が遠くから重なって聞こえてくる。俺は狩りには出ない。出ても足手まといにしかならないし、火の場所で水と携行食を見張っているほうが仕事に近い。
干し肉を検めて、堅パンを割って、塩漬けの根を齧った。全部異常なし。数えて、板の代わりに手のひらへ書いた。
枝が足りないと言われて、俺は林の際まで拾いに出た。
落ち葉が厚い。踏むと下からじわりと水が上がってくる。この林は湿っている。屋敷の庭とは匂いが違って、こっちは腐葉土の匂いが濃い。青くはない。茶色い匂いだ。
「ユエル」
振り返ったら、トビが立っていた。
枝を1本も持っていない。持ちに来たわけではないという顔をしている。
「どうした」
「……あのさ」
「拾うの手伝えよ」
「話がある」
トビの声が低い。いつもは語尾が上がる。今日は全部下がっている。
俺は枝を抱え直して待った。待つあいだ、トビは自分の靴の先で落ち葉を蹴っている。3回蹴って、4回目で止めた。
「僕、話した」
「何を」
「離れから来た人に」
抱えていた枝が腕の中で滑って、下の1本が落ちた。
「いつだ」
「夏。まだ暑かったころ。……ユエルが香油を運ぶより前」
「何を話した」
「賭けの日数。ユエルが何日生きてるかって聞かれて、答えた」
「ほかには」
「ユエルの給金。いくらもらってるか」
「ほかには」
トビが顔を上げた。目が赤い。まだ泣いてはいない。
「閣下がユエルの皿を取り上げるって」
足の指が靴の中で丸まった。
賭けの日数は屋敷の遊びだ。給金は雇用の条件だ。この2つは外へ出ても悪い噂の材料にしかならない。
3つめが違う。
毒見役が毒見をしていない。公爵はこの3か月半、自分の口へ入るものを自分で先に食べている。それは屋敷の中の笑い話で、外の人間にとっては手順書だ。どこを塞げばいいか、どこが空いているかが書いてある。
「トビ」
「怒ってる?」
「待て。先に聞く。その人、ほかに何を聞いた」
「え」
「聞かれたことを全部だ。答えなかったことも含めて全部」
トビが口を開けた。開けたまま、少し混乱している。
「怒らないの」
「怒ってる。でも順番がある。数えるほうが先だ」
トビは指を折りはじめた。折りながら、思い出すたびに声が小さくなる。
「閣下の食事の時刻。……献立を決めるのは誰か。……ユエルが夜どこで寝てるか。あと、屋敷の鍵をマレンさんが持ってるかどうか」
「答えたのは」
「日数と、給金と、皿の話。あとは知らないって言った。ほんとに知らなかったから」
「香油の話は」
「してない」
俺はそこで息を吐いた。
「絶対にか」
「絶対。あれはユエルが言わなかったし、僕、あのとき何も知らなかった」
本当だ。
あの人が掃除を止めたのは秋に入ってからで、俺はトビに何も渡していない。渡せるものがなかったから渡さなかった。あのとき自分が黙ったことを、俺は今日ようやく仕事だったと言える。
「なんで話したんだよ」
聞いてから、声が思ったより硬いのに気づいた。
「お金くれた。3枚」
「使ったのか」
「使ってない。まだ持ってる」
トビが袋を出した。麻の小さい袋で、口を紐で縛ってある。振ると音がする。夏から秋まで、この音を毎晩枕の下で聞いていたことになる。
「使えなかったんだ。使ったら、なんか、確定するから」
「何が」
「僕がユエルを売ったのが」
落ち葉の上に、俺は枝の束を下ろした。
腰を落として、そのまま座った。膝の下が湿っている。冷たいのはさっきから分かっていて、今さら気にする気になれない。
「トビ。なんで俺の話ばっかりしたんだ」
「向こうが聞いたから」
「向こうが聞かなかったら」
トビが黙った。
林の上のほうで鳥が鳴いて、枝が揺れる音がした。勢子の声はもう遠い。
「……聞かれたのが嬉しかったんだよ」
「うん」
「僕、生まれたときからここにいるんだ。洗い場も厩も全部知ってる。誰も僕には何も聞かない。ユエルは外から来て、3か月で閣下の隣に座ってる」
「座らされてるだけだぞ」
「同じだよ」
同じではない。同じではないと言い返すことはできる。できるがトビにとって違いのないところで違いを主張しても意味がない。
「僕、ユエルが死ぬほうに賭けてないから」
「そこは賭けとけよ。儲かったのに」
「賭けてないってば」
トビが袖で顔をこすった。こすってから、こすったことを隠すみたいに横を向く。
「言わないよ、って言ったあとに思い出したんだ。前に言ったやつのこと。それから、なんか」
なんか、のあとが続かなかった。
俺は自分が何を感じているのかを確かめようとして、うまくいかなかった。怒りはある。恐怖もある。どちらが上かを決めようとすると、両方が同じ高さで並ぶ。
1つだけはっきりしているのは、この告白が今日でよかったということだ。トビが黙ったまま冬まで持ち越していたら、俺は塞ぐべき穴の場所を知らないまま卓に座り続けていた。
「トビ。その3枚、返しに行くか」
「行けない。相手、王宮に行ってる」
「王宮」
控えの間の長椅子と、襟の印を思い出した。年は40の手前。膝の上で手を組む癖。あの人が聞いていたのは閣下の加減と薬のことだ。トビから買った情報の続きを、あの人は俺の口から取りに来ていた。
取れなかったから、あの人はまた別のところへ行く。
「返さなくていい。持っとけ」
「なんで」
「使いたくなったら使え。使いたくならなかったら、それはお前の話だ。俺が決めることじゃない」
トビが枝を1本拾った。拾って、俺の抱えていた束の上に置く。それから2本目へ手を伸ばした。
林の奥はもう暗い。俺たちはしばらく黙って枝を拾って、腕がいっぱいになるまでそれを続けた。
持っているものを数えるのが俺の仕事だ。皿の枚数も瓶の本数も匙の回数も数えてきた。
自分が誰かに妬まれるほどの何かを持っているとは、その勘定に入れたことがなかった。




