第17話「分からない毒が、たしかにある」
王都の裏通りに、看板を出していない店がある。
教えてくれたのはマレンさんだった。毒に詳しい人を知りませんかと聞いたら、この人はしばらく黙って、それから鍵束を持ち直して言った。
「毒見役。知って得をする名ではございません」
「損はしますか」
「たいへんいたします」
「では教えてください」
その受け答えで通ったのが今でも不思議だ。マレンさんは名と場所を口で言って、書いたものは渡さなかった。書かなければ残らないという判断だと思う。この屋敷の人はみんなどこかで俺と同じ商売の癖を持っている。
王都へは閣下の用に乗せてもらった。
塩の割り当てで王家へ出す書きつけがあるらしい。屋敷から馬車で半日、着いたのは昼前で、書役の建物へ入るこの人と俺はそこで別れた。
「鐘2つで戻る」
「はい」
「一人で歩くな、とは言わん。迷うな」
「迷いません」
迷った。
裏通りは同じ形の家が続いていて、目印になるものが少ない。しかも探しているのは看板のない店だ。看板がないものを看板で探すことはできない。
結局、乾いた草の匂いで見つけた。
戸を開けると、天井から草の束が何十も下がっている。壁は床から天井まで棚で、瓶と壺が詰まっていた。奥に卓が一つ。そこに男が座って、擂り鉢の中を木の棒で潰している。
年は30の手前くらいだ。袖をまくった腕に、古い火傷の跡が斑に散っている。
「帰れ」
顔も上げずに言われた。
「まだ何も言っていません」
「言われる前に断ると、こっちの時間が減らん」
「リオンさんですか」
「そう呼ばれてる」
男は棒を止めずに、擂り鉢の中身を覗きこんだままだ。緑がかった粉が鉢の縁でかさかさ音を立てている。
「ユエル・メリクといいます。ヴァルドレイ公爵家の毒見役です」
棒が止まった。
止まってから、男はそこでようやく顔を上げた。
「毒見役の坊や」
「17です」
「聞いてない」
「若く見られるので先に申し上げました」
「若く見られるも何も、若いだろう」
リオンは棒を鉢の縁に置いて、椅子の背にもたれた。値踏みの目だ。ドランさんのそれとは種類が違う。あっちは腕を測る目で、こっちは残りの日数を測る目だった。
「毒の話を聞きに来ました」
「金は取らん。帰れ」
「取らないんですか」
「金で毒の話をすると、俺が売った側になる。使われたときに面倒だ」
「では、話だけでも」
「ただでもやらん。ただほど後で高くつく」
金も取らないし、無償でもやらない。
道が両方とも塞がっている。こういうときはこっちの持ち物を先に机へ出すのが早い。もっとも俺の持ち物はほとんど屋敷の中にあって、外へ持ち出せるものが少ない。
だから俺は質問のほうを先に出した。
「匂いがしなくて、色も濁らなくて、銀も曇らない毒はありますか」
店の中の音がなくなった。
草の束が空気の動きで少し揺れて、それも止まる。リオンは俺の顔を見たまま、指で卓の縁を2回叩いた。
「坊や。その質問はどこで拾った」
「自分で考えました。井戸端で」
「井戸端」
「屋敷の井戸端です。俺は匂いと色と銀で毒を見ています。その3つが全部黙る毒があったら、俺はどうやって見つけるんだろうと思って」
「思って、それで」
「それで、ずっと引っかかっていました」
リオンは息を吐いた。長い息だった。
「座れ」
俺は薬研の横の丸椅子に座った。座面が低くて、膝が胸のほうへ来る。
「ある」
まばたきが一つ飛んだ。
「……あるんですか」
「ある。俺は術毒と呼んでる。呼び方は人によって違う」
「どんな毒ですか」
「物じゃない」
リオンは擂り鉢を横へどけて、卓の上を手のひらで払った。
「お前の道具は物を測る道具だ。匂いは物が飛んでくるから嗅げる。色は物が光を食うから見える。銀が曇るのは、銀と物がくっつくからだ。全部、物がそこにある前提で動いてる」
「はい」
「術毒には物がない。媒介になったものに術式が定着して、そいつに触れたものへ移る。器でも布でも同じだ。触れた食い物に乗って、口へ入る」
天井から下がった草の束が空気の動きでかすかに回った。
俺は自分が今日まで何をやってきたのかを順番に並べ直している。匂いを取る。色を見る。銀を沈める。ひと匙を舌に乗せる。この4つを1日に3度、4か月やってきた。やりながら、この4つの外側があるという考え方をしなかった。
膝の上の指が勝手に動いて、数を数える形になる。
「移ったものは、調べても」
「何も出ない。食材を刻もうが煮ようが、出るものがない。出るものがないんだから、お前の鼻も目も銀も黙る」
「銀は」
「曇らん」
鼻の奥が急に熱くなった。
匂いと色と銀。3つともこの人は一言ずつで片づけた。反論を探そうとして、探す材料が一つも出てこない。この人の言っていることは筋が通っていて、通っている理由が俺の手元にないところにある。
「発症は」
「早くない。半日ほど遅れる」
「半日」
「そこが厄介だ。昼に食ったものが夜に効く。効いたときには、卓はもう片づいてる。誰も昼の皿を疑わん」
卓が片づいている。
俺は毎日、皿を下げるところまで見ている。下げたあとは洗い場だ。洗われた皿からは何も出ない。
「なぜ、それが広まっていないんですか」
「高いからだ」
「値段が」
「作れる人間が片手で足りる。使うなら、値段に見合う相手にしか使わん」
「見合う相手」
「公爵とかな」
リオンは笑わなかった。笑わずに言うから、余計に刺さる。
「媒介というのは、何になるんですか」
「匂いの強い油。蝋。染めた布。要するに、匂いや色が変わっても誰も驚かないものだ。変わって当たり前のものに乗せる」
俺は口の中で言葉を止めた。
喉のところまで来ていたものをそこで押さえた。屋敷の二階に鍵のかかった部屋があって、そこに瓶が15本並んでいる。そのうちの1本だけ匂いが違う。
言えば、この人は答えを持っているかもしれない。
言えない。
あの部屋の話は俺のものではない。あの人が誰にも触らせるなと言った。掃除を止めたのもあの人だ。俺が今ここで喋れば、それは屋敷の内側の話を外の商人に渡すことになる。この人は金で情報を売ると自分で言っている。売る側の人間に、売り物を無料で置いてくる馬鹿がどこにいる。
「坊や」
「はい」
「今、何か飲みこんだな」
「飲みこみました」
「言わんのか」
「言いません」
リオンは片眉を上げて、それから鼻で笑った。
「賢い。長生きするかもしれん」
「するといいんですが」
「毒見役の平均を知ってるか」
「知りません」
「知らんほうがいい」
その言い方でだいたい分かる。分かったうえで、俺は今日ここへ来たことをよかったと思っている。分からない毒がある。たしかにある。知らないままだったら、俺は自分の道具を信じたまま卓に座り続けていた。
「代金だ」
「金は取らないと」
「金はな。知識には知識で払え」
「俺、毒の知識は今あなたに全部教わったところなんですが」
「毒じゃなくていい」
リオンは棚から板と炭を取って、卓へ置いた。
「坊や。腐りかけの魚と、腐った魚を、匂いだけで分けられるか」
「分けられます」
「早いな」
「そういう仕事をしていました」
「どこで」
「……遠いところで」
リオンは炭を持ち直した。俺の答えを追いかけてこない。この人は聞かないところを決めるのがうまい。
「肉を塩で漬ける。煙で燻す。うちの薬草も同じ悩みがある。仕込んだものが半分で駄目になる年がある」
「温度です」
「温度」
「塩の濃さと、抜く水の量と、燻す煙の熱さ。この3つのうち、みんな煙の熱さだけ勘でやります。熱くしすぎると表面だけ固まって、中に水が残る。残った水のところから駄目になります」
リオンの炭が動きはじめた。
「熱くしないと燻せんだろう」
「燻すのに熱は要りません。要るのは煙です。低い温度で長くかけるほうが日持ちします。時間はかかりますが、失敗の数が減ります」
喋っているうちに、自分の声が速くなっているのに気づいた。
この話をしているときだけ、前世の自分が戻ってくる。白い上履き。年中同じ温度の部屋。誰も聞きに来ない話を、俺はあそこで5年続けていた。聞きに来ないくせに、間違えたときだけ全員が振り返る職場だった。
「どのくらい低い」
「手をかざして、しばらく我慢できるくらいです。我慢できないなら熱すぎます」
「数で言え」
「数で言える道具がここにないので、手で言いました」
リオンが顔を上げた。
「……お前、それを毎回同じにできるのか」
「記録を取れば近づきます。何日目に何をして、どうなったか。当たった年の紙と外した年の紙を並べると、違うところが2つか3つに絞れます」
「紙を並べる」
「腐るのは目に見えないくらい小さいものの仕業です。相手が見えないので、こっちは条件のほうを見ます」
「見えないものの仕業。魔法使いみたいなことを言うな」
「魔法じゃありません。数の話です」
リオンが炭を止めて、俺を見た。
値踏みの目ではなくなっている。何かを勘定している目だ。前世の会議で、こっちの案を採用すると決めた人がする顔に近い。
「坊や。この取引はお前が損だ」
「そうですか」
「そうだ。俺はお前に話を1つやった。お前は俺に商売のやり方を寄こした。俺のほうが儲かる」
「じゃあ、もう1つ教えてください」
「図々しいな」
「損だと言われたので」
リオンは口の端を曲げた。笑ったのだと思う。この人の笑い方は、笑っていない顔から2割だけ動く。
店を出たのは日が傾きはじめた頃だった。
裏通りは昼より暗い。石の壁が両側から迫っていて、上を見上げると空が細く切れている。王都の匂いはここでも強い。獣脂と、湿った石と、どこかの家の煮炊きが混ざっている。
その細い通りに、外套の男が立っていた。
「閣下」
「遅い」
「鐘2つとうかがっていました」
「3つ鳴った」
鳴っていた。俺は店の中で聞き逃していた。
「申し訳ありません」
「いい」
背後で戸が開いた。
リオンが敷居のところまで出てきている。腕をまくったままで、外套も羽織っていない。公爵が路地に立っていることに、この人は驚いた様子を見せなかった。
「公爵閣下。坊やをうちへ寄こしたのはあんたか」
「本人が行くと言った」
「止めなかったのか」
「止める理由がない」
リオンは肩をすくめた。
「割に合わん取引をさせたぞ。俺のほうが得をした」
「何を取った」
「肉の漬け方と燻し方だ。うちの薬草に効く。来年の仕込みが変わる」
クレイス・ヴァルドレイは俺のほうを見ない。リオンのほうも見ていない。路地の先の、たぶん何もないあたりを見ている。
「こいつの知識は有用だ」
石の壁のあいだで、その一言だけが妙にはっきり響いた。
俺は自分の足元を見た。靴の先に泥が乾いてこびりついている。狩場の泥だ。落としていなかった。
顔を上げられなかったので俺は靴を見続けた。
「有用、ときたか」
リオンが面白がっている声を出した。
「閣下。使い減りしない道具はない。壊れる前に測っておくことだ」
「言われるまでもない」
「そういう客がいちばん測らん」
リオンは戸の中へ引っこんで、それきり出てこなかった。
馬車が動きだしてからも、俺は自分の手のひらを見ていた。
この手は匂いを取る。色を見る。銀を沈める。今日までそれで足りていた。足りない場所があると教わって、教わった礼に俺は前世を売った。
悪くない取引だったと思う。
有用だ、と言われた。
褒め言葉として受け取ることにする。そうしないと、あれは値踏みでしかなくなる。
値踏みでもかまわない。道具は壊れるまで使われる。使われているあいだは、あの卓に座っていられる。
……いや、よくない。今の考え方は全然よくない。




