第18話「倒れる直前に見えたもの」
分からない毒に、俺は20日ぶん抵抗した。
20日では足りない。
王都から戻った翌朝、俺は板に線を引いて、やれることを書き出した。書けたのは9つで、実際に始められたのは6つだ。
1つめ。閣下の卓に出す器を決めた。皿が3枚、鉢が2つ、杯が1つ。この6つ以外は卓に載せない。
「なんでだよ」
「増えたら分かるだろ。数が決まってないと、増えたことも減ったことも見えない」
トビが桶を抱えたまま首をかしげている。
「前は皿が勝手に増えてたじゃん」
「あれは増やした人が分かってる。分からないほうを潰したいんだよ」
「ふうん」
「納得してないだろ」
「してない。でも手伝う」
2つめ。厨房から食堂まで、料理に触る手の数を減らした。
「お前に運ばせる家があるか」
「今日からあります」
「盛るのは俺だ。運ぶのは下の者だ。そう決まってる」
「決めたのは誰ですか」
「先代だ」
「では先代に叱られます。それでも俺が運びます」
ドランさんは鍋の縁を杓子で叩いた。金物の音が厨房の天井で跳ねる。
「理由を言え」
「厨房から卓まで、いま3人の手を通ります。俺が運べば1人です」
「俺の下の者を疑うのか」
「疑いません。数を減らしたいだけです」
「同じことだろうが」
「違います。疑うのは人で、数えるのは手です。俺が数えるのは手のほうです」
この人はしばらく黙って、それから下働きを厨房の奥へ下げた。
「盆は落とすなよ」
「落としません」
「落としたら、二度と厨房に入れねえ」
「はい」
文句と行動が別々に動く人だ。この4か月でだいぶ慣れた。
3つめ。俺が使う布は自分で洗って、自分の寝床の下に置くことにした。
4つめ。誰が何に触ったかを書く。日付。時刻。名前。触ったもの。板が足りなくなって、俺はマレンさんに紙をねだった。
「毒見役。それは何の帳面でございますか」
「手の帳面です」
「手の」
「誰の手が、どこまで来たかの記録です」
「屋敷じゅうの手を書くおつもりですか」
「卓に近いところからです。全部は無理なので」
マレンさんは紙を数えて渡してくれた。理由は聞かれなかった。この人はときどき、聞かないことで許可を出す。
「毒見役」
「はい」
「その帳面、どこにお置きになります」
「寝床の下です」
「よろしゅうございます」
5つめ。匂いの強いものを卓に近づけない。6つめ。二階の鍵のかかった部屋には俺も入らない。
残りの3つは書いたまま線を引けなかった。屋敷に出入りする者を減らすこと。離れからの届け物を断ること。閣下に外での食事をやめてもらうこと。どれも俺の権限の外にある。
それでも6つ動いた。動いたぶんだけ、俺は落ち着いていた。
効いているかどうかを確かめる方法が、俺には一つもなかった。
毒が出れば、対策は失敗だったと分かる。毒が出なければ、対策が効いたのか、そもそも毒がなかったのかは分からない。前世でいちばん嫌いな形の仕事がこれだ。効果を測れない対策を続けると、人は自分の手順を信じるようになる。
俺は20日でそこまで来ていた。
その日は銀器を磨く日だった。
「毒見役さん、お皿お預かりします」
「今日でしたっけ」
「月に一度でございます。燭台も水差しも、全部お出し願います」
「夕方までに戻りますか」
「昼前にはお戻しできます」
侍女は籠に銀を積んで運んでいった。油を含ませた布で磨くのだと、来た日にトビが教えてくれた。この屋敷の銀は磨いた翌日がいちばんよく光る。
昼前に、俺の銀の毒見皿が戻ってきた。
受け取ると、縁がきれいに光っている。曇りの一点もない。よく返事をする道具を手にした日は、こっちの気分まで少し上向く。
昼の毒見をした。
献立は麦のパンと、豆と根菜の汁と、塩漬けの魚を戻したもの。俺は皿から銀の毒見皿へ取り分けた。
匂いを取る。豆と根菜の土と魚の塩。異常なし。色を見る。汁は濁っているが、濁り方が均一で沈殿の粒はない。銀の縁を沈める。白いまま。
ひと匙。
「異常ありません」
「塩は」
「やや強いです。ドランさんは冬が近くなると塩を上げます」
「そうか」
「体が欲しがるからだと言っておられました」
クレイス・ヴァルドレイは匙を取って、決められた量を決められた速さで食べた。
俺は板に書いた。時刻。献立。異常なし。
その行が今日の最後の行になる。
日が傾くまで帳面の整理をしていた。
使用人棟の窓は北を向いていて、この時期は昼でも薄暗い。俺は紙を並べて、この10日ぶんの手の記録を写し直していた。
途中で、指がうまく動かなくなった。
炭が紙の上で滑る。握り直す。また滑る。指の腹の感覚が半分くらいになっていて、力の入れ具合が読めない。
冷えだと思った。
北向きの部屋で、秋の終わりで、朝から冷たい水を使っている。手がかじかむのは当たり前だ。俺は指をこすり合わせて、息を吹きかけて、また炭を持った。
「ユエル」
戸口からトビの声がした。
「なんだよ」
「顔、白いよ」
「北向きの部屋にいるからだろ」
「ちがう。いつもと違う白さ」
「どういう白さだよ」
トビは戸の枠に手をかけたまま、入ってこない。
「洗い場のおばさんが倒れる前と同じ」
「縁起でもないこと言うな」
「言うよ。僕、こういうの当たるもん」
「当たらないほうに賭けとけ」
トビは笑わなかった。
笑わない顔を見て、俺は自分の手を見た。炭を持った指がまだ言うことを聞いていない。
「たぶん冷えだ。夕食が終わったら早く寝る」
「マレンさんに言おうか」
「言わなくていい」
「なんで」
「毒見役が体調を崩したと言えば、卓が止まる。止めるほどのことじゃない」
「ユエルってさ」
「なんだよ」
「そういうとこ、閣下と似てるよ」
その一言を俺は聞き流した。
聞き流したことを、あとで何度も思い出すことになる。
立ち上がったとき、床が少し傾いた気がした。
傾いたのは床ではないと分かる程度には、俺は自分の体を疑う訓練を受けている。受けているのに、そのときの俺は窓の桟に手をついて、少し休めば治ると判断した。
判断した理由は簡単だ。
昼の毒見で、俺の道具は何一つ異常を出していない。
道具が黙っているなら、異常があるのは道具の外だ。だから疲れだ。そう並べて、俺は自分の順番どおりに間違えた。
夕食の鐘が鳴る。
食堂へ下りる階段がいつもより長く感じられた。
卓には器が6つ並んでいる。皿が3枚、鉢が2つ、杯が1つ。数えたのは癖で、数が合っていることに安心した自分の頭は、もう鈍っていたのだと思う。
クレイス・ヴァルドレイが席についている。
俺は自分の椅子まで歩いた。歩いたはずなのに、足の裏が床を踏んだ感じがしない。靴の中に厚い布が詰まっているみたいだ。
「ユエル」
「はい。ただいま」
銀の毒見皿を持ち上げる。今朝出して昼に戻ってきた、よく光る皿だ。
主人の皿から取り分けた。
匂いを取る。
……取れない。
鼻を近づける。もう一度吸う。何もない。汁の湯気は立っているのに、匂いの手前で何かが止まっている。
鼻が詰まったのだと思った。北向きの部屋にいたからだ。
色を見る。
卓の灯りが暗い。汁の色が読めない。器を灯りのほうへ寄せたら、寄せた手が縁に当たって音を立てた。
「ユエル」
「……なんでもありません」
銀を沈める。
曇らない。
白いままの縁を見て、俺はそこでようやく順番を思い出した。匂いが取れない。色が読めない。銀は白い。3つのうち2つは、道具ではなく俺のほうで壊れている。
ひと匙を舌に乗せた。
味がしない。
塩も土も脂も来ない。舌の上に温度だけがある。温度だけがあって、それが何であるかを教えてくれるものが一つも乗ってこない。
この感覚を俺は知っている。
聞いたことがあるだけだ。この卓の向かい側にいる人が、3つの歳から毎日やっていることだ。
「閣下」
声は出た。出た声が自分の耳に遠い。
「どうした」
「今日の、これは」
「なんだ」
「……昼です」
舌が回らない。
言いたい言葉は頭の中に全部ある。今日の昼です、と言いたい。半日前です、と言いたい。分からない毒が実在します、と言いたい。その全部が舌の手前で渋滞して、出てこない。
匙が指から落ちた。
銀が卓に当たって、思ったより高い音を立てた。
視界の端が暗くなる。暗くなるというより、見える範囲が外側から順に畳まれていく。残るのは真ん中の細い一本で、そこに卓の向こう側が入っている。
椅子が倒れる音がした。
クレイス・ヴァルドレイが立ち上がっている。
この人は長卓を回らなかった。卓に手をついて、器を薙ぎ倒して、まっすぐこちらへ越えてくる。皿が3枚、鉢が2つ、杯が1つ。数えたものが全部落ちて、床で割れる音が続けざまに鳴った。
その人の顔が細い視界の中へ入ってくる。
俺はその顔を見た。
見たことのない顔だ。
この人の顔を、俺は4か月半かけて見てきた。何を食べても動かない顔だ。皿を取り上げるときも犬の話をしたときも、表面はいつも同じ場所にあった。
いま、その表面がない。
目が開いている。開きすぎている。眉のあいだに深い線が入って、口が半分開いて、そこから息が出ている。息の音が聞こえるくらい近い。
この人は驚いているのではない。
驚いた人間の顔は驚いたあとに戻る。この顔は戻る場所を持っていない。
「ユエル」
名前を呼ばれた。
この人の声を、俺はいつも短いと思ってきた。今のは短くない。短くないうえに大きい。
膝から力が抜ける。
落ちる、と思った瞬間に、背中と腕へ何かが回った。
床には届かなかった。
音が遠い。
水の底から聞いているみたいだ。上のほうで人が動いていて、その動きだけが振動になって伝わってくる。
「医師を呼べ」
「若様、お下がりください。運びますので」
「触るな。俺が運ぶ」
「若様」
「馬を出せ。王都だ。今すぐ出せ」
「夜になります」
「出せ」
誰かが誰かを怒鳴っている。ヴァルドレイ邸で怒鳴り声を聞くのは、たぶんこれが最後になっても不思議ではないくらい珍しい。
俺は返事をしようとした。
口が動かない。動かないので、代わりに指を動かそうとした。指も動かない。
体のどこかに、まだ動く場所があるはずだ。全部が同時に止まることはない。前世の工場でも止まるときには順番があった。順番があるなら、まだ動いている場所を探せばいい。
探して、見つからなくて、探していたことも分からなくなる。
昼の毒見だ。
それだけは伝えたい。昼です。半日前です。今夜の献立ではありません。ドランさんの鍋を止めないでください。あの人の20年に、今夜の分まで足さないでください。
言葉の順番は組み上がっているのに、それを出す口がどこにあるか分からない。
左手が握られている。
誰かの手が俺の手を包んでいて、その手が震えている。
震えているのは俺の手だと思った。
俺は昔から、怖いと手が震える。強がっても震える。それを見られるのが一番いやで、いつも膝の下へ隠していた。今日はもう隠せない。隠せないなら、誰かに握られていたほうがまだましだ。
だから俺はその震えを自分のものとして数えた。
数えたところで、数える場所がなくなっていく。
遠くで、誰かが俺の名を呼んでいる。
呼び方が2つある。短いのと長いのだ。短いほうは知っている声で、長いほうは知らない。知らないほうがだんだん近くなって、近くなるほど言葉として聞こえなくなる。
暗い。
暗いのに左手だけが熱い。
誰の手だろう、と思ったところで、思うための場所がなくなった。




