第19話「三日ぶんの空白」
目が覚めて、最初に数えたのは梁だった。
天井を横に4本。使用人棟の相部屋は3本だ。
数え直した。やっぱり4本ある。
こういうときの頭は順番を守らない。俺はまず自分が寝ぼけているのだと決めた。まばたきをして、もう一度数える。それでも4本あるので、次は部屋を間違えたのだと考えた。夜のうちに便所へ立って、戻る戸を取り違えた。ありえない話ではない。
起き上がろうとして、腕が上がらなかった。
肘から先が言うことを聞かない。指は動く。動くのに、動かした感じが遅れて届く。自分の手が糸で吊るされた誰かの手に見えてくる。
そこでようやく俺は怖くなった。
部屋を見た。
寝台がやわらかい。背中の下に藁ではないものが入っている。壁は塗ってあって、石が出ていない。窓が2つ。使用人棟の窓は1つだ。卓が一つと椅子が一脚。扉が2つあって、片方は廊下へ、もう片方はどこかの部屋へ続いている。
匂いが違う。
相部屋は湿った石と洗い粉の匂いがする。ここは木と蝋だ。掃除の行き届いた部屋の匂いで、俺はこの匂いを本館の二階でしか嗅いだことがない。
音がしない。
洗い場の桶の音も、厩のほうで鳴く何かの声もトビの寝息もない。
本館だ。
その結論に届くまでに、たぶんずいぶん時間がかかった。届いてからもなぜという部分が動かない。俺は毒見役で、毒見役は使用人棟に住む。契約に書いてある。書いてあるものを勝手に変える人間は、この屋敷に一人しかいない。
扉が開いた。
「お目覚めでございますか」
マレンさんだった。
盆を持っている。上に椀が一つと、小さな瓶が一つ載っている。
「マレンさん」
「はい」
「ここ、どこですか」
「本館の、書斎の並びの続き部屋でございます。先代の頃は近習が使っておりました」
「なんで俺がここに」
「お薬をお持ちいたしました」
答えていない。
答えていないことを指摘する体力が、そのときの俺にはなかった。
マレンさんは俺の背中に手を入れて、枕を重ねて、上体を起こしてくれる。起きた瞬間に部屋が回った。回ってから戻るまで、息を10ほど数える。
「お薬でございます。医師の調合です」
小さな瓶が差し出された。
俺は右手を伸ばした。伸ばしたところで、自分の指が思っていた場所より手前で止まっているのが分かる。
「マレンさん。それ、匂いを取らせてください」
「……毒見役」
「色も見ます」
「あなたのお薬でございます」
「だから検めます」
マレンさんはしばらく俺を見ていた。それから、盆ごと膝の上に載せてくれた。
「どうぞ」
俺は瓶の口を鼻へ近づけた。
匂いが薄い。薄いのが薬のせいなのか、俺の鼻がまだ戻っていないせいなのかが分からない。分からないので判定を保留にする。前世でも計器の校正が済んでいないときは数値を採用しなかった。
「苦い草の匂いがします。あと、蜂蜜」
「蜂蜜は飲みやすくするためだそうでございます」
「色は褐色。濁りはありません。沈殿は……底に少し」
「振ってお飲みくださいと申しておりました」
「そう言ってましたか。じゃあ正常です」
言ってから、自分でおかしくなった。
沈殿があるほうが正常な薬もある。判定の基準は品物ごとに違う。それを毎回確かめずに「濁っているから怪しい」と言い出す人間がいる。俺は今その一歩手前にいる。
「マレンさん。銀の毒見皿はどこですか」
盆を支えるマレンさんの手が止まった。
「若様がお持ちでございます」
「閣下が」
「はい」
「なぜですか」
「存じません」
この人は今日、俺の質問を2つ受け流している。
この人は嘘をつかない。つかないから、言葉の選び方に全部が出る。存じませんと言うときのこの人は、知らないのではなく言わないと決めている。
俺は薬を飲んだ。苦い。蜂蜜の味は最後に少しだけ来た。味が来ることに、俺は妙な安心をした。
「マレンさん」
「はい」
「今日は何日ですか」
マレンさんは日を言った。
俺は指を折った。折りながら、頭の中の板を開く。あの日の昼の行がいちばん最後で、その日付は覚えている。
数えかけた指がそのまま開いた。
「3日ですか」
「はい」
「俺、3日寝てたんですか」
「3日と、少しでございます」
「その3日、毒見は」
マレンさんは答えなかった。
「マレンさん。その3日、閣下の卓の毒見は誰がしましたか」
「……お食事の支度をしてまいります」
盆が下げられて、扉が閉まった。
俺は枕にもたれたまま、閉まった扉を見ていた。
誰もしていない。
そういうことだ。この屋敷に毒見役は一人しかいない。その一人が3日寝ていたなら、3日ぶんの卓は誰も検めていない。
昼過ぎにトビが来た。
戸を半分だけ開けて、顔から先に入れて、それから体を入れる。俺の入り方の真似だ。前にからかったことがある。
「ユエル」
「よう」
「起きてる」
「起きてる。座れよ」
トビは椅子には座らなかった。寝台の脇に床に直接座った。
「怒られるぞ。本館だぞ」
「知ってる」
それきり、しばらく黙っていた。
「トビ」
「なに」
「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるだろ」
「泣いてないってば」
トビは袖で目のあたりを押さえて、押さえたまま動かなくなった。
「トビ。3日、何があった」
「……」
「教えてくれ」
「話すなって言われてる」
「誰に」
「みんなに」
みんな、というのが屋敷ではいちばん強い名前だ。誰が決めたのか分からないのに全員が守っている。前世の会社にも同じ名前の人がいた。
「じゃあ1つだけ。俺、誰が運んだ」
トビが顔を上げた。
「それは言っていいやつ?」
「知らん。言えるほうに賭けろ」
「……閣下」
「ここまでか」
「階段も。厨房の脇の階段は狭いから、みんなで運ぼうとしたんだけど、閣下が」
そこでトビが止まった。
「触るな、って言った。声、すごかった」
俺は天井の梁を見た。
4本ある。数えたところで、数えた先に置く言葉がない。
「ユエル」
「ん」
「僕、あのとき厨房にいたんだ。皿の割れる音がして、上がってったら、閣下がユエルを抱えてて」
「うん」
「あの人、あんな顔するんだね」
夕方になって、俺は立った。
立てたというより、壁があったから倒れなかった。廊下へ出るまでに3回休んだ。足の裏の感覚が薄くて、床が近いのか遠いのかが読めない。
本館の二階の廊下は、床がすり減っていない。
執務室へ続く廊下だけが凹んでいるのだと来た日に教わった。この廊下を歩く人間は少ないということだ。
窓のところにマレンさんがいた。
畳んだ布を腕にかけて、窓の桟を布巾で拭いている。俺の足音に気づいて、こちらへ顔を向ける。
「毒見役。お戻りなさいませ」
「歩けます」
「歩けても、お戻りなさいませ」
「マレンさん」
俺は壁に手をついた。
「3日ぶん、誰も何も言ってくれません。俺は自分の3日を持っていないんです。持っていないものを、屋敷じゅうが持ってる」
「……」
「全部でなくていいです。俺がこれからやることに関係あるところだけでいいです」
マレンさんは布巾を桟の上に置いた。
置いてから廊下の端まで目をやって、誰もいないことを確かめる。人払いの要る話をこの人がするのだとそこで分かった。
「医師が3人参りました」
「3人」
「屋敷の者と、領内の町の者と、王都からの者でございます」
「王都から」
「薬師でございます。若様が呼ばれました。金は言い値でお払いになりました」
リオンだ。
言い値で払った、というところで顔が浮かんだ。あの人は金を取る。取らない相手を選ぶだけだ。今回は取った。取ったということは、この件を商売の側に置いたということで、置いたなら仕事はきちんとしたはずだ。
「その方は、なんと」
「毒だと」
「種類は」
「申しませんでした。分からぬものは分からぬと申し上げる、と」
あの人らしい。
「量については」
「死ぬ量の3分の1ほど、と」
3分の1。
残りの3分の2が入っていたら、俺は今この廊下にいない。誰が量を決めたのかは分からない。分からないが決めた人間がいる。
「マレンさん。閣下は」
「若様は、3日、食堂へお下りになりませんでした」
「食事は」
「お摂りになりません。水だけでございます」
壁についた手の指に勝手に力が入った。
「3日、ですか」
「3日でございます」
「誰も止めなかったんですか」
「止めました。わたくしも、ドランも」
「それで」
「聞かれませんでした」
マレンさんは布巾を取り上げて、また窓の桟に戻した。今度は拭かずに、そこへ置いたままにしている。
「毒見役。あなたのお部屋の前に、椅子が一脚ございました」
「椅子」
「若様がお運びになりました。ご自分で」
「……そこに」
「おられました。夜のあいだも」
俺は言葉を探した。
探して、出てこなかった。手元にある言葉が全部、この話の大きさに合っていない。ありがとうございますでもないし、なぜですかでもない。なぜですかはたぶんこの屋敷でいちばん答えの返らない質問だ。
「マレンさん。なんで、その話を今してくれたんですか」
「あなたが、ご自分の3日を持っていないと仰ったからでございます」
「はい」
「持っていないものは、いずれ誰かに書かれます。書かれる前に、ご自分でお持ちになったほうがよろしい」
この人は書式の人だ。
書式の人が言うと、その理屈はやけに重く聞こえる。
「もう一つだけ。この部屋、誰が決めたんですか」
「わたくしは運んでおりません」
「では誰が」
マレンさんは答えなかった。
答えないまま、布巾を取って、窓の桟をまた拭きはじめた。この人はいつも拭いた場所から順に離れていく。今日は同じところに戻ってきている。
「……毒見役」
「はい」
「わたくしはあの3日で、若様に申し上げそこねたことが1つございます」
「なんですか」
「申し上げそこねたと申しました」
それきり、この人は口を開かなかった。
部屋へ戻って、俺は板を持ってきてもらった。
雇われた日から、朝と昼と夕に何が出たかを書きつけてきた板だ。最後の行はあの日の昼で止まっている。異常なし、と自分の字で書いてある。
その下に、3行ぶんの空きを作った。
空けた場所の下へ、今日の日付を入れる。指がまだ言うことを聞かないので字が歪んだ。歪んだまま置いておく。
空けた3行を埋められるのは、その3日を起きて過ごした人間だけだ。この屋敷には何人もいる。今のところ誰ひとり、書いてくれる気配がない。




