第20話「震えているのは俺の手じゃない」
寝床から起きられるようになって7日目に、俺は自分の道具を返してもらいに行った。
道具というのは銀の毒見皿だ。あれがないと仕事にならない。仕事にならない毒見役は、この屋敷で椅子に座っているだけの生き物になる。前にも一度そういう時期があって、あのときは腹が減るだけで済んだ。
「閣下。銀の毒見皿を返していただきたいのですが」
「まだだ」
「では、置いてある場所だけでも教えてください」
「なぜ」
「検めたいからです」
執務室の卓ごしに、クレイス・ヴァルドレイが顔を上げた。
この人の顔を正面から見るのは、倒れた日以来だった。あの日の顔はもうどこにもない。表面が元の場所へ戻っている。戻っているのに、戻り方がどこか雑で、目の下だけが直っていない。
「検めて、どうする」
「分かることがあります」
「言え」
「あの日、俺の口に入ったのは昼のひと匙だけです。同じ鉢から閣下も召し上がりました。閣下は何ともありません」
「そうだ」
「食い物が同じで、結果が違うなら、違うのは食い物じゃありません」
この人は羽根ペンを置いた。
「器か」
「器です」
立ち上がる音がした。
俺たちが向かったのは二階の突き当たりで、そこには秋から鍵のかかっている扉がある。
クレイス・ヴァルドレイが懐から鍵を出した。
入るのは秋の日以来だ。人の出入りが止まった部屋の匂いというのがあって、それは埃ではない。寝台と卓と椅子がそのままの位置にあって、寝具だけが使われた形に崩れている。棚に瓶が並んでいる。俺は入ってすぐに数えた。
15本。
封を割ったものが1本と、封の生きているものが14本。夏に届いた箱も秋に届いた箱もそのままある。
卓の上に、布に包まれたものが置いてあった。
「これですか」
「触るな。まだだ」
この人は自分で包みを解いた。
銀の毒見皿が出てきた。俺の皿だ。縁の内側に、雇われて2日目につけた小さな傷がある。あのとき匙を落として、それきり消えない。
「なぜ、ここに置いておられたんですか」
「この部屋に置けば、誰も触らん」
理屈は分かる。鍵を持っているのは主人ひとりで、掃除の者も入らない。この部屋へ手を伸ばせる人間は、屋敷に一人しかいない。
分かるのに、俺はしばらく返事ができなかった。
この人は俺が倒れたその日から、俺の道具を毒の並んだ棚の隣へ持ってきていた。危ないものと危ないかもしれないものを、同じ鍵の内側に集めている。集めたということは、この人も同じ線を引いていたということだ。
「閣下。帳面を持ってきています」
「手の帳面か」
「はい」
俺は紙束を卓へ広げた。
あの日の朝から夕までの、手の記録だ。日付と時刻。名前。触ったもの。俺が書いた字は歪んでいないころのやつで、いま見ると読みやすい。
「朝。銀器を磨く日でした。侍女が3人、本館じゅうの銀を集めています。燭台。水差し。卓の匙。俺の毒見皿」
「集めてどうする」
「食器室で磨きます。油を含ませた布で拭いて、乾いた布で仕上げます」
「それだけか」
「それだけです。昼前に戻ってきました。俺は受け取って、そのまま昼の毒見に使いました」
俺は指で紙をたどった。
「気になっているのは、ここです」
「どこだ」
「毒見皿だけ、油壺が別なんです」
この人の眉が動いた。
「別」
「本館の銀は大きい壺から取ります。毒見皿は毎日使うので、食器室の棚に小さい壺と専用の布が置いてあります。マレンさんが分けたそうです。理由は、毒見皿だけ人の口に入るものを乗せるから、と」
言いながら、自分の声が少し速くなっているのが分かった。
筋が通りはじめている。通りはじめると、俺は口より先に頭が進む。前世でこれをやって何度も怒られた。結論から言え、と。
「閣下。食器室へ行かせてください」
「行く」
食器室は厨房の隣にある。
棚が三段あって、下の段に磨きの道具が入っている。大きい油壺が1つ。乾いた布の束。それと、いちばん端に小さい壺と布が1組。
俺は布を先に取った。
目に近づけて、光に透かす。染みがある。油の染みだ。何かが混ざっている様子はない。指でこすっても粉も粒も落ちてこない。
鼻へ近づけた。
……月桂樹だ。
頭が追いつくより先に、手が布を卓へ戻していた。
乾いた葉と樹脂の匂い。夏に玄関広間で嗅いだやつだ。そのうしろに、濡れた石の匂いが一本走っている。秋にあの瓶から上がってきたのと同じ形をしている。
「閣下」
「なんだ」
「この布から、香油の匂いがします」
この人が手を出しかけた。
俺は反射で自分の手を割りこませた。
「……申し訳ありません。触らないでください」
「布か」
「……いえ」
俺は布を置いて、小さい壺の蓋を外した。
中に油が半分ほど入っている。銀を磨くための油だ。色は薄い琥珀で、本館用の大きい壺のものと変わらない。
匂いを取る。
同じだ。乾いた葉と樹脂と濡れた石。
俺は大きい壺の蓋も外して、そっちの匂いも取った。
こっちは油の匂いしかしない。
「布ではありません。油です」
自分の声が思ったより低く出た。
「布は毎日替えます。替えても同じことが起きるなら、布のほうが原因ではありません。同じ壺から油を取っているからです」
「壺に混ぜたということか」
「はい。壺の油に香油が混ざっています。混ざった油を布に含ませて、その布で毒見皿を磨けば、皿に移ります。皿に移ったものは、皿に取り分けた食い物に乗ります」
公爵は壺を見た。見て、そのまま動かない。
「毒見皿だけです」
「なぜ言い切れる」
「大きい壺は無事です。本館の銀は全部そっちで磨かれています。燭台も水差しも、閣下の匙も。混ぜられたのは、俺の道具の壺だけです」
言い終わってから、自分で自分の言葉を聞き直した。
聞き直して、まぶたが動かなくなった。
これは閣下に来た毒ではない。
俺に来た毒だ。
夏からずっと、俺は自分をこの卓の付属品だと思っていた。この人を狙う手が伸びてきて、その途中に俺がいる。そういう構図で全部を数えてきた。
違った。
俺の壺を選んだ人間がいる。俺の道具を選んで、俺の手順の中へ入れてきた。相手は俺を、卓の付属品ではなく塞ぐべき穴として見ている。
「閣下」
「言え」
「これ、俺に来ました」
クレイス・ヴァルドレイは答えなかった。
答えないまま、壺の蓋を自分で閉める。閉めるとき、蓋と縁の当たる音が短く鳴った。
俺は棚に手をついて、続きを言う。
「もう一つ、確かめたことがあります。二階の瓶は15本ありました。封が割れているのは、夏に俺が開けた1本だけです。減っていません」
「では、この油の元は」
「あの部屋の瓶ではありません」
「外から来たということだ」
「そうなります」
この人がこちらを見た。
「離れの名は出せるか」
「出せません」
言いながら、俺は自分の指を折った。
「月桂樹の香油は、離れから届きます。それは事実です。でも、月桂樹の香油はこの国で買えます。王都の店にも並んでいました。あの部屋の瓶が減っていない以上、この油が離れから来たとは言えません」
「言えないか」
「言えません。今それを言えば、俺は自分の鼻を証拠にして人を指すことになります」
この人はしばらく黙っていた。
「ユエル」
「はい」
「この話は、誰にも言うな」
「マレンさんにもですか」
「誰にもだ」
「ドランさんにも」
「誰にもだ」
理由は聞かなかった。
聞かなくてもこっちの頭で3つ並べられる。1つ、油に香油が混ざると分かった人間が屋敷にいるなら、その人間はもう一度別のやり方を選ぶ。2つ、こっちが何をどこまで掴んだかを外へ出さない限り、相手はまだ同じ道が使えると思っている。3つ、思っているうちは相手の手が読める。
「閣下。1つだけ、条件をつけさせてください」
「言え」
「壺は替えます。布も替えます。理由は言いません。俺が割ったことにします」
「割れ」
「割ります」
こうして、俺の壺はその日のうちに床で割れた。
マレンさんは俺を叱る。叱りながら、新しい壺を出してくれた。
夜、俺は書斎へ上がった。
報告に行くのは癖だ。やめろと言われて、やめると答えて、やめていない。あの日から10日ぶんの報告が溜まっている。
「閣下。ご報告に上がりました」
「入れ」
書斎の卓には塩蔵の帳簿が積んである。冬のぶんの勘定に入ったらしい。革の背が乾いていて、めくるたびに埃の匂いが立つ部屋だ。
「今日の昼と夕、異常ありませんでした。新しい壺と布で磨きました。俺が自分で磨きました」
「そうか」
「明日の献立は、根菜が多くなります。ドランさんが」
そこで俺は言葉を止めた。
卓の上にインク壺がある。口が開いていて、中の面が細かく震えている。
俺は自分の右手を見た。
あの日から、俺の手はときどき勝手に震える。残るかもしれないと医師は言った。書く字が歪むのはそのせいで、いいかげん慣れてきている。
膝の上に両手を置いた。
置いて、力を抜いて、震えが止まるのを待つ。
俺の手は止まった。
インクの面は震えたままだ。
視線を上げる。
羽根ペンを持った手が紙の上にある。
ペン先が紙に触れていて、そこから細い線が右へ流れている。書こうとした字が線になって伸びている。この人は書き損じをしない。字がきれいなわけではないが、迷いのない字を書く。その字が同じ場所で2度潰れている。
手首から先が動いている。
止めようとしているのが分かる。指に力が入っていて、爪の色が白い。力を入れて押さえこもうとして、押さえこめていない。
震えているのは俺の手じゃない。
喉の奥が急に狭くなった。
俺はこの人を、生きる気のない人だと思ってきた。夏の書斎で「俺が死んでも家は残る」と言われた夜に、一度そう決めつけている。犬の話を聞いた朝に、もう一度決めつけた。二度とも外れている。外れたことは自分で認めたのに、代わりの答えを俺は探さなかった。
探さなかった理由は簡単だ。
この人が怖がっているという答えを、俺は候補に入れていなかった。
毒を盛られ続けて生き延びた人が、死を怖がるわけがないと思っていた。逆だ。3つの歳から毎日、口に入るものを疑って生きてきた人間が、怖くないわけがない。
怖くて、怖いと言う場所を持っていないだけだ。
「閣下」
「なんだ」
「そのペン、貸してください」
「なんの話だ」
「明日の献立を書いて置いておきます。字が歪みますが、読めます」
俺は卓へ手を伸ばして、この人の指から羽根ペンを取り上げた。
抵抗はなかった。取り上げたあとの手が卓の上にそのまま残っている。残った手はまだ細かく震えている。
俺は献立を書いた。歪んだ字で根菜のことを3行。書いているあいだ、この人は何も言わなかった。返せとも言わない。
書き終えて、俺はペンを卓の端に置いた。
「明日、話がある」
「はい」
「朝の食事のあとだ。執務室へ来い」
「かしこまりました」
俺は扉を半分だけ開けて、体を先に出した。いつもの出方だ。
閉めきる前に卓の上へ目を戻す。ペンは俺が置いた場所にある。その横に手がある。
この屋敷へ来てから、俺が誰かの手から何かを取り上げたのは今夜が最初だった。




