第21話「解任と言われて、初めて怒る」
執務室へ呼ばれるまでのあいだに、俺は話の中身を3つ予想した。
1つ。壺の件の続き。誰が混ぜたかを洗う手順を決める。2つ。離れからの届け物をどう断るかの相談。3つ。冬のあいだの卓の作法を変える話。
どれも外れた。
朝の毒見はいつもどおりだった。麦のパン。豆の汁。塩漬けの魚。匂い。色。銀。ひと匙。異常なし。クレイス・ヴァルドレイはいつもの速さで食べて、いつもの量で手を下ろした。
食堂を出る背中を見ながら、俺は板に書いた。異常なし。
執務室にはマレンさんがいた。
壁ぎわに立って、両手を前で組んでいる。この人が執務室に呼ばれて立っているのは、記録を残す必要がある場面だと来た日に教わった。
だから俺は手順の話だと思った。
「毒見役」
「はい」
この人が俺を役職で呼んだ。
名で呼ばれるのに慣れると、役職へ戻された日はすぐ分かる。分かったのに、俺はそれを作法の問題として片づけた。呼び方が変わるときは中身が変わるときだと、前の職場で何度も見てきたはずだった。
「毒見役を解く」
言葉が耳から入って、そこで止まった。
意味に変わらない。単語は全部知っている。毒見役。解く。解くというのは結び目のことで、いや違う、これは職を解くほうの解くだ。
「……閣下」
「解任だ」
「解任」
「そうだ」
俺は自分の膝を見た。
見た理由は分からない。人は理解が遅れると、目のほうが先に落ちる場所を探す。前世でも同じ動きを何度も見た。見た側にいたときは、あの人たちが何を見ているのか分からなかった。
「理由をうかがってもよろしいですか」
「必要ない」
「規定では、解任状に理由を記すとうかがいました」
「必要ない」
同じ言葉が2回来た。
この人は同じ言葉を2回言わない。言うのは言い換える言葉を持っていないときだけだ。
「条件を言う」
「……はい」
「1年ぶんの給金を満額で払う。今日中に用意させる」
「まだ5か月です」
「聞いていない。それから、故郷への仕送りは公爵家が続ける。3年ぶんを先に送る」
俺は顔を上げた。
「閣下」
「王都の商家に口を利いた。書役の仕事だ。字が読めて数の数えられる人間を探していた。行かなくてもいい。行くなら明日にはつなぐ」
「閣下」
「馬車を出す。今日の夕方だ」
全部そろっている。
俺がこの屋敷を辞められない理由を、俺は数えたことがある。仕送りと、次の働き口と、冬までに屋根のある場所を見つけられるかどうか。3つだ。
その3つが順番に潰されていく。
この人は俺の生活を数えていた。皿の枚数を数える俺を毎晩見ながら、雇い主のほうはこっちの勘定を数えていた。数えて、全部埋めてから、切りに来ている。
こめかみのあたりが内側から押された。
「閣下。書面をいただけますか」
「口頭で足りる」
「毒見役の解任は、理由と日付を記して、雇い主の署名を入れて本人へ渡すと聞いています。マレンさんから」
「足りる」
「足りません」
「毒見役」
壁ぎわから声がした。
マレンさんが半歩前へ出ている。
「若様。書式では——」
「マレン」
それきりだった。
マレンさんは口を閉じて、半歩下がって、また両手を前で組んだ。この人が言いかけてやめるのを見るのは、これで2度目になる。1度目はつい先日、二階の廊下の窓のところだった。
俺は何か言おうとする。
言おうとして、頭の中の言葉が全部、順番を失っているのに気づいた。理由が聞きたい。書面が欲しい。3日のことが聞きたい。壺の件は誰が続けるのか。次の毒見役はいつ入るのか。冬の献立は。離れからの届け物は。
全部が同時に上がってきて、どれも先頭に立てない。
「かしこまりました」
自分の声がそう言った。
言ってから、俺は自分の口を疑った。
身につけた返事だ。閣下が何かを言い、俺が承る。作法として正しい。正しい形がいちばん要らない場面で先に出た。
この人は俺を見なかった。
卓の上の帳簿を開いて、羽根ペンを取って、それきり顔を上げない。ペンを持つ手はもう震えていない。
昨日の夜、俺があの手からペンを取り上げた。
今日、この人はそのペンで俺を切っている。
荷はすぐまとまった。
増えたものが少ない。上着が2枚。前のと、マレンさんに仕立ててもらったやつ。板が1枚。手の帳面の紙束。故郷から来た手紙が3通。
銀の毒見皿は卓の上に置いた。あれは公爵家の備品だ。縁の内側に俺のつけた傷が残っているが、傷は俺のものではない。
厨房へ下りた。
湯気と獣脂と煮えた根菜。この家でいちばん濃い場所のはずが鼻に来るのが薄い。倒れる前の厨房がどのくらい濃かったのか、もう比べられない。
「ドランさん」
「聞いた」
この人は鍋の前に立ったまま、こちらを見なかった。
「明日から根菜が多くなるとうかがっていました。すみません」
「謝るな」
「はい」
「謝られる筋合いがねえ。俺はお前を雇ってねえ」
包みが飛んできた。
受け止めたら重い。中身は塩漬けの肉と、堅パンと干した根だ。
「いりません」
「持ってけ」
「これは厨房のものです」
「俺が作った。俺のもんだ。持ってけ」
「……もらっていきます」
「ユエル」
俺は顔を上げた。
ドランさんはこっちを見ていない。まな板の上の何もない場所を見ている。閣下がふた匙食べた夜と同じ立ち方だ。
「ドランさん。1つだけお願いがあります」
「言え」
「明日から、卓に出すものを減らさないでください」
「なんだと」
「毒見役がいなくなると、厨房は数を減らします。危ないものを出さないようにするからです。減らすと、閣下は食べる量を減らします。減らしたぶんは戻りません」
ドランさんの肩が上下した。
「……お前、まだあの卓の心配してんのか」
「仕事だったので」
「切られたんだろうが」
「切られました。それはそれです」
この人は返事をしなかった。
しなかったかわりに鍋の蓋を持ち上げて、中身を確かめて、また戻した。20年やってきた手つきだ。
トビは洗い場にいた。
泡だらけの手を止めて、こっちを見て、それから顔をくしゃくしゃにした。
「僕のせいだ」
「違う」
「夏に僕が話したから」
「関係ない」
「じゃあなんで」
「言えない」
命令は生きている。切られても生きているものがある。
「意味わかんない」
「俺にも半分しか分からん」
トビが泡のついたまま俺の袖を掴んだ。上着が濡れる。これから半日歩くのに濡れた上着は困る。困るのに、俺は振りほどかなかった。
「ユエル。また来る?」
「わからん」
「来てよ」
「わからん」
「わからんばっかりじゃん」
わからんばっかりだ。
門前に馬車が止まっていた。
外套を腕にかけたマレンさんが立っていて、その横にクレイス・ヴァルドレイがいる。見送りに出る人ではない。門は使用人と荷の通る場所で、この家の当主がここに立つ用はない。
「毒見役。お召し物でございます」
マレンさんが外套を差し出した。厚い冬のやつだ。俺の持っているものではない。
「これは」
「若様のご指示でございます」
俺は外套を見た。
見て、受け取らなかった。
「公爵家のものは置いていきます」
「毒見役」
「規定にそうあります。備品は返します」
マレンさんは外套を腕に戻した。戻すとき、この人の指が布の縁を強く握る。
俺は馬車のほうへ目をやった。
御者が待っている。轅の横で、馬が息を白くしている。もう冬の入口だ。
「馬車も結構です」
「毒見役」
「村まで歩きます。宿を取ります。明日の朝、乗合が出るとうかがいました」
そこで、俺はクレイス・ヴァルドレイのほうを向いた。
雇い主はまっすぐ立っている。手は体の横に下りていて、震えていない。今日は一日、震えていない。
「閣下。1つだけ、うかがってよろしいですか」
「言え」
「俺が寝ていた3日、あなたは何を召し上がりましたか」
風が門のあいだを抜けた。
答えが来ない。
「水だけだとうかがいました。3日です。医師が来て薬師が来て、屋敷じゅうが動いていたあいだ、あなたは水しか口に入れていない」
「毒見役」
「毒見役を切るのはご自由です。あなたは雇い主です。書式にも、雇い主の一存で足りると書いてあります」
声が大きくなっていた。
門番が振り返るのが目の端に入る。俺は敬語をやめなかった。やめる代わりに、声を落とすのをやめた。
「でも、切ったあとにあなたが何を口へ入れるのかを、俺は知りたいんです。それを聞く資格が俺にないなら、俺はこの5か月、何をしていたことになるんですか」
この人は答えない。
答えないのがこの人の答え方だと、俺はもう知っている。知っていて、今日はそれで済ませる気がない。
「閣下。あなたは俺の給金の行き先まで数えていた。妹の薪代まで数えて、3年ぶん先に払うと言った。次の働き口まで用意した。俺が困る順番を、あなたは全部数えたんでしょう」
奥歯を噛んだ。噛んでから、力を抜いた。
「そこまで数えられる人が、なんで自分の皿の数だけ数えないんですか」
門のところが静まった。
マレンさんが動かない。御者も動かない。馬だけが足を踏み替えて、蹄が石を打つ音が短く鳴った。
クレイス・ヴァルドレイの口が少し開く。
開いて、閉じた。
何か言おうとして、言葉を持っていない顔だ。俺はその顔を知っている。夏の食堂で、美味しいですかと聞いたときに見た顔だ。あのときは黙られて、こっちが引いた。
今日は引かない。
引かないまま待って、それでも何も出てこなかった。
「……行け」
待った時間に対して、2文字だ。
「はい」
今日この人は俺の名を一度も呼ばなかった。
俺は頭を下げた。
5か月やってきた角度で下げて、上げて、それから背を向ける。
門が閉まる音は思ったより小さかった。
村へ下りる坂は屋敷から出て最初の曲がりまでが急だ。荷を肩にかけ直して、俺は下りはじめた。逃げ足の速さだけで生きてきた男だ。歩くのは得意なはずだった。
得意なはずのものが今日は一つも働かない。
曲がりのところで足が止まった。
振り返る。
冬の入口の空はもう色を落としていて、屋敷の輪郭が黒くなっている。灯りが見えた。厨房。玄関。二階の廊下。
書斎は暗い。
あの人は今夜、帳簿の前にいない。
その先の突き当たりに、鍵のかかった部屋がある。掃除は止まっている。瓶が15本並んでいて、封の割れたやつが1本。壺の油に混ぜられた月桂樹がどこから来たのかは、まだ分かっていない。
誰が混ぜたのかも分かっていない。
その部屋の主は今夜から毒見のいない卓に一人で座る。
俺は肩の荷を握り直した。
……ふざけるな。




