第22話「解任状に署名がない」
村の宿で一晩考えた、と言えれば格好はついた。
実際には考えていない。寝床で俺がやっていたのは書式の読み直しだ。毒見役の解任は理由と日付を記して雇い主の署名を入れ、本人へ渡す。署名のないものは紙切れにすぎない——雇われた最初の週に、廊下でマレンさんがそう言った。
俺は昨日、紙を1枚も受け取っていない。
手続きのうえでは、俺はまだヴァルドレイ公爵家の毒見役だ。
そして今朝、その毒見役は持ち場を空けている。
乗合の待合で、俺は膝の上の荷を見下ろした。前世で品質管理をやっていた人間としては、ここを見過ごせない。工程を抜けるなら引き継ぎが要る。引き継ぎのない離脱は事故のもとで、事故はたいてい人の口に入るところで出る。
……理屈が通ってしまった。
通ってしまった理屈は捨てにくい。俺は荷を担ぎ直して、坂を上りはじめた。
ヴァルドレイ邸の門は昼のあいだ開いている。
塞いだのは門のほうではなく、横から出てきた門番だった。ガレルという40男だ。冬になると、片方の膝をかばう立ち方になる。
「毒見役」
「はい」
「あんた、昨日出てったよな」
「出ました」
「で、今、入ろうとしてるよな」
「入ろうとしています」
「解任されたって聞いたぞ」
「書面を見せていただけますか」
「は?」
「解任状です。理由と日付と、雇い主の署名の入ったものです。それがあれば、俺はこのまま坂を下ります」
ガレルは口を半分開けたまま、俺を上から下まで眺めた。
「そんなもん、俺が持ってるわけねえだろ」
「では、お持ちの方に確かめていただけますか」
「……あんた、そんな面倒くさい男だったか」
「規定どおりです」
嘘だ。昨日までの俺なら、この門で引き返して宿へ戻り、朝の乗合に乗っていた。逃げ足だけで生きてきた男が、坂を上る側へ回っている。
自分でもどうかと思う。思うのに膝から下が勝手に進む。
厨房脇の階段を上がったところで、トビが桶を落とした。
水が跳ねて、俺の靴の縁が濡れる。
「ユ、ユエル」
「よう」
「なんで」
「勤めに来た」
「クビでしょ!」
「書面が出ていない」
「しょ、しょめん」
「出ていないんだ。だから今日も俺は毒見役だ」
トビは桶を拾って、それをもう一度落とした。2回目のほうが派手に鳴った。
その音を聞きつけて、廊下の奥からマレンさんが出てくる。
俺を見て、足が止まった。この人の歩みが途中で切れるのを見て、こっちが先に身構えてしまう。
「毒見役」
「マレンさん。お願いがあります」
「うかがいましょう」
「銀の毒見皿を返していただきたいのですが」
「昨日、卓の上に置いていかれたものでございますね」
「置いていきました。備品ですので」
「では、なぜお返しするのでしょう」
「在職中だからです」
マレンさんは何も答えなかった。
腰の鍵束から1本を選んで、食器室のほうへ歩き出す。ついて来いという合図なのだと分かるまでに、俺は数呼吸ぶん遅れた。
棚の上に、布に包まれたものが置いてあった。
受け取ると、結び目が俺の結び方ではない。俺は端を2回くぐらせる。これは1回だ。誰かが昨日のうちにこれを拭いて、包み直して、ここへ上げている。
「マレンさん。磨いてありますね」
「油は新しい壺のものを使っております」
「誰が磨いたんですか」
「わたくしは磨いておりません」
そこで話が切れた。切れたところに答えが置いてある。
夕食の時刻に俺は食堂へ入った。
長卓に椅子が2つ。片方が当主の席で、もう片方が俺の席だ。俺の席には何も出ていない。皿も匙も水の器もない。昨日のうちに片づけられて、卓の木目だけが残っている。
俺は厨房から匙を1本借りてきて、自分の右手前に銀の毒見皿を構えた。位置は雇われた日から変えていない。主人の鉢から取り分けるには、腕一本の距離がいちばん速い。
座って、待つ。
足音が来た。
クレイス・ヴァルドレイが扉のところで止まる。
この人はまず俺を見て、それから卓の上の銀を見た。順番が逆だったら、俺はもう少し楽ができた。
「閣下。本日もよろしくお願いいたします」
返事はない。
歩いてきて、いつもの椅子に座る。座ってから、卓の向こうでようやく口が動いた。
「なぜここにいる」
「勤務中ですので」
「昨日、解いた」
「うかがいました」
「では帰れ」
「書面を頂戴していません」
下働きが鉢を運んできた。
根菜と塩漬け肉の汁。麦のパン。干した果実を戻したもの。冬の入口の卓は色が減る。減ったぶん、匂いは前より分かりやすくなる。
俺は取り分けの匙を手に取った。
「よせ」
夏に何度も聞いた一語だ。
あのころの俺はこの一語で必ず手を止めた。止めて、抗議して、最後は腹を鳴らしながら下がる。それを何十回やったのかはもう数えていない。
今日は止めない。
主人の鉢から銀の皿へ取り分けて、顔を近づける。
「毒見役の解任には、雇い主の署名が要ります」
匂いを取る。土のものが煮えた匂いと塩漬け肉の脂。鼻の奥に引っかかるものはない。
「口頭では足りません。理由と日付を記し、雇い主の署名を入れて本人へ渡す。マレンさんに教わりました」
色を見る。汁は澄んでいて、底に沈んだものが動かない。
「署名のないものは紙切れにすぎない、と」
銀の縁を光に傾ける。曇りは出ていない。
「俺は、紙切れも受け取っていません」
ひと匙。
卓の向こうから手が伸びてきた。
速い。この手には夏じゅう負けている。
負けたぶんだけこちらも覚えていて、俺は皿を手前へ引いた。腕一本の距離は引けば腕一本ぶん遠くなる。
匙が俺の口に入った。
飲みこむ。塩の当たりが強い。卓に出す相手が一人だけの日の味付けだ。ドランさんは俺が戻る前提で今日の味を決めていない。舌にも喉にも余計なものは残らない。
「本日の夕食、毒はございません。どうぞ」
伸びたままの手が、卓の上で行き場をなくしていた。
クレイス・ヴァルドレイは立ち上がった。
食堂を出ていく。俺は座って待った。待つ以外にやることがない。皿は目の前にあって、俺の仕事はもう終わっている。
戻ってきたこの人の手に紙が1枚あった。
卓に置かれる。俺はそれを引き寄せて、目を落とした。
上のほうに日付が入っている。秋の日付だ。厨房に秋のものが入りはじめたころにあたる。
その下は白い。
理由を書く場所には何も入っていない。名を入れる場所にも何も入っていない。紙の真ん中あたりにインクの染みが2つあって、押さえ紙を当てた跡がぼんやり残っている。落ちたところに落ちたまま乾いていた。
俺は紙の端を持ったまま動けない。
この紙は秋のうちに書かれている。書かれて、途中で止まって、それから引き出しの中にいた。日付が先に決まって、残りの2つがずっと決まらないまま冬になっている。
「閣下」
「なんだ」
「これは書式として未完成です」
「……」
「日付のみが記入されています。理由の記載がなく、雇い主の署名がありません。この状態で交付されたものは、公爵家の書式に照らして効力を持ちません」
自分の声が事務の声になっているのが分かった。
前世で不備のある書類を突き返すとき、俺はいつもこの声を使った。責めると人は隠す。隠されると、次はもっと分からなくなる。
俺は紙を裏返して、卓の上を滑らせて、この人の手元へ戻した。
「差し戻します」
クレイス・ヴァルドレイは紙を見た。
取らない。卓の上に残したまま椅子に座り直す。座る音がしない。音のなさのほうが、言葉より長く食堂に残った。
「毒見役」
「はい」
「お前は、なぜ戻った」
来た。
この質問への答えを俺は持っていない。持っていないので、持っているほうで答える。
「明日の朝の献立をうかがっていません」
「聞いていない」
「昨日、うかがう前に門を出ました。引き継ぎが済んでいません」
この人はしばらく黙っていた。
それから自分の鉢へ匙を入れた。いつもの速さでいつもの量で。俺は板を膝の上へ出して、今日の行に異常なしと書いた。歪んだ字だ。指がまだ全部は戻っていない。
卓が片づいてから、俺は厨房へ下りた。
竈の火は落ちかけていて、鉄鍋が壁ぎわに寄せてある。ドランさんが洗い場の縁に腰を下ろして、包丁の刃を布で拭いていた。
「ドランさん」
「帰れ」
「帰りました。それで戻ってきました」
「そういう意味で言ってねえ」
刃を拭く手は止まらない。俺は樽に寄りかかって、次の言葉を探した。探しているあいだに、向こうが先に口を開く。
「食ったか」
「今、卓でひと匙いただきました」
「そうじゃねえ。昨日持たせたやつだ」
「半分いただきました」
「残りは」
「宿の主人にやりました」
「なんでだよ」
「1泊ぶんの宿賃が足りなかったので」
ドランさんが刃を布から出したまま、こちらへ顔を向けた。
「お前、うちの塩漬け肉を宿賃にしたのか」
「はい」
「いくらの値がついた」
「1泊と、朝のパンです」
「安い」
「俺もそう思いました」
「二度とやるな」
「はい」
ドランさんは舌打ちをして、包丁を鞘へ収めた。収める手つきが乱暴なのに、刃はどこにも当たらない。20年のあいだに乱暴さのほうが正確になった人の手だ。
「ドランさん。明日の朝は何が出ますか」
「昨日言った」
「聞きました。でも昨日の俺は門の外にいたので、聞き直しに来ました」
「同じ話を2回するのは嫌いだ」
「存じています」
「……根菜の汁と、麦のパンと、干した魚を戻したやつだ」
「魚は塩を抜くのに時間がかかりますね」
「明け方から水を替える」
「では、俺も明け方に来ます」
「来なくていい」
「水を替える者が一人だと、替えた回数を誰も数えられません」
ドランさんは布を洗い桶へ放りこんだ。
「おい」
「はい」
「明日から、鍋を1つ多く火にかける」
「1つ」
「毒見役の飯だ。卓が終わったあとに残しといてやる。お前がいねえあいだ、その鍋は出してねえ」
俺は返事をしようとして、声が半拍遅れた。
この厨房には俺のぶんの鍋がある。いなくなっていたあいだは出していなかったと、ドランさんはわざわざ今それを言った。
「……いただきます」
「そこで泣くな」
「泣いていません」
「顔がひどい」
「もとからです」
厨房を出て、俺は使用人棟のほうへ足を向けた。
途中で違うと思い出す。俺の寝床は本館の二階の続き部屋で、そこへ上がる階段は反対側だ。
階段の下でトビとすれ違った。
「ユエル」
「ん」
「明日もいる?」
「書面が出るまではいる」
「書面って何」
「紙だよ。すごく強い紙」
「意味わかんない」
意味は分からなくていい。分かってしまうと、あの人が紙を1枚書けずに秋を越えたことまで説明しなければならなくなる。
俺は階段を上がった。
二階の廊下の突き当たりには、まだ鍵のかかった部屋がある。瓶が15本並んだままで、油に何が混ぜられたのかも、混ぜた手が誰のものかも分かっていない。
答えが出るまで、あの卓に毒見役が要る。
自分の部屋の扉の前で足が止まった。
扉のわきに、椅子が一脚置いてある。
誰も片づけていない。




