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悪役公爵の毒見役に転生したら、閣下が俺にだけ甘い  作者: 夜凪 蒼


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第23話「【Side セラン】頼まれごとだけが親子の時間だ」

母が僕の名を呼ぶのは、頼みごとのあるときだけだ。


 今朝は2回呼ばれた。1回目は起き抜けに、2回目は朝の膳が下げられたあとに。僕たちの離れは兄上の屋敷から林ひとつ隔てたところにあって、部屋が5つしかない。名を呼べばどこにいても届く。届くのに、母は用のない日には呼ばない。


 だから僕は呼ばれると走る。


「セラン。こちらへいらっしゃい」


「はい、母上」


 母は窓ぎわの書き物机に向かっていた。


 喪の色を、この人は父が死んだ年からやめていない。黒に寄せた青の襟がいつもきちんと立っていて、髪は朝いちばんに結い上げられている。指がきれいだ。冬でも荒れない。


「宛名を書いてくれるかしら。あなたの字のほうが読みやすいの」


「何通ですか」


「14通。冬のお茶会よ」


 僕は母の隣に椅子を置いて座った。


 紙は上等なやつだ。指の腹でなでると、繊維の目が縦に走っているのが分かる。母はこういうところに金をかける。届いた紙の手ざわりで招く側の格が決まるのだと、僕は10になる前に教わった。


 インクの壺の蓋を開ける。鉄と、乾いた木の実の匂いが立った。この離れのインクはずっとこの匂いだ。


 1通目の宛名を書く。伯爵夫人。2通目、子爵の未亡人。3通目、領の代官の妻。


「セラン。字が父上に似てきたわね」


「そうですか」


「ええ。あの方は角の払いをこう、少し外へ逃がしたの」


 僕は自分の書いた字を見た。


 払いが外へ逃げている。似ているのは僕ではなくて、僕の手の癖のほうだ。母が褒めているのは、僕の手の中にいる父のことだと思う。それでも僕は嬉しかった。嬉しくなる自分のことを、僕はあまり好きではない。


「母上。この方は、去年もお呼びしましたか」


「呼んだわ。ご主人を亡くされて2年目よ」


「では、今年も」


「今年のほうが大事なの。1年目はみんなが訪ねてくるでしょう。2年目から誰も来なくなる」


 母は羽根ペンを置いて、僕の書いた宛名を1枚ずつ確かめた。


 確かめる目は速い。字の形ではなく、名前の並びを見ている。誰と誰を同じ卓につけるか。誰の名を上座に書くか。この人は人の名前を、卓の上に並べる駒として見る。


 冷たい人だと言われているのを僕は知っている。


 違うと思う理由を僕は持っている。去年の冬、領の南で舟が沈んだとき、いちばん早く炭と毛布を出したのは離れだ。屋敷ではない。母は名簿を作らせて、寡婦と子どもの数を数えて、数えたぶんだけ配った。配る先を選ばなかった。


 足りない家には母が自分の冬の反物を切って回している。それを誰にも言わないので、南の人たちは今も屋敷が出したのだと思っている。母は訂正させない。訂正させたほうが得になる場面でもしない。


「母上。今年は南のほうからもお呼びしますか」


「呼びます。呼ばれない場所は、そのうち呼び方を忘れるから」


 この人の言うことはたいてい正しい。


 正しいことを言う人が、僕にだけ何も言わないというのは、どういうことなんだろう。


「兄上は、いらっしゃいますか」


 母の手が紙の上で少し遅れた。


「お招きはします」


「来られますか」


「来ないでしょうね。あの子は父上の代から、離れの卓には座らない」


「では、なぜお招きに」


「招かない家のほうが、外から見て変なのよ」


 僕はうなずいた。うなずきながら、8通目の宛名を書いた。


 ヴァルドレイ公爵、と書く。


 この4文字を書くのは去年もおととしもやっている。僕は兄の名を紙に書く回数のほうが、口に出す回数より多い。


 兄上のことで、僕がはっきり覚えているものは少ない。


 中庭で走ったことがある。あれは僕が6つで兄上が10だった。回廊の柱を1本ずつ数えながら端まで走り、戻ってきて、また走る。柱は27本ある。数を声に出す僕に、兄上は合っているとも違うとも言わない。


 僕は走りながら笑っていた。


 兄上は笑っていなかった。


 あのとき僕は兄上が息を切らしていないのだと思った。そのあと屋敷でも離れでも何度も顔を合わせて、僕はまだ一度も、あの人が笑ったところを見ていない。


 笑わない人だという噂は外にもある。人を人と思わない、とまで言う人がいる。僕はその噂を否定したことがない。否定できるだけのものを持っていないからだ。


「セラン」


「はい」


「10通目は、少し間を空けて書いてちょうだい。あの家は名前が長いから」


「かしこまりました」


 昼まで書いた。


 14通目にかかるころには、右の手首が固まっていた。母の紙は目が詰まっているぶん、ペン先が引っかかる。引っかかるたびに力を抜いて、また下ろす。ここで焦ると字が痩せる。


 書き終えたら、母は封蝋を溶かしはじめる。ここから先は僕の仕事ではない。誰にどの色の蝋を落とすかは母が決めていて、僕は決め方を教わっていない。


 僕は椅子を戻して、部屋を出た。


 出るとき、扉のところで振り返った。


 母は蝋の匙を火にかけていて、こちらを見ない。


 これでいいのだ、と自分に言い聞かせる。頼まれごとが終われば僕の時間も終わる。次に呼ばれるまで、僕は離れのどこかにいる。


 僕と母が同じ部屋にいるのは、母に用があるときだけだ。


 用のない日は1日も呼ばれない。呼ばれない日をつなげると、月のうち20日くらいになる。数えたことがあるのを、僕は誰にも言っていない。


 秋の終わりに屋敷で人が倒れた。


 兄上の毒見役だ。ユエル・メリクという平民の男で、僕は夏の終わりに一度会っている。反物に湯をかけて色を確かめる人だった。あんなふうに客の前で仕事をする使用人を僕は知らない。


 倒れたと知らせが来たのはその日の夜だった。


 離れの取次が母の部屋へ入って、すぐに出てきた。僕は廊下でそれを見ていた。取次は僕の前を通り、何も言わずに階段を下りていく。


 次の日もその次の日も、僕は母の部屋の前を通った。


 3回通って、扉はどの日も開いていた。開いた扉の向こうで、母は帳面を開いていたり、侍女に何かを渡していたりした。


 僕は毎回、扉の前で足を止めている。母が顔を上げれば、僕の1日はそこから始まった。母は帳面から目を上げない。3日目は僕が通ったことにも気づいていなかったと思う。


 母は僕を呼ばなかった。


 あの3日、母は僕に何も頼まなかった。


 頼みごとがないというのは、この離れでは何もない日ということだ。何もない日が3日続いて、屋敷では人が死にかけていた。


 僕はそのとき、変だと思わなかった。


 思ったのは毒見役が目を覚ましたと聞いた日だ。その日も母は僕を呼ばなかった。呼ばれなかったから、僕は自分の部屋にいて、窓から林を見ていた。


 そのうちに順番が並んだ。


 頼まれごとがなかったのは、もう済んでいたからではないか。


 裏庭へ下りた。


 離れの裏は物置と井戸と、あとは冬に薪を積む場所しかない。石を敷いていないから、霜の朝は靴の底に土がくっつく。今日は昼を過ぎているのに、日の当たらない側の地面がまだ白い。


 物置の戸を開けた。


 中は古い樽と、割れた鉢と、使わなくなった馬具が積んである。奥の壁に立てかけてある板を、僕は少しだけずらした。


 板の裏に、布に巻いたものがある。


 小瓶だ。


 中身は空で栓もない。手のひらに収まる大きさで、腹のところがわずかに膨らんでいる。ガラスが薄いので、光に向けると向こう側の指が透ける。


 口を鼻へ近づけた。


 乾いた葉と樹脂の匂いがする。月桂樹だ。この匂いは離れじゅうに染みついている。母がこの香りを好むからで、屋敷へ贈るものにも同じ香りを使っている。


 秋の終わりに、母は僕にこれを2本持たせた。


「セラン。おつかいを頼めるかしら」


 あのときの母の声を、僕はまだそのまま思い出せる。


「はい」


「屋敷へ行って、勝手口の外の井戸のところに、これを置いてきてちょうだい。石の下でいいわ」


「どなたにお渡しすればよいですか」


「渡さなくていいの。置いてくるだけ」


「……はい」


「もう1本は余りよ。帰りに林で捨ててきなさい」


 僕は言われたとおりに1本を置いてきた。


 もう1本は捨てていない。


 なぜ捨てなかったのかを、僕は今も説明できない。林の道は暗くて、投げれば下生えの中へ消える。手を離せば終わりだった。手を離せなかった。


 持って帰って、布に巻いて、物置の板の裏に隠した。隠したときには隠している自覚もなかったと思う。


 僕は小瓶を握った。


 ガラスが冷たい。冷たいものを握っていると、指の関節のあたりから力が抜けていく。


 この中に入っていたのは香油だ。母はそう言った。言わなかったけれど、僕は香油だと思っていた。匂いが香油だからだ。


 香油を、なぜ勝手口の外の石の下に置くのか。


 届け物なら取次に渡せばいい。離れから屋敷へは季節ごとに箱が行っている。使者もいる。荷車もある。全部あるのに、あの日は僕が歩いて、石の下に置いてきた。


 僕は目を閉じた。


 順番は消えない。僕が石の下へ瓶を置き、そのあとで毒見役が倒れた。母は3日、僕を呼ばなかった。


 これで何かが分かったわけではない。


 瓶の中身が何だったのかを僕は知らない。知る手だても持っていない。屋敷の毒見役なら鼻で分かるのかもしれないけれど、あの人に渡せば、渡した僕の話をしなければならなくなる。


 母の名を出さずに、この瓶の話だけをする方法が思いつかない。


「セラン」


 窓から声がした。


 二階の母の部屋の窓が開いている。母がそこから僕を見下ろしていた。


「はい、母上」


「蝋が足りないの。屋敷の備えを分けてもらってきてちょうだい」


「かしこまりました」


「ついでに、公爵へ直にお渡ししてほしいものがあるわ。上がっていらっしゃい」


 僕は小瓶を袖の内側へ入れた。


 物置の戸を閉める音が思ったより大きく鳴って、井戸の縁にいた鳥が林のほうへ抜けていく。


 名を呼ばれた。


 呼ばれれば僕は行く。行かないという道があることを、僕はまだ思いついていない。


 階段を上がりながら、袖の中のガラスが腕に当たった。


 当たるたびに、僕は歩幅を少しだけ狭くしていた。

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