第7話「逃げ足だけが取り柄だったのに」
今日こそ、俺が先に食う。
そう決めて食堂の扉を開けた。
夏が本気を出しはじめて、ヴァルドレイ邸は昼のあいだ壁まで熱を持つようになった。日が落ちても石が冷めきらない。食堂に入ると、床から上がってくる熱と、海から吹き込む塩の風が真ん中でぶつかっている。
今夜の献立は干し鱈をほぐして酢と麦に和えたもの。それに豆の冷たい汁と塩漬けの瓜。暑い季節にはこういうものを出す家らしい。
俺は自分の席に着いて、袖をまくった。仕立て直してもらった上着はまだ届いていないので、擦り切れた袖のままだ。
長卓の向こうで、クレイス・ヴァルドレイが匙を取る。
俺のほうが早かった。
和え物の鉢に手を伸ばして、縁を掴む。ひと月半ぶんの敗北から学んだのは一つだけで、この人より速く動くのは無理だということだった。だから今日は最初から手を置いておくことにした。
置いた手の上に、この人の手が重なる。
熱い。相変わらず、この人の手は体温が高い。
「離せ」
「離しません」
「離せ」
「離しません」
声が震えていないことに、自分でも驚いていた。
鉢は動かない。俺が押さえていて、この人が引こうとしていて、二人ぶんの力が卓の上で釣り合っている。壁ぎわのマレンさんが息を止めているのが背中で分かった。
「閣下。一つだけ聞かせてください」
「離してから言え」
「離したら、また持っていくでしょう」
「持っていく」
正直な人だ。腹が立つほど正直だ。
卓の上で、俺の指とこの人の指の骨が当たっている。爪の形まで見える距離だ。人差し指の付け根に白くなった切り傷が一本あって、そこだけ皮が厚い。使用人が主人の手に触れていい間合いではないし、この体勢はどう説明しても不敬になる。
それでも離せなかった。
俺は鉢の縁を握ったまま、顔を上げた。灰色の目がこんなに近くにある食卓はこれまでなかった。
「あなたが先に食べたら、俺の仕事は何ですか」
言葉が食堂の壁に当たって、返ってきた。
自分の声が思っていたより大きい。慌てて音量を落として、それから、落とすのをやめた。
「毒見役として雇われました。年俸をもらっています。破格です。死ぬ危険が込みの額だからです。俺はその額に見合う仕事をするつもりで、ここに来ました」
「知っている」
「知っているのに、させてくれない」
「食うな、と言った」
「食わないと毒見になりません。この話、もう5回はしました」
この人の口が動いて、止まった。
いつもならここで「先に食う」が出てくる。説明の一つもつかないまま、短い言葉が卓に置かれて終わる。
出てこない。
「閣下。俺は毎日この席に座って、皿に手を伸ばして、取り上げられて、下がっています。仕事をしていないのに給金だけもらっている。それがひと月半続きました」
鉢の縁が汗で滑って、俺は握り直した。
「俺の妹は、その金で冬の薪を買います。俺はその金を、働いてもらったことにしたい」
「金なら払う」
「そういう話じゃないんです」
「では、どういう話だ」
どういう話だ、と聞かれて、俺は一度息を吸った。
吸って、吐いて、それから言った。
「毒が入っていたら、俺が食います。それが仕事です。閣下が食べたら、その仕事は消えます。仕事が消えた人間は、この屋敷にいる理由がなくなります」
いる理由がなくなる。
言いながら、自分でも予想していなかった場所に着地したのが分かった。俺が守りたかったのは給金の話だったはずだ。それなのに口から出たのは、ここにいる理由の話だった。
クレイス・ヴァルドレイが黙った。
この人が黙るのを俺は初めて見た。
いつも言葉が短いだけで、返事はある人だった。ふたつみっつの単語で、こちらの言い分を切って落とす人だった。それが今、何も出てこないまま、こちらを見る目だけが動かない。
鉢に重なっていた手から、力が抜けた。
抜けて、離れた。
俺は鉢を引き寄せた。匂いを取り、色を見て、銀の縁を確かめる。異常なし。ひと匙を口に運んで、酢の酸味と麦の粉っぽさを舌の上で分けた。喉を通す。
顔を上げると椅子が動いていた。
「……今夜はいい」
クレイス・ヴァルドレイは折った布を卓へ置いて、椅子を戻さないまま食堂を出ていった。
和え物の鉢も豆の汁も、塩漬けの瓜も、手をつけられないまま卓に残された。
俺は匙を持ったまま、しばらく動けなかった。
勝った、と思った。思ったのに、口の中の酢が急にすっぱいだけの味になった。
マレンさんが卓へ来て、手をつけられていない皿を下げはじめた。皿の当たる音がいつもより丁寧に抑えられている。
「マレンさん。俺、まずいことしましたか」
「わたくしは何も見ておりません」
「見てましたよね、全部」
「見ておりましたが、申し上げることはございません」
そう言いながら、この人は俺の前の皿だけを下げずに置いていった。
回廊に出ると、夜の風が少しましだった。
ヴァルドレイ邸の回廊は中庭に面していて、屋根はあるが壁がない。柱と柱のあいだから虫の声が入ってくる。海のほうから来る風は湿っていて、塩と草の匂いが混ざっていた。
柱にもたれて、俺は前世のことを考えた。
俺の唯一の才能は逃げ足だった。
小学校では殴られる前に逃げる。中学では面倒な役が回ってくる前に手を挙げない技術を覚えた。会社に入ってからは、揉めそうな案件を隣の部署へ上手に流すのが得意だった。俺の人生の勝率は、逃げた回数とだいたい一致している。
その俺がたった一度だけ逃げそこねた。
月末の棚卸し。誰も代わってくれない量。押しつけてきた同期。あのときの俺は逃げ方が分からなくて、机の前で数字を数えて、そのまま床に伸びた。
だから今世では絶対に逃げると決めていた。
なのに今日、俺は鉢の縁を握って離さなかった。
足は動かせた。逃げようと思えば逃げられた。それでも握っていたのは、あの人が俺の皿を持っていくのが、どうしても嫌だったからだ。
嫌の中身が何なのかは、まだ言葉にできない。
言葉にできないまま、俺は柱の木目を指でなぞった。夏の夜の木は昼のあいだの熱をまだ抱えている。
「ユエルー!」
回廊の端から灯りが揺れて、トビが小走りに近づいてきた。油皿を両手で抱えている。
「見つけた。食堂で閣下と喧嘩したって本当?」
「もう回ってるのか」
「洗い場は速いよ。3回りくらいした」
「喧嘩じゃない。業務上の意見交換だ」
「みんな喧嘩って言ってる」
トビは柱の下に座り込んで、油皿を石の上に置いた。虫の声が一段大きくなる。
「ねえ、閣下ってなんて言ったの」
「今夜はいい、って」
「それだけ?」
「それだけ。飯にも手をつけずに出ていった」
トビの顔が灯りの中で少し歪んだ。
「……それ、変だよ」
「変か」
「変だよ。だって閣下、味しないんでしょ。味しない人が食事を残す理由ってなくない?」
俺は柱にもたれたまま、その言葉を3回くらい頭の中で回した。
そのとおりだ。
味がしないなら、食事は作業だ。作業に好き嫌いは出ない。決められた量を決められた時刻に入れるだけの人が、今夜だけそれをやめた。
つまり、あの人の中には味以外の何かがある。俺の言葉に反応する何かがまだ動いている。
「トビ。俺、明日ちょっと聞いてみる」
「なにを」
「美味しいですか、って」
トビが変な顔をした。
「それ、閣下に聞くの?」
「聞く」
「怒られない?」
「怒られるかもな」
言いながら、俺は自分でも驚いていた。
逃げ足だけが取り柄だった男が、明日の予定に自分から地雷を入れている。
前世の俺が見たら、たぶん全力で止めただろう。止められてもたぶん俺は行くけど。




