第6話「死なない人の、生きる気のなさ」
死なない公爵の服は、寸法が変わらないらしい。
それを教えてくれたのは、俺の腕に麻紐を巻きつけているマレンさんだった。
ヴァルドレイ邸の衣装部屋は、屋敷の二階の北の端にある。窓がなくて、樟脳と乾いた布の匂いが層になって溜まっている。壁に沿って木の棹が渡してあって、先代の外套から下働きの前掛けまで、この家の人間が身につけたものが順番にぶら下がっていた。
棹の奥のほうは色が褪せていて、手前へ来るほど生地が新しくなる。この部屋にはこの家の時間がそのまま吊るされている。どれにも埃よけの麻がかぶせてあって、目の粗い布地の下から袖口だけが覗いていた。
「毒見役。腕を上げなさい」
「上げてます」
「もう少し」
「これ以上やると肩が外れます」
「外れたぶんは寸法に入れません」
冗談なのか本気なのか、声の高さが一つも動かないので判定できない。この人の冗談には目印がついていない。
麻紐が肩の下を回って、胸のあたりで止まった。マレンさんは数字を口に出さずに覚える。この人の頭の中では書式と寸法が同じ棚に並んでいる。
「なんで急に採寸なんですか」
「食堂に立つ者の身なりが貧しいと、家の格を疑われます。あなたの上着は袖が擦り切れています」
「体面ですか」
「体面でございます」
この屋敷の理由は、だいたい体面で説明がつく。毒見役を雇うのも体面。上着を仕立てるのも体面。体面という言葉が、いろんなものの前に立って中身を隠している。
棹に掛かった外套の一つに俺は目を留めた。黒い生地に銀の縫い取り。三本の月桂樹。
「これ、閣下のですか」
「お手を触れないように。……ええ、若様のものです」
「新しそうに見えますけど」
「先代が亡くなられたころに仕立てたものです。それから一度も寸法直しをしておりません」
俺は麻紐を巻かれたまま、その外套を見た。
人間の体は変わる。20歳の男なら、なおさら変わる。肩が張るとか、腹が出るとか、そういう形で服のほうが先に音を上げる。前世の職場でも制服の交換申請はだいたい若い連中から出た。
寸法が変わらないというのは、体が変わっていないということだ。
「マレンさん。閣下って、ちゃんと食べてます?」
「決められた量を、決められた時刻に召し上がります」
「それ、答えになってないですよね」
麻紐を巻く手がほんの一拍だけ止まった。
「若様は、何を召し上がっても味がしないとおっしゃいます」
「何を食べても同じだ、と本人からうかがいました」
「聞かれましたか」
「本人から」
マレンさんは麻紐を外して、それを木の棹の端に掛けた。埃が空気の中で動いて、樟脳の匂いが濃くなる。
「若様が毒を盛られはじめたのは、3歳のころでございます」
言葉の重さのわりに、声の調子が変わらなかった。この人はたぶん、この話を何度も自分の中で言い直している。
「3歳」
「量は少なく、間隔は長く。誰にも気づかれないやり方で。気づいたときには、若様の体は毒に慣れておりました」
「慣れる、というのは」
「少しずつ入れれば、体はそれを受け入れる作りになるそうです。医者は驚いておりました。この量で息をしている者を見たことがない、と」
俺は自分の腕をさすった。前世で読んだ資料の中に、似た話があった気がする。微量を反復して摂ると耐性がつく。理屈としては知っている。
理屈で知っているのと、3歳と聞くのは別のことだ。
「そのぶん、舌が」
「はい。若様は毒に強くおなりになったのではありません。強くならざるを得なかったのです。失われたものの上に、その強さが乗っております」
言い切ってから、マレンさんは口を閉じた。
「誰が盛ったんですか」
「……それ以上は、わたくしの口からは申せません」
「マレンさん」
「毒見役。腕を下ろしてよろしゅうございます」
壁ができた。厚さも高さもこの前と同じ壁だった。
俺は腕を下ろして、擦り切れた自分の袖を見た。3歳の子どもに毒を盛る人間が、この屋敷のどこかに線を引いている。その線の上で、俺は上着を仕立ててもらっている。
夜、書斎の扉を叩いた。
中から短い返事があった。押して入ると、紙とインクと蝋の匂いが一度に来る。ヴァルドレイ家の書斎は本より書類のほうが多い。棚の半分は帳簿で、背に年と塩蔵の番号が書いてある。塩と保存食で立っている家の書斎は、こういう匂いがするのか。
クレイス・ヴァルドレイは卓の前に座って、帳簿に数字を入れていた。
「閣下。報告があります」
「言え」
「食器の件です。厨房から食堂までのあいだに、卓へ手を出せる者が10人以上います。皿を一枚増やせるということは、皿に一匙足せるということです」
羽根ペンが止まった。
「対策を3つ考えました。配膳の経路を一本に決めること。運ぶ者を毎回二人にして、互いに見せ合うこと。皿の裏に印を打って、勘定と突き合わせること」
「不要だ」
「……なぜですか」
「手間が増える」
「増えます。増えたぶん、閣下が生きます」
言ってから、自分の口の勢いに驚いた。前世でこの言い方をしたときは、たいてい会議が長くなった。
「お前の仕事は毒を見つけることだ。屋敷の作りを変えることではない」
「作りが悪いから、毒が入るんです。工程に穴があるのに、出口だけ見張っても意味がありません」
クレイス・ヴァルドレイは羽根ペンを置いて、帳簿を閉じた。
「ユエル」
名前を呼ばれた。雇われてから今日まで、この人が俺の名を口にしたのはこれが初めてだ。
毒見役でもなく、お前でもない。呼ばれ慣れていない側の耳が先に反応して、返事が半拍遅れる。喉の奥が狭い。
「……はい」
「俺が死んでも、家は残る」
言葉の意味がすぐには入ってこなかった。
俺は口を開けて、閉じた。もう一度その一文を頭の中で並べ直して、主語と述語を確かめた。俺が死んでも。家は残る。
順番がおかしい。家を残すために自分が生きる、なら分かる。自分が死んでも家が残るから、対策はいらない。この人はそう言っている。
「閣下。今の言い方ですと、閣下ご自身は勘定に入っていません」
「入れる必要がない」
「入れてください」
「なぜだ」
なぜだ、がまた来た。
この人は毎回そう聞く。こちらの言い分だけは監査にかけて、自分の帳簿は開いて見せない。ずるい書式だ。
俺は卓の前に立って、言葉を探した。
毒に強い体。変わらない寸法。味のしない食事。誰が盛ったかを言えない侍女頭。俺が最初、この人は死ぬ気がないんだなと思った。死ぬのを恐れていないから、皿を取り上げるのだと思った。
並べ終わったところで、指先の温度が下がっていく。
違う気がする。並べた項目のどれも、恐れていない人の項目じゃない。
死ぬ気がないんじゃなくて——生きる気が、と続けようとして、そこで止まった。そんな言い方が世の中にあるのかどうか自信がない。
前世の言い方に直せば近づけるだろうか。死にたがりには目標がある。目標のある不良品は、工程のどこで外れたかを追える。目標がないものは追えない。廃棄予定の棚に検品をかけているようなもので、俺の手順書にその項目は載っていない。
「閣下」
「なんだ」
「閣下は、ご自分が死んでもいいと思っていますか」
書斎が静まった。蝋の芯が小さく音を立てて、火の形が変わる。
灰色の目がこちらを見た。長く見た。この人がこんなに長くひとを見るのを俺は知らない。
答えは返ってこなかった。かわりに、まったく別の言葉が来た。
「お前は死ぬな」
命令の形だった。
ご自分のことは何一つ答えないのに、俺の生死についてだけは命令してくる。
「……それ、順番が逆じゃないですか」
「下がれ」
「閣下」
「下がれ」
もう一度言われる前に俺は頭を下げた。扉を閉めるとき、帳簿を開き直す音が背中に落ちてくる。
廊下を戻りながら、俺は自分の仕事の中身が変わったことに気づいていた。
毒を見つけるのが毒見役の仕事だ。それは間違っていない。
でも毒を見つけたところで、あの人が自分の皿を先に食う理由が消えるわけじゃない。
……これ、思っていたより面倒な職場だぞ。




