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悪役公爵の毒見役に転生したら、閣下が俺にだけ甘い  作者: 夜凪 蒼


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第5話「【Side トビ】新入りが今日も生きている」

「トビ、水!」


 朝の洗い場で、僕の名前は1日に30回くらい呼ばれる。


 トビ、水。トビ、灰。トビ、あっち持ってって。呼ばれるたびに走るのが僕の仕事で、走らないと怒鳴られるのも僕の仕事だ。ヴァルドレイ邸の洗い場は屋敷の北側にあって、朝でも日が当たらない。石の桶が5つ並んでいる。いちばん端が冷たい水で、真ん中が灰汁、奥が湯。


 湯の桶の前に立つと、髪が湿ってぺたっとなる。この匂いが好きじゃない。


「トビ。今日も生きてたのかい、あんたの相棒」


 洗濯番のおばさんが、麻布を絞りながら言った。手首が僕の腕より太い。


「生きてるよ」


「へえ。じゃあ、あたしの負けが確定するね」


 おばさんが舌打ちして、隣の女の人が笑った。桶の水がぱしゃんと跳ねる。


 賭けだ。


 この屋敷では新しい毒見役が来ると賭けが始まる。何日もつか。何日目に辞めるか。何日目に運ばれていくか。誰が始めたのか誰も知らないけど、僕が来る前からあったらしい。


 賭け札は木の切れ端で、洗い場の梁に紐でぶら下がっている。数字が書いてあって、名前の代わりに印が押してある。いま揺れているのは9枚。


 いちばん端で揺れている札を、隣の女の人が指で弾いた。


「あたしのは3日だよ。毎回3日」


「あんた毎回それじゃないか。当たったことあるのかい」


「一度もないね。でも3って字がいちばん書きやすいんだよ」


「書きやすさで賭ける奴があるかい」


 いるんだよ、ここには。この人は次も3を書いて、次も負ける。この屋敷の賭けは、だいたいこういう理由で回っている。


 札の数字は前の人たちの記録から決まる。いちばん長かった毒見役が31日でその次が18日。たいていの人は10日を越えられない。越えられなかった理由は、辞めたか運ばれたかのどっちかだ。


 僕が洗い場に入ってから、毒見役は4人替わった。顔は全員覚えている。名前は2人ぶんしか覚えていない。覚えるより先にいなくなるからだ。


「今回は誰が一番いい札を持ってんだい」


「トビだよ。あいつ、20より上に賭けてる」


 女の人たちの目が、いっせいに僕を向いた。


 僕は湯の桶に木の柄を突っ込んだまま、顔を上げなかった。上げると、たぶん赤くなっているのが見える。


「トビ、あんたずるくないかい。同じ部屋で寝てるんだから」


「ずるくないよ」


「毎晩あの子の話を聞いてるだろ。何を食ったか、何を嗅いだか、閣下が何と言ったか」


「聞いてるけど、賭けのために聞いてるわけじゃない」


 声が思ったより大きく出て、洗い場が少し静かになった。


 おばさんは笑わなかった。麻布をもう一度絞って、水の音の中で言った。


「そりゃそうさ。でもね、聞いた話は、聞いた人間のものになるんだよ」


「どういう意味」


「あんたが持ってる話は、あんたの財産だってこと。財産は使ってこそだろ」


「……財産って」


「使わないもんは、持ってないのと同じさ」


 おばさんは笑いながら次の布を桶へ沈めた。冗談を言う顔をしていた。冗談の顔で本当のことを言う人が、この屋敷にはやたらと多い。


 意味が半分しか分からなかった。分からないのに、胸のところが少しざらついた。


「トビ。あんた、次の賭けが立つときは早めに教えな。悪いようにはしないから」


「……うん」


 うん、と言ってしまった。


 言ってから、なんで言ったんだろうと思った。


 昼過ぎに、洗い上がった布を抱えて中庭を横切った。


 ヴァルドレイ邸の中庭には物干しの綱が3本張ってあって、風が海のほうから来ると布がぜんぶ同じ向きに膨らむ。今日は膨らんでいる。塩の匂いがする風だ。


 綱に布をかけていると、回廊のほうに人影が見えた。


 ユエルだった。


 銀の毒見皿を布で包んで抱えて、マレンさんと何か話している。マレンさんが指を三本立てて、ユエルが首をかしげて、それから二人で執務室のほうへ歩いていく。


 僕はそれを、布の隙間から見ていた。


 変だな、と思った。


 何が変なのか、しばらく分からなかった。布を3枚かけて、4枚目をかけているときに気づいた。


 マレンさんがあの子に説明をしている。


 この屋敷でマレンさんが説明をする相手は、閣下と、外から来たお客さんだけだ。僕がマレンさんに何か聞いても、返ってくるのは「あなたが知る必要はありません」で終わる。3年いて、ずっとそうだった。


 それから、他にもいろいろ思い出した。


 閣下が厨房に下りてきた話。あれは屋敷中がひっくり返るくらいの騒ぎだった。下働きの子が言うには、閣下はドランさんに塩の産地を聞いて、それだけ聞いて帰ったらしい。誰が何のために、と聞いても誰も答えられない。あの場にいた毒見役以外は、みんな首をかしげている。


 玄関広間で、閣下がユエルの腕を掴んだ話。


 これも僕は3回聞いた。3回とも話す人が同じところで声を落とす。閣下が人に触るところを見たことがある人は、この屋敷にほとんどいないから。


 あと皿。


 毒見役の席に、本館の食器棚の皿が出ている。ドランさんの焼き印が入っていない皿だ。厨房の勘定に入らない皿を、誰かが毎晩あそこに置いている。


 僕は布を持ったまま、綱の前で止まってしまった。


 これって、大事にされてるってことじゃないか。


 声に出したわけでもないのに耳が熱くなった。


「トビ! 手が止まってる!」


「ごめん!」


 慌てて布をかけ直したら、風で顔にはりついた。塩と灰汁の匂いがして、しばらく前が見えなくなる。


 見えないままで考えた。


 ユエルはここに来てひと月だ。僕は洗い場に3年いる。


 閣下は僕の名前を知らない。


 知らなくて当然だと思っていた。従僕なんて廊下の一部で、廊下の一部に名前はいらない。それでいいと思っていたのに、今日それを思い出したら、腹の底が変な形に折れた。


 悔しいのとは違う。羨ましいのとも少し違う。


 あの子は外から来た。故郷があって、妹がいて、行こうと思えばどこへでも行ける。僕は生まれたときからこの屋敷の中にいて、街の市場を一度も見たことがない。


 同じ布を、同じ綱に、僕が3年かけている。


 ユエルは悪くない。あの子は毎晩ちゃんと部屋に帰ってきて、厨房でもらった余りを半分こしてくれて、街の話をせがんでも嫌な顔をしない。


 悪くないと分かっているのに、胸のざらつきが消えない。洗い場のおばさんの声が、そこにくっついたまま剥がれてくれない。


 布を全部かけ終わってから、僕はもう一度回廊のほうを見た。


 ユエルはもういなかった。かわりに、二階の窓のところに人が立っていた。


 閣下だ。


 窓の内側から、回廊のほうを見ている。見ているだけで何もしていない。しばらくして、そのまま奥へ引っ込んだ。


 僕はそれを誰にも言わなかった。


 言ったら賭けの話になる。賭けの話になったら、洗い場のおばさんが「早めに教えな」と言ったやつになる。それはなんか、いやだった。


 その夜、部屋に戻ったらユエルが先に寝台に座っていた。


「トビ、遅かったな」


「布が多かったんだよ。夏だから、みんな洗うんだ」


「大変だな」


「大変。ユエルは? 今日も生きてる?」


「生きてる。しかも飯を食った」


「うわ、いいなあ」


 僕は自分の寝台に転がって、天井の梁を見た。


 言おうと思えば言えた。閣下が窓から見てたよ、とか。洗い場で賭けが立ってるよ、とか。あんたたぶん、この屋敷でいちばん変な扱いを受けてるよ、とか。


 でも僕が言ったのはこうだった。


「ユエル。街に行ったら、市場ってどんな匂いする?」


「魚と、果物と、あと人の匂い」


「人の匂い?」


「人がいっぱいいると、そういう匂いがするんだよ」


「ユエルは、市場で働いたことあるの」


「ないよ。通っただけ」


「じゃあ僕が街に出たら、僕のほうが詳しくなるね。3日で全部の店を覚える。噂も覚える。そのうち宿屋を任される」


「話が早いな」


「早いんだよ。僕の人生設計は先まで書いてある」


 言ってから、自分の声が上滑りしたのに気づいた。


「それでも、通ったんだ」


 通ったことがある。その一言で足りてしまうのが僕にはまぶしい。市場の匂いを覚えている人と、想像するしかない人がいる。僕は後ろのほうだ。


 いいなあ、と僕は言った。


 声が思ったより小さくなって、ユエルには聞こえなかったみたいだった。

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