第4話「皿が一枚、多い」
人間は食べないと痩せる。
当たり前すぎて誰も言わない事実を、俺は今、自分の腰紐で確認している。半月前に締めた位置より、穴が一つ内側に来た。
腹の側は正直だ。湯気だけを毎日3回浴びているうちに、体のほうが先に目盛りを下げはじめた。
厨房の余りをトビが分けてくれるので餓死はしない。とはいえ、この職に就いた男が年下の従僕に飯をもらっている構図は、どう並べ替えても情けない。
だから食堂の扉を開けたとき、俺は最初、目の錯覚だと思った。
俺の席に皿が一枚多い。
銀の毒見皿はいつもどおり右手前にある。その左に、白い陶器の皿が置かれていた。中身は今夜の献立と同じ、羊の肩肉と豆を塩で煮たやつ。少量ではない。人ひとりが晩飯として食べる量が、湯気を立てて盛られている。
匙も添えてある。布まで折って置いてある。
その布の折り方が、ほかの席と違っていた。角をきっちり合わせる侍女の折り方ではなく、二つに畳んで端をそろえただけ。誰かが自分の手でやった折り方だ。
「……マレンさん」
「はい」
「これ、なんですか」
「皿でございます」
「そうじゃなくて」
マレンさんは水差しを卓へ置く手を止めずに、表情だけを一つも動かさなかった。この人は嘘をつかないが、聞かれていないことは絶対に言わない。
「誰が置いたんですか」
「わたくしではございません」
「じゃあ誰が」
「存じません」
存じません、が来た。この屋敷でいちばん厚い壁だ。
向かいの椅子では、クレイス・ヴァルドレイがもう自分の皿の前に座っている。いつもの姿勢。いつもの無表情。目はこちらを向いていない。
「閣下」
「なんだ」
「俺の席に、皿が増えているんですが」
「そうか」
「そうか、では困るんです」
「なぜだ」
なぜだ、と真顔で聞かれると、こちらの理屈のほうが薄く感じられてくる。それでも言うべきことは言う。俺は椅子の背に手をかけて、皿を指した。
「厨房を出た皿の数と、卓に並んだ皿の数が合っていないということです。誰かが途中でこの卓に手を出せたということです。今夜は飯ですが、次は飯じゃないかもしれない」
言いながら、自分の声が急に遠くに聞こえた。
毒は皿に乗る前に入る。俺はそう考えて厨房まで見に行った。でも乗ってから卓に着くまでの道にも人の手は届く。俺は工程の後ろ半分を、丸ごと見落としていた。
厨房から食堂までの道を頭の中で歩き直す。配膳の廊下、階段の踊り場、食堂の扉。そのあいだに手を出せる人間を数えると、両手の指では足りなかった。
クレイス・ヴァルドレイは、しばらく黙っていた。
それから、短く言った。
「冷める」
「……は」
「冷める」
二度言われた。
短い。二度言えば通ると思っている。この人の中では話がとうに終わっていて、俺の返事は最初から入る場所がない。冷める、というのは、つまりそういうことだ。
俺は座った。
座って、いつもの手順を始めた。匂いを取る。角のない塩の匂い。羊の脂が立ちのぼって、鼻の奥にまろやかな重さが残る。汁の色は澄んでいる。銀の匙を沈めても縁は白いまま。
ひと匙。
塩が舌に乗って、羊の脂が後ろから追いかけてきた。
うまい。
声が出そうになって、俺は口を押さえた。塩の抜き方が丁寧で、羊の臭みが一つも残っていない。豆は形を保ったまま芯まで火が通っている。厨房で包丁を突き立てられた日、俺はこの人の腕がいいと思った。あの評価は低すぎた。
半月ぶりの、まともな食事だ。前世の記憶を全部足しても、この一口の上に来るものはそう多くない。目の奥が急に熱くなってきたので、俺はそれを羊の脂のせいにすることにした。
顔を上げると、こちらを見ている目とぶつかった。
目が合った瞬間、その視線は自分の皿へ戻っていく。速い。この人は皿を取り上げるときも速いが、目をそらす速さでも記録を持っている。
「閣下。この皿、どなたが」
「食え」
「答えになっていません」
「食え」
三度目が来る前に俺は匙を動かした。
厨房へ行ったのは、食器が下げられた後だった。
竈の火が落とされて、鉄鍋が壁のほうへ寄せられている。夜の厨房は昼と匂いが違う。油と塩の匂いに、消し炭の匂いが混ざって沈んでいた。
ドランさんは一人で残って、まな板を砂で磨いていた。
「何の用だ、毒見役」
「今夜、卓に出した皿の数を教えてください」
手が止まった。
「なんだと」
「厨房から出た皿が何枚か。俺の席に、勘定に入っていない皿が一枚ありました」
ドランさんは布で手を拭って、壁ぎわの棚を顎で示した。棚には木札が下がっていて、そこに刻みが入っている。
「食器の出入りは全部ここで数える。俺の勘定に狂いはねえ」
「じゃあ数えましょう」
「お前が数えるのか」
「二人で数えます。俺が数えて、ドランさんが確かめる。逆でもいいです」
しばらく睨まれた。それから、この人は木札を棚から外した。
俺たちは無言で皿を並べ直した。白い陶器が7枚。銀器が2組。汁物の鉢が3つ。
数えるあいだ、ドランさんは一言も口を挟まなかった。俺が声に出した数を、太い指で木札の刻みを撫でながら追っていく。この人は数える作業を軽く見ない。前世の工場で信用できた相手も、決まってこの手つきをしていた。
刻みと突き合わせていくと、数字はきれいに合っていく。合っていくのに最後で止まった。
「一枚多い」
「多いな」
ドランさんの声が低くなった。怒っている声だ。今回にかぎって、その怒りは俺のほうを向いていない。
「うちの棚に、こんな皿はねえ」
「ないんですか」
「同じ窯のもんじゃねえ。裏を見ろ」
言われて、増えていた皿を裏返した。他の皿には焼き印が入っているのに、この一枚だけ何も押されていない。
厨房のものではない、という意味だ。
「本館の食器棚か。あそこは俺の管轄じゃねえ」
「誰が出せるんですか」
「侍女頭。あとは、当主だ」
言い終わってから、ドランさんは自分の言葉を噛んだような顔をした。
俺も同じ顔をしていたと思う。
マレンさんは「わたくしではございません」と言った。あの人は嘘をつかない。だとすると残りは一つで、残った一つは、皿を取り上げるほうの人だ。
「……そんなわけないですよね」
「知らん」
「知らんって」
「知らんもんは知らん。俺は鍋の話しかできん」
鍋の話しかできない、という言い方が引っかかった。この人は答えを持っていて、口に出さないことに決めているのかもしれない。
ドランさんは木札を棚へ戻して、砂の布を握り直した。話は終わりだという合図だ。なのにこの人は続けた。
「毒見役。お前、痩せたな」
「え」
「痩せた奴が味を見ても、当てにならん。腹が減ってると、なんでもうまい」
「……ドランさん。今夜の羊、うまかったです」
砂の布を握る手が一瞬だけ止まった。
「腹が減ってたんだろ」
「減ってました。それでもうまかったです」
返事はない。背中は動かないまま、まな板を磨く音が夜の厨房に戻ってくる。
俺は厨房を出て、暗い廊下を歩いた。竈を落としたあとの匂いが、しばらく背中についてくる。
使用人棟の窓に灯りがついている。トビが起きて待っているのだろう。今夜は分けてもらう余りが要らなくなったと報告したら、あいつはどんな顔をするだろうか。
皿を一枚増やせる人間は、皿に一匙足すこともできる。それはこの屋敷の穴で、俺が今夜見つけた仕事だ。
でもその穴を通って俺の席に来たのは、毒ではなく夕飯だった。
誰が置いたのかは分からない。分からないまま、俺の腹はあたたかい。
これからは皿の裏を先に見る。焼き印のない皿がもう一枚出てくるなら、それは事故じゃない。




