第2話「泥の味しかしない、と言われても」
毒見役が厨房に入ると包丁の音が止まる。
俺が扉をくぐった瞬間、まな板を叩く音が消えた。鍋をかき混ぜていた手が止まり、下働きの少年が壁ぎわまで下がる。歓迎されていないどころではない。空気が俺を避けて壁を回っている。
ヴァルドレイ邸の厨房は、天井から鉄鍋が15個ぶら下がっている。竈は3つ。奥の壁ぎわに樽が並んでいて、その一つひとつに焼き印で塩の産地が押してある。海が近い領地の台所は、まず塩の置き場から始まるらしい。
「何の用だ、毒見役」
声のほうを見ると、太い腕が腰に当たっていた。ドランさん。料理長。44歳。人相の説明はいらない。この人は自分の顔で「帰れ」と言える。
「今日の献立を、先に教わりに来ました」
「知ってどうする」
「材料の入りと、仕込みの順番を知っておきたいんです。どの鍋に何がいつ入ったかを把握しておけば、味を見る前に半分は分かります」
言い終わる前に、包丁がまな板へ突き立った。
乾いた音が厨房の天井にはね返って、鉄鍋がかすかに鳴る。俺の肩がびくりと上がったのを、たぶんこの場の全員が見た。
「俺の厨房を疑うのか」
「疑います」
言ってしまってから、しまったと思った。前世の癖だ。品質管理の人間は、疑うことを謝らないよう訓練される。工場長に嫌われるのが仕事の一部だった。それを異世界の料理長相手にそのまま出したら、どうなるかは考えるまでもない。
「疑うのが、俺の仕事なので」
「毒見役なんぞ、この20年で何人来た。何人辞めた。誰ひとり俺の鍋の中身を当てられた奴はいねえ」
「一昨日、当てました」
厨房が静まった。
「杏のコンポート。種を割ったときの匂いが立っていました。汁の底に沈殿もありました。あれは煮た後に混ぜられたものです。ドランさんの仕込みじゃない」
太い眉がほんの少し動いた。
「……誰の仕込みだと言いたい」
「分かりません。分からないから、工程を見せてほしいんです」
「工程だと」
「材料が入り、下ごしらえをして火にかけ、器へ移る。どこかで必ず人の手が触ります。触った回数の少ない皿ほど安全で、多い皿ほど危ない。俺が知りたいのはその回数です」
ドランさんの目が、俺の顔を正面から見た。値踏みの目だ。この人は職人で、職人というのは言葉より手順の話に反応する生き物だと、前世の工場で覚えた。
「俺の鍋に、余計な手が触ったことはねえ」
「今のところは、そうだと思います」
「今のところ、だと」
値踏みの目が一瞬で戻った。職人の顔から、追い出す側の顔へ。
「出ていけ」
「ドランさん」
「出ていけと言った」
もう一本の包丁が抜かれて、俺の手が勝手に動いた。
逃げるための動きだ。前世から通算して、俺の体でいちばん優秀な部品は足だった。半歩下がって、指が卓の縁に触れて、そこで止まる。
止まったのに震えが止まらない。
卓の縁に当てた指が自分の意思と関係なく跳ねている。唾は喉の途中で止まったまま下りていかない。怖いものは怖い。そこは認めるしかない。でもそれを人に見られるのは俺の人生で二番目に嫌なことだ。
俺は手を後ろへ回した。
回しきる前に、厨房の空気が変わった。
全員の顔が俺の背後を向いている。
「閣下」
誰かがそう言って、鍋のふたが勢いよく閉められた。ドランさんの包丁が、音を立てずにまな板へ戻る。
扉のところにクレイス・ヴァルドレイが立っていた。公爵が厨房まで下りてくるという状況が、この屋敷では相当めずらしいらしい。下働きの少年は息を止めている。
この人の視線がまっすぐ俺の手のあたりへ落ちた。
後ろに回した、と自分では思っていた手だ。回しきれていなかったらしい。
「ドラン」
「はっ」
「今夜の煮込みの塩は、どこのを使う」
誰も予想していない質問だった。俺も予想していない。目の前で料理長と毒見役が殴り合う寸前だったのに、この人が口にしたのは塩の産地だ。
「……東の入り江のを、と考えております」
「そうか」
それだけ言って、クレイス・ヴァルドレイは踵を返した。廊下の奥へ足音が遠ざかっていく。
厨房に残されたのは、行き場をなくした殺気と、鉄鍋の揺れる音だけだった。
ドランさんは包丁を布で拭いて、俺のほうを見ずに言った。
「……仕込みは、朝の鐘から始まる」
「え」
「二度は言わん」
背中を向けられた。話が終わったという意味なのは分かる。でも追い出されたのとは少し違う。
井戸端に着くころには、震えは指の付け根まで下がっていた。
中庭の井戸は屋敷の裏手にある。石の枠がすり減って、縄の通り道だけが白く光っている。水を汲むと桶の底で光が跳ねて、夏のはじめの日差しがまぶしい。
俺は銀の毒見皿を桶の水にひたして、砂で縁をこすった。曇りを見る道具が曇っていたら話にならない。汲みたての水は鉄気の匂いがして、砂を噛ませるたびにその匂いが濃くなる。
「ユエル、厨房で刺されかけたって本当?」
トビが洗い物の籠を抱えて走ってきた。屋敷の噂は水より速く回る。
「刺されてない。突き立てられただけ」
「同じじゃん」
「ぜんぜん違う。まな板と俺だと、生存率が違う」
トビは笑いながら籠を置いて、井戸の枠に腰かけた。俺は皿の水気を拭いて、日にかざす。銀は磨けば白く光る。この白さが俺の商売道具になる。
「なあトビ。ゆで卵、まだ残ってる?」
「朝の余りならあるけど。食べるの?」
「見せたいものがある」
黄身をほんの少し指でとって、銀の縁に塗りつけた。しばらく待つ。日差しの下で、白かったところがうっすら灰色に沈んでいく。
「うわ、汚れた」
「汚れたんじゃない。反応してる。銀ってのは、特定のものに触れると黒くなるんだ。塩に混ぜる種類の毒も同じ反応をする。だから毒見皿は銀なんだよ」
「じゃあ皿を見てれば分かるってこと?」
「その種類はな」
俺は指を折って数えはじめた。整理しておかないと、いざというとき順番を間違える。
「一つ目、匂いで分かるやつ。杏の種みたいな匂いが立つ。煮汁が濁って、置いておくと底に沈む。一昨日のがこれ」
「うん」
「二つ目、銀が黒くなるやつ。匂いはしないけど、道具が教えてくれる。舌の先に金気が残ることもある」
「じゃあ二つとも分かるんじゃん。ユエル、すごいね」
すごくない。折った指が2本で止まっているのが、さっきから気になっている。
「トビ。もし、匂いもしなくて、色も濁らなくて、銀も黒くならない毒があったら、俺はどうやって見つける」
トビはきょとんとして、それから首をかしげた。
「……見つけようがなくない?」
「そうだよ」
言葉にすると、背中の汗が急に冷えた。
俺の武器は前世の知識だ。異臭と変色。粘度と沈殿。全部、五感に引っかかるものを拾うための技術でしかない。引っかからないものが来たとき、俺の手には何も残らない。
「まあ、そんな毒はないと思うけどな」
自分で言って、自分で聞き流した。ないと思う、というのは、あるかどうか知らないという意味だ。品質管理の現場でいちばん危ない言い方を、俺は今、自分に対して使っている。
「ユエル、閣下って本当に味しないの? みんな言ってるけど」
「泥の味しかしないって、本人が言ってた」
「うわあ。じゃあドランさんが泣くね」
泣くだろうな、と思う。20年ぶんの鍋を、味の分からない相手に出し続けている人だ。今日あの人が俺に見せた怒りの半分くらいは、たぶん毒見役に向いたものではない。
「ユエル。閣下ってさ、なんで食べるんだろ。味がしないなら、食べなくてもよくない?」
答えを持っていない質問だった。人は腹が減るから食う。でもあの食卓には、腹が減った人間の速さがない。決められた量を決められた時刻に体へ入れる作業を、毎日3回くり返しているように見える。
桶の水をひっくり返して、井戸端の石を洗い流した。
銀は磨けば白くなる。黒くなれば知らせてくれる。よくできた道具だ。
よくできた道具が何も言わない日に、俺は何を持ち出せばいい。




